9-2:ある日、森の中
アリア近郊、西の森。かつては多くの人が使っていた旧街道が、この森には今も残っている。それ以外の部分はあまり手が加えられていないため、木々が鬱蒼と生い茂るばかりで、足元は悪く見晴らしも良くない。薬草を求めて森を訪れる者は大抵、旧街道から離れすぎないよう注意を払って歩くものだ。
それぞれ準備のために一旦別れた二人は、教会を出た一時間後に森の入口で合流した。後から来たジャンの横に予想していなかった存在が歩いているのを見て、ウィリアムは何とも言えぬ表情になる。それをジャンはあえて無視し、何気ない様子でウィリアムの背後に広がる森を眺めた。
「さて、ウィル。例の子はどこに居ると思う? 旧街道沿いの比較的魔物も出にくい場所か、野生の王国な森の奥か」
「……一日経っても帰って来なかったのだから、おそらく奥に入り込んだのだろうな。人の手が入っていない奥の方が薬草も良い物が取れると聞いた」
「だろうねぇ。教会に来る病人のために危険な場所へ行くなんて、良い子だとは思うけどちょっと危なっかしいな」
行方不明の少女が出かけたのは、施しの薬を作るためだったらしい。治癒師を目指しているようで、独学で治癒魔法や薬の煎じ方を勉強しつつ、教会に訪れた信者を治療することもあると言う。十二区の片隅にひっそりと佇む教会に来る者など、ほとんどが日々の生活すら苦労する貧乏人だ。よって、素人で大したことは出来ないからともっともらしい理由をつけて、少女は無償で彼らに奉仕しているそうだ。
「まさに正しきソマリアの信徒の鑑だね。貧民街の聖女ってところかな」
「ジャン、その言葉に他意は無いだろうな」
皮肉か感心か。ジャンが芝居がかった仕草と共に言い放ったことに、ウィリアムは眉を顰めて問う。女性には優しいとはいえ、ジャンは基本的に教会関係者が嫌いだ。今の言葉も字義通りなら良いが、裏に「ただのパフォーマンス」だの「偽善者」だのという毒が込められていないとも限らない。もしそうであれば、他の者には聞かせるなと言外に釘を刺した。
無言の意見を正確に読み取り、しかしジャンはあくまで冗談めかして答えた。生真面目なウィリアムは事ある毎にジャンの発言で神経を擦り減らしているが、ジャンとしてはそういう所をからかって遊んでいるだけであったりする。
「まさか。むしろそういう子は好きだよ、健気で純真な感じがして」
「お前を近づけたせいで汚れてしまったら、俺の責任なのだろうな……」
肩を竦めておどけるジャンに対し、ウィリアムは額を押さえて嘆いている。親友の女癖の悪さに、一抹の不安を感じているのだった。
そんな挨拶代りのやり取りの後、ようやくジャンは今まで触れなかった「連れ」について話し始めた。ウィリアムは会話中もずっとチラチラと気にしていたのだが、話題にしなかったのは単にジャンのペースに合わせていただけである。本当は激しく問い詰めたかった。
「……それでだ。この広すぎる森を当ても無く捜すのは無謀と言うもの。そこで登場するのが、こちらの金髪美人パトリシアちゃんです!」
「何だその言い回しは。……ネリーさんの所の飼い犬だろう。俺も知っている」
小麦色の毛並みをした大型犬は、名を呼ばれてワンと一つ吠えた。とぼけた表情とつぶらな瞳が愛らしいこの雌犬は、ウィリアムの実家の近所に住んでいるネリーという年配女性が飼っている。特別な訓練など何もしていない、ごく普通の飼い犬だ。
「エリーゼ嬢の持ち物を借りて来いと言うから、何かと思えば。確かに手掛かりが無いよりはマシだが、ちゃんと匂いを辿ってくれるのか?」
「そこは安心してよ。前にも失せ物探しを手伝ってもらったことがあるからさ」
「お前は人様のペットで何をしているんだ……」
この犬の飼い主は見目の良いジャンがお気に入りらしく、何かと頼みを聞いてくれる。世間話に付き合う程度の仲でしかないはずの彼が、どうしてペットまで手懐けているのか。
「使えるものは何でも使うのが俺の流儀。……さあパトリシア。頼んだぞ」
ジャンがけしかければ、パトリシアは迷うことなく地面の匂いを嗅ぎ、二人を森の奥へと導き始めた。慣れたその様子は、二度目三度目とは到底思えない。
ジャンの普段の生活を考えると、ウィリアムは頭痛がする思いだ。再び頭を抱えた親友へ、ジャンは悪びれることなく笑っていた。
――――――――――
パトリシアの後を着いて進むこと数十分。鳥の囀りが森の静けさを一層引き立たせ、獣の息遣いに神経を尖らせながら二人は奥へと向かった。
「しかし随分と奥まで入り込んだようだ」
「そうだな。一応目印は付けながら進んだみたいだから、これは迷ったわけじゃないみたいだし」
森を分け入ってから今まで、ほぼ一定間隔で樹に小さな傷が付けられていた。二人の目線より少し下の辺りに刻まれているそれは新しく、行方不明のエリーゼが付けたものである確率が高い。
「順調に進んでいて、なぜ戻れなくなったか……――ん? ジャン、パトリシアの様子がおかしいぞ」
ウィリアムがエリーゼの帰らなかった理由を考え始めた矢先、地面を一生懸命嗅いでいたパトリシアの足が止まった。そして落ち着かなげに顔を上げては戻し、時々唸り声を上げている。
ただならぬ気配にジャンも先ほどまでの軽さを潜め、周囲を見渡す。と、聞こえてきた第三者の向かって来る音に、口角を上げた。
「おっと、ようやくお客さんかな? ……そうそう、そうこなくっちゃ面白くない」
彼が楽しそうに剣を抜いた瞬間、赤い塊が草むらから飛び出した。正面の樹を体当たりの一撃で倒し、鼻息荒く向き直ったのは角の生えた大猪だ。深紅の毛皮は胴体部分が金属鎧のように硬くなっている。
ウィリアムが魔物へ斬りかかる。が、赤い鎧は浅く傷付いただけで、大したダメージは入らない。
「少し硬い。戦斧でも持って来るべきだったか」
「今回の目的は魔物退治じゃなくて、あくまで人捜しだろ? 戦斧なんて邪魔邪魔」
苦い顔をするウィリアムへ、ジャンが余裕を崩さず答える。彼の武器は細剣であり、力でウィリアムに劣る分、この魔物と戦うには更に不利だ。目を狙おうにも、木々すら薙ぎ倒す突進攻撃をまともに受けてしまう可能性が高い。
そこで、ジャンは腰元のポーチから一つの石を取り出した。透き通った黄色はまるで宝石のようだが、その正体は魔晶石――魔力と親和性の高い鉱石であり、魔法の保存・再生すらも可能にする――である。ポーチの中には色とりどりのそれらが収められ、目の眩むような輝きを放っているものもある。だが見る者が見れば、これを宝石箱ではなく、火薬庫だと喩えることだろう。
「そら、これがお前の餌だ!」
ジャンへ猛進する魔物は、僅かに開いた口元へ的確に投げ込まれた石を呑み込んでしまう。難なく攻撃を避けたジャンが不敵に笑い、指を鳴らすと同時、魔物の体内で石が弾けた。迸る雷撃は内側から魔物を焼き焦がす。動くことも悲鳴を上げることもままならず、赤い毛皮を真っ黒に炭化させ、魔物は大きな音を立てて地に伏した。所々から煙の上がる屍は、未だにバチバチと音を立てている。
「おおっと、威力が強すぎたな。これは調整しないと」
「……またえげつない物を作ったな」
「だって俺、お前ほどの剣技も無ければ魔法も中途半端だからね。道具頼りになるしかないさ。ところでこいつって噂にあった強い魔物?」
「赤い猪だと聞いていたから、間違いないだろう。……嫌な予感がするな」
二人は木陰に避難していたパトリシアを呼んで捜索を再開する。意気揚々と森の奥へ向かう彼女に続いて少し進んだ辺りで、エリーゼが付けただろう目印は無くなり、代わりに地面に獣の足跡が残されていた。暴れたのか、いくつも重なっていたり一帯の草むらを荒らしたりしている。そして更に落ちていたナイフが推測を確信に変えた。
「……血痕が無いだけマシか。ほらパトリシア、急いでくれよ」
するすると木立を抜ける案内人は今まで以上に迷いなく導いている。それでも急かす二人の耳に、水音が届き始めた。近くに川が流れている。
樹のトンネルを抜けると、川底の浅い清流があった。パトリシアは任務完了とばかりに勢いよく水へ飛び込む。それに驚いて声を上げたのは、二人ではなく、川べりに座っていた少女だった。
水遊びに興奮する犬。青色の目を瞬かせる少女。川原の大きめの石に腰掛けた彼女は、スカートを際どい所までたくしあげ、素足を水に浸している。突然の邂逅に固まっていたが、ジャンたちの視線に気づくと警戒の目を向けた。ジャンが真っ先に話し掛けに行けば、ますます表情を強張らせて身を引いてしまう。
「君がエリーゼ? へぇ、思ってた以上の美人さんだ」
「誰よあんた。どうして私を知ってるの?」
少女がスカートを戻しつつ横に置いてあった弓矢に手を伸ばしているのを見て、ウィリアムが慌ててジャンを後ろへ押しやる。町中でも彼の優しげな――ウィリアムは胡散臭いと評する――笑みに惑わされない女性はいるのだ。ましてや彼ら以外に人のいない森の中で、初対面の男に近づかれるのは恐怖だろう。
「ロウン神父に君の捜索を頼まれた者だ。俺はウィリアム・サーロット、教会騎士団に所属している。こっちの女好きは単なる手伝いだ。気にしないでくれ」
「教会騎士様なんですね。あっ、もしかして神父様を盗人の件で助けてくださったウィリアムさんですか? お話はうかがっています」
「知っているなら話は早いな。神父様が君を心配していた」
教会騎士で神父の知り合いという確かな身元に、エリーゼも緊張を解いて相好を崩す。一方で名前すら紹介してもらえなかったジャンは、不貞腐れたふりをしながら彼女に手を差し出す。
「俺も一応、元教会騎士で怪しい者じゃないから安心してよ。……さ、暗くなる前に帰ろうか」
エリーゼはまだ若干引き気味ながらも、ジャンの手を取ろうとする。しかし、あることを思い出してきょろきょろと辺りを見回し始めた。
「ま、待って。私が追いかけられた魔物がまだ近くにいるかもしれない。赤くて大きな、猪みたいなやつ。皮膚が硬くて矢が弾かれるものだから、逃げるしかなくて……」
「ああ、それならさっき俺たちで倒したよ。ちょっと警戒してたのに、硬いだけで歯応え無くて拍子抜けだったな」
怯える彼女にジャンはあっさりと答えた。やはりあの猪に襲われていたようだ。ウィリアムの剣ですら通らなかった硬い魔物が相手では、か弱い女性が大きな怪我もなく逃げ切れただけで奇跡と言えよう。ジャンは安心させるためにあえて軽く言ったのだが、一瞬の瞠目の後に浮かべた安堵の表情を見る限り成功したようだ。
再度ジャンが促すとエリーゼが川から足を引き上げる。そのまま立つかと思いきや、彼女は苦悶の声を上げ、ウィリアムの心配の声に悔しそうに答えた。
「痛っ……」
「足を怪我したのか?」
「ええ、挫いてしまって……。怪我をしていなければすぐに帰れたのに。こんな時に限って治癒魔法も成功しないし、散々です」
水から上げた足首は少し腫れている。帰ろうにもまだ魔物がうろついている上に、自分は早く動けない。そんな不安に苛まれた状態で丸一日を過ごしたらしい。今は落ち着いていることから、彼女の心の強さが垣間見えた。
「ま、愚痴は後にして早く神父に無事な姿を見せてあげようか。……ちょっと失礼」
「きゃっ!? ど、どこ触ってるのよ! ヘンタイ!」
ジャンはエリーゼの足元に屈みこむと彼女の足を掴んだ。唐突な行動に暴れる彼女へ、優しくも有無を言わさぬ声音で諌める。
「暴れないで。その柔肌に傷を付けるのは趣味じゃない。――〈風が運ぶは癒しの輝き。緑なる光は命を慰め、新たなる力をもたらさん〉。……これで治ったかな?」
足首に右手をかざし、唱えたのは治癒魔法だった。本職の治癒師には遥かに劣るものの、正確に発動した魔法が怪我を癒す。まさか彼が治療できるとは思っていなかったので、エリーゼは何度目になるか分からない驚きを込めて礼を言った。
「あ……ありが、とう」
「どういたしまして。お礼代わりに、街までエスコートさせていただいても宜しいですか? レディ」
当然のようにエリーゼに靴を履かせながら、ジャンは気障ったらしく笑いかける。
「あんたが何かするんじゃお礼にならないじゃない。それに歩けるから必要無いわ」
が、彼女の返事はやはりつれない。さっさと立ち上がって置いていた荷物をせっせと集めている。
そんなエリーゼの様子にジャンは苦笑しつつ肩を竦め、ウィリアムが力無く頭を振った。軟派なこの男は、相手が頑なに靡かないほど燃えるタイプだ。結局、最初に心配した通り彼に目を付けられたエリーゼへ、ウィリアムは内心で同情するのだった。
【Die fantastische Geschichte 9-2 Ende】