レガリア #1
どこかから声が聞こえてくる。
心地のいい、若い船乗りの声。
「レガリア。レガリア・ロールスイス、ここにはいないのか」
彼は私を探しているらしい。
私が返事をしなければ、草の根を分けてでも私のことを探し出してくれるだろう。そんなのもいい。私はこの日当たりのいい白いベンチに横になり、彼が現れるのを待つ。それだけで、なんだか美しい結末のある童話のようだ。
けれど、私は意地の悪いことをしたいと思う気持ちは多少あれど、文字通りに草の根を分けてなんて、薔薇園でする事ではないだろうと、彼の呼び声に応える事にした。
きれいな薔薇には棘があるけれど、なにもそれは、大切なヒトを傷つける為にあるのではないのだから。
「私はここにいますよ、船乗りさん」
「ああ、そんなところに居たんだね。レガリア……ここにはよく来るのかい」
「ええ。ここの薔薇園は、私の家で管理しているの。私が育てている花もあるのよ……ほら、ちょうどあなたの後ろの花壇に赤い蔓薔薇があるでしょう」
「ああ、本当だ。なんとも豪快な花弁の薔薇だね」
「ふふ、そうでしょう。その蔓薔薇、『ダイナマイト』って名前なの」
「君が名付けたの?」
「いいえ。そういう種類なのよ」
「へぇ。学者にもユーモラスなヒトがいるんだね」
「ふふ、船乗りさん知らないのね。学者というのは、誰よりもユーモアのある方がなるものなのよ」
彼は腕組みをして首を少しだけ横に傾げた。
そして気難しい顔をして言う。
「けれど、俺の今まで出会った学者という者たちは、皆頭の堅い者ばかりだ」
「いいえ」
と私は言った。
私は、植物学者の祖父に、昔聴かされた話をなるべく丁寧に思い出しながら伝える。
「あなたの知っている学者というのは、『学者という職業に就く人間』の事なのです」
「それは当然そうだよ、レガリア」
当惑。という面もちでうなずく若い船乗りさん。
この話を祖父から聴いたとき、私もこんな表情をしていただろうか。少しだけ可笑しい。だけど、あまり高慢に、上から目線にならないよう心懸けながら。
「『学者』というのは、人間とは異なった生き物なのですよ。『学者をする人間』と、『学者という生物』には、決して越えられない境界があるの」
「それは、精神論だろうか」
「どうでしょう。おそらくそういう一面もあるのでしょうけれど、それだけでもないのだと思います」
聞き返されると、自分も聞かされた話なのでうまく説明するのが難しいところだった。祖父に聞いたときには、それは納得のできる話だったのだけど。
なかなか物事を上手に伝えるというのは難しいものだ。
知っていることを喋るのなんて、誰にでもできる。けれど、知っていることを知っている通りに伝えることは、多くの知恵が必要なのだと思う。
私が、頭の回転の悪さにコンプレックスを感じていると、「それはつまり」と、考え込むように彼は言う。
「プロフェッショナル。ということかな」
「……」
「違ったかな」
「いえ」
なんだか、私の難しく考えていたことを簡単に説明されてしまった気分だ。
たぶんその答えは百パーセントではない。
けれど、何も百パーセント伝えなければ、理解し合えないと言うことでもないのかもしれない。
今私が、言いたいことをわかってもらえた感触を、確かに感じてしまったから、そう思った。思えた。
「あなたは、頭がいいのですね」
「やめてくれ、ロールスイス家のお嬢様にそんなこと言われても、嫌味にしか聞こえないよ」
「そんなことありません。私なんて、知識をたくさん身につけているだけで、何の役にも立たないもの。船乗りさんみたいに頭の良い方には、憧れてしまいます」
「そんな事を言われると照れるね。だけど、俺は君の知識のおかげで、これからは学者を誤解しないで済むんだ。なにも役に立たないなんて事はないよ」
照れ隠しではなく、彼はそう言う。優しさの様な声だった。
そうかぁ、確かに学者も作家もアスリートも芸術家も、それに市場のパン屋のお姉さんも、一流のヒトはみんなユーモラスだ。と彼はダイナマイトの延びた蔓を見上げながら独り言のように言った。
若い船乗りは。頭が良く、心優しく、夢を持っている。
私は後ろから、そっと彼の手を取った。
彼はその手と、私を一瞬ずつ見つめ、包むような温もりで握り返した。
それは、とても幸せな出来事の様な気がした。
「明日、経つよ」
「存じております……どうか、お気をつけて」
この時が続かないことは知っていた。
もう一度来るかどうかは、わからなかった。
私にも、若い船乗りにも。
だから私たちは迷っていた。
たったひとことを。