コンプレスワールド #2
この場所のルール。
それは誰かが決めたものではないし、どこかに明記されているわけでもない。だから、ルールと言うよりは、法則と言った方が適切かもしれない。縛られる身からすれば、そんなものに大差はないのだけど。
私は今が何時かを知ることはできない。
だから、私がどれだけこの場所に居るのかも、知ることはできない。
それでも私は、私の待ち望むその時を――いつ訪れるのか、後どれくらいで訪れるのかわからないその時を待ち続ける。
それは、ほとんど常に辛いことだった。
私は「早く誰か助けてよ」と、気まぐれに、とても小さな空に向けて呟いた。
すると、壁の陰に座る牢屋番が言う。
「出たいのならば出ればいい。あなたは簡単にこの場所から出ることができるのだから」
「それはどの様にでしょう」
「さあ。僕にはわかりません」
私は、空を見上げるのすら億劫で、地面に横になった。
ただ。と牢屋番は言葉を繋げる。
「あなたがここから出ようと思えば、きっとそれは成功する」
当然の事です。とでも言うように、牢屋番はふぅと鼻から息を吐いて、一度頷いた。
なんとなく、彼の言葉は真実の様な気がした。
私はこの場所から出ることができる――のかもしれない。
「あなたは止めないのですか」
「僕の仕事は、あなたが逃げ出すのを止める事じゃあない。そんなことは誰にも命令された覚えはありませんよ。僕は、牢屋の番をするだけです」
「それは同じ事ではないのですか」
「どうでしょう。物語に登場する牢屋番の役目は、囚人に鍵を盗まれる事だと思いますけどね」
鍵を持った牢屋番がもしも初めから居なければ、囚人の脱走は成功していないのですから。と彼は言う。
壁の陰に居る彼の顔は、私には見えない。けれど、言葉尻の調子から、彼は微笑した気がした。あるいはそれは自嘲だったのかもしれない。
「それは私に、鍵を奪えということでしょうか」
「さあ。ただ、牢から手を伸ばせば、私の腰にぶら下がっている鍵を盗る事はできてしまうかもしれません」
私は考えた。
もしもこの場所を出たら。出ることができたら。
必死に見上げることもなく、あの空を見ることができる。
小さなこの私の生きる世界が、小さな小さな、世界の一部になる。
こんな場所に居なくていい。
だけど。
「だけど、そんなことはできません」
「あなたの世界は、こんなにも狭い。けれどあなたはいつでも、今すぐにでも、世界を元の広さに広げることができる。そうだとしても?」
牢屋番の言うとおり、私にはおそらくここを出ることができる。小さな世界に縛られずに生きていける。
思い切り走ったり。星座を眺めたり。夢を見たり。誰かに抱きついたり。
そういうことができる。
「それでも……だめなんです。私はいつかを待たないと」
いつなのかわからないいつかを。
訪れることが定かですらないいつかを。
ずっとここで待たなければならない。
それが、私にとって、とても正しい事だから。
「あなたは美しいヒトです」
私が黙り込むと、牢屋番はそう言った。
「あなたはとても美しいヒトです。――けれど、美しいことが幸せとは限らない」
私は空のことを考えた。それくらいしか、私には具体的に思い浮かべる事のできる物事がない。
青と赤と黒と白と。
空とは。
私にとって色の変わる欠片の事だ。
何の欠片なのかはわからない。
ここから見える空はとても小さいから、そんな風に思うだけなのかもしれないし、あるいはそれは、本当に何かの欠片なのかもしれない。
何しろ、ずいぶんと長い間こんな場所にいるから、私には空を正しく理解できる自信がない。もしも、寝て起きて、この小さな世界の天井が紺碧に塗られていたら、私はそれを『空』と呼ぶかもしれない。
もしそうなら、それはとても悲劇的だ。私は唯一の喜びを失う事になる――時間が進んでいることを実感できなくなる。ならば今の内に定義してしまった方がいい。あの小さな欠片だけを『空』と呼ぶんだと。
地べたに寝転がった体勢だと、無理に首を捻らなくても、『空』を見ることができると気が付いた。橙の欠片だった。
私は不思議に思う。
どうして青と黒のグラデーションの中間地点に橙があるのか。
それは、変わらないものと、一瞬で消えてしまうもの、どちらが本当に美しいのかという問いに似ている気がした。
「重要なことはヒトそれぞれです。あなたにとって重要なことは、美しくあることと、幸せであること、どちらなのでしょう」
「そんなこと決まっています」
そこまで言って、口は動かなくなってしまった。
あれ、いったいどっちに決まっているのだろう。