レガリア #3
十代の頃。
港で若い船乗りに「愛している」と言われ。
港で若い船乗りに「愛している」と言って。
私は、その時を、人生の折り返し地点と呼べるだけの歳になってしまった。
古くから付き合いがあり、今は町の時計工場で働くフランビル・ホロゾワッソは言った。
「レガリア、もうそんな君の姿は見るに耐えないんだ。頼むから、あの船乗りとの約束は破って、忘れてくれ」
「できません」
「どうしてだ。なぜ名家、清廉にして豪奢の貴族と謳われるロールスイス家のひとり娘の君が、家を追いやられ、こんな家畜の住むような場所で寝泊まりし、安い賃金を稼ぐために脚を棒にしている。お願いだから、僕との結婚を受け入れてくれ」
私は、藁のベッドに手を付き、体を起こした。
昨日は無理を言って、採石場で仕事をもらったのだ。
けれど、私には向いていない仕事だったらしい。どうも、疲れが取れない。
「フランビル……あなたは」
私には、若い船乗りとの、あのときの自分の感情をうまく思い出すことはできなくなっていた。
それは、当然の事なのかもしれないし、もしかしたら、ものすごく薄情な事なのかもしれない。
初めての人生だ。そんなことは判断できなかった。
けれど、私にも絶対に守りたいものや、忘れてはいけないと、心に決めていることがある。
「……あなたは。私と、……同情で結婚すると言うのですか」
「レガリア。僕は確かに君に同情しているよ。だけど、そんなことがどうしたって言うんだ。私は君に同情できるから結婚したいと思うんだ。これは誰にでもできることじゃないはずだ」
そうかもしれない。
壁に手を付きながら立ち上がった私の肩を、フランビルはそっと支えた。
「なあ、レガリア。僕は思うよ。いったい誰が、同情より愛情の方が、深くて大切なものだなんて決めたのかって」
この僕の気持ちはどうすればいいんだ。
君を大切に思う気持ちに偽りなんてないのに。
彼の言葉は、とてもまっすぐに、私の心を揺らした。
そこまで言えるのならば、それはもう愛情ですよ。と、私は口には出さなかった。
彼がそれを自覚してしまったら、きっと私を救うために手段は選ばないと思うから。
私だって、フランビルに辛い想いなんてしてほしくはないのだ。
もしかしたら、それは自分勝手な言い分かもしれない。
自分はこんなに辛い道を生きているのに、周囲にそんな「苦しんでいる姿を見て見ぬ振りしろ」と言っているようなものなのだから。
私と、フランビルの立場が真反対だったとしても、私は同じように彼を助けたいと思っただろうし。
だからこそ、私はもっとうまくやらなければならなかった。
家を追い出されてはならなかったし。
幸せに生きなければならなかったし。
こんな風に同情されてはならなかった。
こんな時に思い出すのは、いつも祖父の言葉だった。
レガリアちゃんや。成し遂げると言うことは、とても辛いものなんだ。
誰も辛い思いや不安なんてほしくはない。
だけど私は、自分が「苦しまないために生きるのか」と問われたとき、自信を持ってうなずくことができない。
「じゃあ、おじいさまは苦しむために生きているの?」
それもきっと違う。
たぶん、私たちは、自分の信念を試すために苦しむんだ。
「信念とはなんですか。おじいさま」
信念はよく槍に例えられる。
けれど私はそれを柱に例える事にしよう。レガリアちゃんに槍は似合わないからね。
それに、信念というのは、貫き通すというより、心を支えるものであるべきだと思うからね。
「よくわかりません」
そんな顔をするなよ。わからないことは悪い事じゃないんだから。
心っていうのは、思ったより簡単に挫けるんだ。簡単に挫けるし、転ぶし、折れるし、壊れる。
そんなとき、崩れた心で自分の大切な気持ちを押し潰してしまわないように支えるのが信念の役割なんだと、思うんだよ。
「へぇ。それはすばらしいことですね」
わかったフリもするなよ。言っているだろう、わからないことは悪い事じゃないんだって。
「おじいさまの話は難しすぎます」
わかったわかった。
じゃあ簡単に言うよ。
レガリアちゃん。
自分の気持ちは、大切にするんだよ。
それは自分にしかできないことなんだから。
「フランビル」
同情より愛情の方が大切だと決めたのが誰なのかわからないし、真実かもわからない。
だけど、それはどっちでもよかった。
例え、フランビルの気持ちが同情じゃなくて愛情になっていたんだとしても。
私の、船乗りさんへの気持ちが愛情で。
フランビルの私への気持ちが同じ愛情でも。
どっちでもいいことだった。
私の気持ちは、私にしか守ることはできないから。
昔の感情を今はうまく思い出す事すらできないのだとしても。
まるで昔の自分を他人のように感じることがあったとしても。
それでも、私にしか、その気持ちは守ることはできない。
できないから。
「ごめんなさい」
そう、ひとことだけ言った。
自分の声は弱々しかったけれど、私の決心をきっとフランビルなら理解してくれるという、確信はあった――いや、これは信頼かもしれない。
「そうか。……僕には、君を救うことはどうしてもできないんだね」
彼は、私の肩から手を離し、「邪魔をしたね」と納屋から出た。
その背中を眺めながら、思った。
私は非道い人間だ。
フランビルは少しだけ振り向いて。
「助けが必要になったらいつでも言ってくれ」
と言った。
そのひとことのおかげで、私たちの関係性は途切れないで済んだような気がした。
それからひと月も経たない内だった。
私は、もう十年も前に『タンデンストッカー号』が嵐に呑まれ、大破し、大陸に打ち上げられていた、というニュースを知った。
それは、若い船乗りが乗る船だった。