時計屋フランビル #1
清廉にして豪奢のロールスイス家。
寡黙にして豪毅のシェルラオス家。
烈火にして豪勇のウェハレユニオン家。
この国における三大貴族がひとつ、ロールスイス家のひとり娘、レガリア・ロールスイスと私の関係性を簡潔に表すならば――それは主と使用人だった。
だった、である。
もともとホロゾワッソ家は、ロールスイス家に仕える家系だった。
そして、今は町で『時計屋』と渾名されるこの私――フランビル・ホロゾワッソも、その例に漏れず、仕えていた。
幼少の頃から、同年の少女に。
家にではなく、たったひとりに。
レガリア・ロールスイスただひとりに仕えていた。
彼女が二十五の歳。私は主――レガリア・ロールスイスを説得しなければならなかった。それに失敗したことが、彼女の今の暮らしと、自分が彼女の使用人でいられなくなった原因と言っても過言ではないのだから。
その時自分が彼女の気持ちよりも、彼女の幸せを優先することさえできていれば――仮にできていれば、もしかしたら彼女は埃にまみれた納屋で生活する事にはならなかったはずだから。
あの日、もう九年近くも前。その時も彼女は、「ごめんなさい」と。たったひとことしか言わなかった。もちろんその時は、自分がレガリアに求婚していたわけではない。同情がなかったかと言えば――当時から彼女は辛そうにしていたし――嘘になってしまうが、それより何より、私にあるのは忠義の心だった。
その心がいったいいつから芽生えていたのかわからないし、友情との違いも、家族愛との違いも、恋心との違いもきちんと区画整理できているわけではなかった。しかしそれは重要なことではなかった。
それがどんな感情だったにしろ、私には、レガリアにその件について受諾させることができなかった。
三大貴族の一角。
寡黙にして豪毅の貴族。
この国の経済の中核を担う一族のひとり。
コバルト・シェルラオスとの婚約を、受諾させることができなかった。
彼は誰が見ても――私から見ても、すばらしい人物だった。
レガリアのことも最大限に慮ってくれていたし、権力も能力も地位も出生も人格も、そして努力も、全てに於いて頭抜けた人間だった。
家同士のつながりとしても、それは大きな意味があった。
これまでは、ひとくくりに三大貴族と誇称されつつも、どの家も関係性はそれほど密接ではなかった。なぜなら、その三つの貴族は、違う力をもって繁栄をしてきたからだ。
ロールスイスは文化の中心に。
シェルラオスは経済の中心に。
ウェハレユニオンは政治の中心に。
根を伸ばして大貴族となった。
ぶつかりあうこともなければ、つながりあうこともなかった。
だからこそ――互いに牽制しあうことがなかったからこそ、三大貴族とまで言われるようになったとも言えるが――ここへ来て、大きな力を持ったところで、さらにつながりを作れるチャンスというのは、両家にとって貴重なものだった。
はずだ。と私は思っていた。
理解していた。
だから、本来ならば、死力を尽くし、言葉を尽くして、レガリアを説き伏せなければならなかったし、実際にそれは、不可能なことではなかったと今でも思っている。
ただ。
「ごめんなさい」
と言った言葉は、あまりにも弱かった。
彼女が船乗りの彼との約束を大事にしていることは伝わってきたが、同時に、それが簡単に折れてしまいそうなほど弱っていることも――伝わってきた。
説得すれば折れる程度に弱っていると、わかった。
つまりそれはもう、彼女の選択ではなかったのだ。
全ては私が本気で説得するかどうかで変わっていたことで――つまり、彼女の未来の選択を迫られたのはあろう事か、本人ではなく使用人の自分だった。
そして私は、きっと選択を間違えた。
彼女の心は、もっと早く折っておくべきだったんだ。
だけどできなかった。
もしかしたら私はその時、選択の責任なんてものを考える必要はなかったのかもしれない。選択肢があったとは言っても、私は初めから「レガリアを説得するように」と、ロールスイス家の頭首から直々に命を受けていたのだから。
だから、彼女の心を折る選択をしたところで、それは自分の意志ではなかったと、いいわけをできたはずだった。
それでも、できなかったのは、やはり自分の未熟さなのだろう。
取り返しの付かない未熟さだ。
私は、「レガリアを想う」という言葉の意味を履き違えていた。そう認めざるを得ない。
けれども。
それでも。
今のレガリアがあるのは。
二十五歳以降のレガリアがあるのは私の責任だとしても。
そもそも、あんな悲しい表情で彼女に「ごめんなさい」と言わせたのは。
「あれ……君は確か、レガリアの使用人の」
あんなに心が弱る原因を作ったのは。
「フランビル……フランビルじゃないか」
若い船乗りの男。
レガリアが言うに、頭が良く、心優しく、夢を持っている。
根無し草の放浪人。
約束の人物、ロット。
「なぜ貴様がここにいる!」