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パートナー

作者: 夜長 錬

 

 やあ、おはよう。いい朝だね。

 君の見ている空が、素敵な色を映していれば何よりだ。

 残念ながら、ここから空は見えないけれど、そうだね、きっと悪くないのだと思う。ここのね、そう、うんと、縁がね、きらきらしているようだから。外がきらきらしている日は、大概からっとした気持ちのいい空気が部屋を満たしていて、「主」が窓を開けたときには、澄み切った空の青が飛び込んでくるのだ。

 実は反射して眩しいったらないのだけれど、それも含めてけっこう気に入っている。「主」は……どうだろう。あまり嬉しそうではないのはわかる。でも、雨の日も曇りの日も雪の日も風の日もそうだから、きっと「主」にとって、天気はさして重要ではないのだろう。

 ああ、そうこうしているうちに、その「主」が起きたようだよ。

 大きな白いシーツの中から、頭だけ突き出して、枕に顎を乗せ、こっちを睨みつけるようにしている。

 主は朝が早いわりに、寝起きはとても悪い。しばらくその体勢のまま、目を閉じたり、うっすら開いたりしていた。

 しばらく経って、ぼさぼさの黒髪を鬱陶しそうにかき上げたら、ようやく主のスイッチが入った合図だ。不機嫌そうな表情は変わらないけれど、こればかりは仕方ない。もそもそ、とあまりシーツを乱すことなく起き上がって、あくびを一つ。そして腹を掻きながら、扉の奥へと消えていった。

 しばらくは戻ってこないだろうな。

 え? なぜかって? 簡単だよ。

 あの扉の向こうではね、主は毎日、朝の支度、とやらをしているからさ。それがけっこう時間のかかることらしい。でもそれが済んで戻ってきた主は、さっきのぶうたれた顔が嘘のようになるんだ。あそこにはきっと、彼の眠りを覚醒させる装置のようなものが存在しているに違いない。まあ、見ておいでよ。

 時計の長いほうの針が、一から七へ動いたころ、主は再び姿を現した。黒いTシャツに、ベージュのチノパンを履いている。タオルをかぶって、髪を拭く手つきは少し乱暴だ。もう片方の手にはペットボトルが握られていて、主はベッドに腰かけるやいなや、ごくごくと美味しそうにそれを飲んだ。半分くらい一気に飲みほして、ふう、と息をついた主はなんだかとても気持ち良さそうだ。タオルを首にかけたら、ほら、ようやく顔が見える。

 ね、言ったとおりだろう?

 さっきとは全然違う。少し目つきは悪いけど、なかなか整った容姿だと思うんだ。君にとってもそうだったら、嬉しいな。

 さて、ここからが問題だ。

 支度の済んだ主は、いくつかのパターンからひとつを選択する。パターンによって、こちらの過ごし方も変わってくるから、少し緊張する瞬間なのだ。

 たとえば、もう一眠りするのなら『たいくつな時間』、机に向かうのなら『活躍のとき』、違う部屋に行ってなにかをするというのなら『気分次第』だ。今日はいったいどれだろう。

 主はベッドの端に腰かけたまま、しばらくぼおっとしていた。虚ろにも見える視線が、ベッドから、机の上を埋め尽くす紙束、時計、壁、本棚、と動いていく。それがふと、窓に向いたとき、ぴたり、と動きが止まった。

 やった!

 止まった瞬間、主は選択したのだ。

 主はペットボトルの中のきらきらした水を一気に飲み干し、タオルを椅子にひっかけて。それからようやく――「僕」を掴んだ。僕はもう一度、やった! と思った。なぜって、たまに置いて行かれることがあるからなのだ。

 今日は連れて行ってもらえる。何日かぶりの『冒険のとき』だ。



 冒険といっても、ルートはいつも決まっているのだけれど、そんなことは気にならない。いつも主の部屋で同じものばかり見ている僕にとっては、外の世界は未知なるものに満ちあふれているからだ。

 主は今日みたいに、太陽が完全に昇る前の静まりかえった街を歩くのが好きだ。僕はシャツの襟のあたりで揺れながら、空の色を見るのが好きだ。今日は雲が糸を引くみたいにたなびいていて、群青色や藤色や薄い桜色なんかが混ざり合っていた。冒険に出るたびに、いつも違う色を見せてくれるのでわくわくする。

 主はゆったりとした足取りで、大きな道路の真ん中を行く。昼になると車がたくさん通るところなので、独占しているみたいで気分がいい。

 ああ、そうこうしているうちに見えてきた。

 あれは主がいつも入るコンビニだ。実は僕、あそこがあまり好きじゃないんだ。だって、ほら、なんていうか、すごくぶしつけな光だと思わないかい? 陽の光よりも眩しくてちかちか反射するし、僕の好きな空の色だって霞んでしまう。それに、うんと、うんとね……うん、僕より便利なものがたくさんそろっているんだもの。少し妬いちゃう。

 でも嬉しいことに、主はそれらの魅力あるものたちを全部無視して、缶コーヒーひとつと新聞、それからタバコをひと箱だけ買った。買うものもいつもと同じだ。それを確認するたび、僕はくすぐったいような誇らしいような気持ちになる。彼が僕の主でよかった、と心底から思うのだ。

 それから彼の足は、お気に入りの公園へ向かっていく。住宅街の中にあるからか、大きめの敷地で、木や花がたくさん植えられている。ぐるっと囲むように散歩道も作られていて、主はそこをいつもぷらぷら歩く。昼は子供やその母親たちで騒がしいけれど、今は深い森の中にいるみたいに静まりかえっていた。

 主が道の途中で休憩をとったのは、それからしばらくのことだ。まだ薄暗い道の中にぽつん、と置かれた木のベンチに腰かける。コーヒーのプルトップを開けて、ひとくち飲んでから深く息を吐いた。

 頭上に広がる木々の枝葉をぼんやり見上げている主が、なにを考えているかはわからない。ひょっとしたら、少し疲れているのかもしれない。僕はひっそり思った。

 主は最近、夜遅くまで起きて悩んでいることが多い。僕はいつも傍にいるけれど、彼の悩みを聞いてあげることも、アドバイスをすることも出来ないから、誰かそんなひとが来てくれるといいなあ。いやだな、僕まで溜息をつきたくなってしまう。



 もしかしたら、ずっとそのままの体勢で石になってしまったかもしれない主を動かしたのは、無遠慮な、がさがさ、という音だった。主が微かに肩を震わせたのが、僕にもわかった。ベンチの裏、植えられたつつじの茂みが揺れている。最初はちいさな揺れ方だったのが、左に少しずつ揺れが移動していくにつれて、大きくなっていくようだった。

 主はそっと立ち上がった。自分からはなにも音を生み出さないように、細心の注意を払っていた。ベンチの裏にゆっくりと回り込み、茂みの上から覗き込むようにして音の正体を見つけた。

 二匹の猫が交尾をしていた。

 上の黒い猫が、逃げようとする白い猫を押さえつけようともがいている。今にも逃げられてしまいそうなその瞬間、黒猫が相手の首筋にがぶりと噛みついた。すると不思議なことに、暴れていたのが嘘みたいにおとなしくなった。

 主が僕を襟から引き抜いたのはそのときだった。僕をかけたかと思うと、主はじっと二匹の猫を見つめ始めた。先ほどの覇気のない彼はどこにもいない。睨みつけるみたいな鋭い目は、彼が熱中している証拠だ。

 僕はそんな時、今みたいに主の目が少しでも細かいものを見ることが出来るよう手助けをする。僕が活躍できる一番の瞬間、一番わくわくする瞬間だった。

 二匹の猫は時折唸り声を上げながら、身体を寄せつけあっていた。僕らのことなんて全く眼中にないようだった。そうしてしばらく身体を揺らしていたと思ったら、白猫が潰れたようなひときわ大きな叫び声をあげて、黒猫を引き剥がし、あっという間に駆けていってしまった。置いて行かれた黒猫の姿がなんだか小さく見える。

 主が僕を外し、また襟にひっかけた。もう興味がなくなったのだろうか。そう思ったけれど、どうやら違ったみたいだ。主の目はまだ熱を失わず、なにかを見つめていた。これは僕では手助けできない。主はたまにこうして、見えない何かを見つめていることがある。そんな時僕は、さっきのわくわくはどこへやら、とても寂しい気持ちになるのだ。つまらないなあ。



 それからの主の行動は早かった。落とした新聞を拾い、コーヒーを一気に飲み干して、煙草も吸わずに元来た道を戻っていく。行きはとてものんびりしたものだったのに、大股でただひたすらに家を目指して歩いた。途中、犬の散歩をするひととすれ違ったけれど、まるで眼中にないみたいだ。空はもうすっかり太陽が昇って、にぎやかな一日が始まろうとしていた。

 エレベーターをのぼり、部屋の鍵を開ける。出てきたときとなにも変わらないそのままの状態が飛び込んでくる。紙がそこらじゅうに散らばっていて、机の上にはパソコンとたっぷり盛られた煙草の吸殻がある。あとは本ばかりだ。床にも机にも棚にもベッドにも、埋め尽くしてしまいそうなほど本が置いてある。その中には、主と僕で長い時間をかけて作り上げたものも何冊かあるだろう。その僕が言うのもなんだけれど、かなり汚い部屋だ。

 主はそれには目もくれず、そばのふくらんだベッドに乗っかった。シーツをめくると昨日からそこに居る、もうひとりのヒトの、乱れた髪が見えた。しばらく、うぅん、とか唸ったあと、寝起きのか細い声が、どうしたの、と呟いた。白くてきめ細やかな肌をシーツが滑っていく。


「やっといいネタを思いついたんだけど、ちょっと実践してみたいんだ」


 主は逸る気持ちを抑えきれないみたいに、彼女の耳元で囁いた。かと思うと、僕を襟から外して元の位置に戻した。『冒険終了』の合図だ。今日は早かった。猫にさえ会わなければきっと池のほうまで行けたのに。あーあ、がっかり。

 女の人が、「え、待って、今から?」とびっくりしたような声を出して、抵抗していたみたいだけれど、それは結局全部シーツの中に吸い込まれてしまった。僕は積まれた本の間から、小刻みに揺れる白いふくらみを見つめる。そのうちさっきの猫みたいな叫び声が飛び出すのかなあ。

 僕は退屈すぎて、あくびをしたい気持ちだった。残念ながら主のような口はないので、僕はただこの『たいくつな時間』が早く終わり、再び『活躍のとき』が来るのを祈るしかない。



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