As Tears Go By
眼鏡をかけたバーテンダーが瞳に慈愛をたたえ、わたしを見ている。
「おかわりしますか?」
カウンター越しの男は毎晩、こんな客の表情を見ているのだろう。慣れたものだ。
「します」
迷わず言った。我ながら、呂律が回らなくなっていることがよくわかる。
「大丈夫ですか」
自分から呑むのを誘ったくせに気遣いを見せるなんて、どんなテクニックなんだろうか。しかもピカピカの業務用笑顔だ。
「終電に間に合えばいいんですよ。どうせ今、ここにわたししか客はいないんだし」
わたしは言葉を投げ捨てる。酔いが回った頭で、これ以上の返しが思いつかない自分が悔しい。
「わかりました」
彼はビジネスライクに、こちらの目前にグラスを置いた。オレンジの甘い香りが、かすかに漂う。
「少しだけ、アルコール弱めにしておきましたけど」
そんな気遣いなど要らない。
言いかけたわたしに、バーテンダーは微笑んだ。その笑みは誰にでも振りまかれるものだというのは知っている。知っていて、そこに付けこんで、甘えたくなっているズルいわたしが、ここにいる。
「お月様って、全国共通なんですよね。見え方がね」
突拍子もない言葉に、彼は目尻を下げて応える。
「そうですねえ、どこにいても見上げれば同じ形で我々を見下ろしていますから」
「そうよね」
うなずいてグラスを唇に付ける。言われた通り、さっきまでとは違う。甘みが増しているのだ。まあ、いいか。文句を言わずにいただこう。
気がつけばジャズピアノの旋律が、かすかに流れていた。ささやくように聴こえてくる音の流れが、わたしをますます我侭にさせる。
「ねえ、本当に日本中で同じ形状を見れると思う?」
「思いますよ」
「……ホントに、そう思う?」
「そうですよ」
すっぱり言い切り、にこやかに微笑む目元。胸を突かれたような気がして、わたしはうつむく。
「……客の話を聞き流すのも大変ね」
バーテンダーが「ふふっ」と、空気を揺らした。
「聞き流すだなんて、とんでもない」
彼は顔を上げたわたしを見据え、噛んで含めるように続けた。
「ぼくは自分のカクテルを飲んだ人が、幸せになれるように願いを込めながら作っているんです。ならば、飲んでくれるお客さまの話に真摯に耳を傾けるのは当然でしょう?」
真っ直ぐな視線の主は、どこまで寄り添ってくれるのだろう。乾ききって意地悪なわたしは、ふたたび彼から目線をそらす。
流れてくるメロディは、聞き覚えのあるものだ。わたしは小さく溜め息をついた。
「このピアノの曲、名前が思い出せないの」
「『いつか王子様が』です、弾いているのはビル・エヴァンス」
バーテンダーは、ひっそりと声を落とす。
「ぼくにも、あなたと同じように一緒に月を観たい人がいますけど?」
「……嘘。わたしに話を合わせてくれているだけでしょう?」
対面の男は涙声になりかけたわたしに、大きく頬をゆるめた。
「素直じゃないなあー。まあ、ぼくも職業柄、他人様のことは言えないけど」
「余計な御世話です」
バーテンダーは、からかうように覗き込んでくる。
「放っておけないお客さんも珍しい」
「ほ、放っておいてくださいよ」
わたしの頬に、あたたかい何かが伝いはじめる。彼は言った。
「あなたも、ぼくも。ここから遠いところに『一緒に月が観たい』と願う人がいる。それは真実でしょう?」
「……カクテル、おかわりください。嘘でいいから幸せ気分を味わいたい」
相手は肩をすくめ、両手のひらを天井に向ける。
「嘘じゃだめです。本当に、あなたに元気になってもらいたいんだ」
わたしは黙って、かぶりを振った。ぽたぽた、涙の粒が落ちていく。
「そんなこと言ったって、今夜だけかもしれないじゃない」
「一緒に元気になった夜、それだけは消せないでしょう」
「一緒に?」
思わず見つめてしまったバーテンダーの眼鏡越しの瞳が、赤く潤んでいた。
「ぼくも今夜、あなたから元気をもらいました」
「そう……」
泣いていたわたしに、オレンジ色のカクテルが差し出される。
「このカクテルの名前、知りたくないですか?」
「教えて」
「シンデレラ。ちなみに、ノンアルコール」
終電に乗り込む前、何気なしに夜空を眺めた。紙のように薄い月が、ゆったりと浮かんでいる。