9-1:始まりは小さな事件から
この作品は【Die fantastische Geschichte】シリーズの一つです。設定資料集や【FG 0】と合わせてお楽しみください。
――聖なるかな、聖なるかな。
――迷える者よ、神を称えよ。さすれば汝導かれん。
――罪深き者よ、神を信じよ。さすれば汝救われん。
――偉大なる神ソマリアよ、我らの願いを聞き給え。
「そうやって祈った所で何になるっていうのさ。神様はいつだって見てるばかりで、俺たちを助けてくれることなんてないのに」
教会で祈る信者たちの声を聞きながら、外壁に凭れ掛かった男は呟く。その手に握られたペンダントの本来の持ち主は、一年前に神の下へと連れて行かれてしまった。男の目は、陽の光を浴びてきらきらと輝く金茶の髪に隠されて見えないが、その口元には笑みが浮かんでいる。鳴り響く教会の鐘の音はいつも通り変わらぬ時の流れを示す。しかし男の時はあの日から止まってしまっているようだった。
「それとも俺のことがよっぽど嫌いなのか?」
一陣の風が男の髪を玩ぶ。露わになった花曇りの空のような灰青色の瞳は、その胸中を表しているかのようだ。その瞳の先には、雲一つない青空が広がっていた。
【Die fantastische Geschichte 9】
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【9-1:始まりは小さな事件から】
ファランド王国。この世界で多くの人々が信仰するソマリア教の総本山〈ソマリア大聖堂〉を首都アリアに有し、美食と芸術の国として知られる大国である。ジャンが生まれ育ったアリアは世界で最も美しく華やかな都として知られており、大聖堂を始め大小様々な教会関連の建造物や貴族の屋敷が立ち並ぶ第一区、そしてファランド宮殿は特にアリアを訪れたならば絶対に見なければ来た意味が無いとまで言われるほどの観光名所となっている。
「まったく、遅刻しすぎじゃないか? レディのお誘いならともかく、お前以外の野郎からの呼び出しだったら一分と待たずに帰ってたとこだぞ」
ジャンは壁に凭れ掛かったまま、息を切らして走って来た男に対してそう軽口を叩く。約束の時間は午後2時。今は2時20分だ。あまり気の長い方ではないジャンは今言ったようなことを本気で実行するような男だ。だが自分を呼び出した人物が普段ならば絶対に約束の十分前に到着しているような真面目な人間であり、他ならぬ幼馴染のウィリアム・サーロットであるからこそ待っていたのだ。
「ゼェ……いや、すまない……会議が、長引いて……ハァ、抜けるに抜けられなかった……」
「ま、そんなとこだろうと思ってたよ。付き合い長いんだからこれぐらいじゃ俺は怒らないって知ってるだろ、ウィル」
「分かっていても俺の気が済まん……待たせて悪かったな」
この堅物の親友は少々の遅刻ぐらいジャンは大目に見てくれると分かっていても、こうして全力で待ち合わせ場所まで駆けて来たのだろう。教会騎士の鎧を着たガタイのいい男が、必死の形相でお洒落な大通りを全力疾走したのかと思うと笑いが込み上げてくる。なんとか堪えながら呼び慣れた愛称で呼べば、眉をハの字にしたウィリアムが膝に手をつき息が整わないのか前屈みになった姿勢のままこちらを見上げて謝罪する。さながら叱られた大型犬のようだ。
「いいって。それよりこんな所に呼び出した用事って何なのさ」
ひらひらと手を振り「こんな所」と言った場所を見回す。このアリアは貴族街のある第一区や高級店が立ち並び華やかな第二区、大聖堂など教会関係の施設が集まる第三区などのアリア中心部を始めとして第十五区まで主要な通りによって円を描くように分けられているのだが、今ジャン達がいるのは第十二区の外れ、つまりアリアの端にある小さな古い教会の前だった。こんな郊外の民家に埋もれた教会にも人はちゃんと礼拝に来るらしく、先ほどから信者たちの祈る声が中から聞こえてきていた。
「ここの神父様とちょっとした縁があって、個人的にあることを依頼されてな。俺一人では厳しそうだったからお前にも手伝ってほしいんだ」
「依頼?」
教会の神父と教会騎士である彼が知り合いであることは全く不思議ではないが、ウィリアム一人では無理だと判断した依頼とは何なのだろうか。ジャンは元教会騎士だが今では傭兵だ。騎士団の仲間ではなくジャンを指名したということは教会絡みではないのだろうか。
「ああ。詳しくは神父様が話してくださるが、簡潔に言うと人探しだ」
その時ギギィと古びた音を立てて教会の扉が開き、中から黒い神父服を来た初老の男性が出て来た。おそらく噂の依頼主だろう。おお、と喜びの声を上げた神父は笑顔で二人を迎え入れる。
「お待ちしておりました。さあどうぞ中へ」
「失礼します」
礼儀正しく一礼してからウィリアムは神父に続いて教会の中へと入って行く。ジャンは一瞬ためらったが意を決して足を踏み入れる。神を信じぬ男は一年ぶりに神の家を訪れた。
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第十二区は王都の端にあるということもあり、あまり暮らし向きが良くない人々の住む場所とされている。事実中心部から離れるに従って民家は小さく古くなっていき道で物乞いをする姿も見受けられるようになる。細く薄暗い路地は格好の「狩場」となり犯罪が後を絶たない。中心部は常に王国軍の兵士が巡回し目を光らせているというのに外縁部は最早別世界だ。
「実はこの教会で住み込みの手伝いをしてくれている娘が郊外の森に出かけたまま帰って来ないのです」
顔全体に心配の色を浮かべた神父が事情を説明する。聖職者以外の人間が教会に住み働くのはこういった場所では珍しくない。貧しい者への施しの一環として身寄りのない若者に住居と仕事を与えたり、大きい教会になってくると孤児院を運営したりしているのだ。件の娘もその類なのだろう。
「昨日、薬草を採りに行くと言って昼ごろに出掛けたのですが……日が暮れても帰って来ず、夜が明けて一日が経った今も戻らないのです。これは何かあったものと思い今朝ウィリアムさんへ捜索をお願いした次第です」
「たった一人の行方不明者の捜索を王国軍に頼むのは時間の無駄だからな。それで、ウィルが一人じゃ無理だって言った理由は?」
さぞ心配で夜も寝ていないのだろう、神父は目元に隈を浮かべている。ウィリアムは今朝第二区の聖堂で警備をしていたと言っていたので、わざわざ早朝から第二区まで行って頼んだのだろう。近くの駐屯所に控えている王国軍は小さな事件程度では動かないし、行方不明者の捜索は教会騎士団の管轄外だ。森には魔物が出るのでこの戦いとは縁遠そうな神父自身が探しに行くなど出来るはずもない。警備に来てくれる騎士などいないのだろう小さな教会の神父が頼れるのは個人的につながりのあったウィリアムだけだったに違いない。
「森には魔物がいるだろう。もし怪我をして動けなくなっているのであればその娘さんを庇いながら戦うのは厳しい。それに最近今まで見たこともない強力な魔物がいたという報告も上がっている」
「そんな危険な森になんで女の子一人で行かせたのさ……」
強力な魔物のことは知らなかったが、街の外には魔物がいるというのは常識だ。王国軍や教会騎士団が定期的に退治しているため街の近くではあまり見かけないが、少し離れれば危険地帯だ。郊外の森も役に立つ薬草が生えているとはいえ奥には魔物の巣があるとまで言われているほどである。
「奥には絶対に入らないから大丈夫だと言い張るので……。それに一応は弓の心得があり弱い魔物ぐらいならば今までも追い払っていましたのでその言葉を信じてしまい……ああ神よ、あの子をお守りください」
まるで我が子のように心から少女を案ずる神父は一人送り出してしまったことを悔いながら神に祈る。ジャンは聖職者に対してあまり良い印象を持っていないが、この神父は人が良いので同情してしまう。
「分かったよ、俺も手伝う。……早い方がいいだろ? さっさと準備を整えて森に向かうぞ」
これが教会関係の依頼だったら断るところだが、一人の女性の命に係わる問題だ。もともと傭兵は戦うことが仕事なのだからこのような依頼はちょうどいい。
「助かる。お前ならば断わりはしないと信じていた」
「それは親友だから? それとも俺の性格だから?」
「両方だ」
不敵に笑い合い互いの拳を軽くぶつけると席を立つ。何度も礼を言う神父に対して二人はそれぞれの性格を表すような言葉を返す。
「まだ依頼を受けただけなのですから礼には及びません。どうかその人の無事を祈って差し上げてください」
「そうそう。今回の報酬はその子の笑顔でいいからさ」
真面目に応じるウィリアムと軽口を叩くジャン。一年前まで教会騎士団の期待の双星と呼ばれた名コンビはこうして復活することとなる。
「ありがとうございます! どうかあの子を、エリーゼをお願いします」
深々と頭を下げる神父を背に二人は歩き出す。
エリーゼ。彼女との出会いが止まっていたジャンの時を動かすことになる。それに気づいていたのは奇しくも時を止めた女性のみ。全てを悟っていたその人がジャンへと語ることは二度と無いのだけれど。
【Die fantastische Geschichte 9-1 Ende】