第9話 敬語を捨てる
王妃の視線が、刺さった。
一瞬、息が詰まる。
王の青灰の瞳と、ラゴウの乾金の瞳がぶつかった、あの瞬間。
アレクシスは、わずかに目を見張った。
違う。
いつもと、違う。
昨夜の報告は、すでに受けている。
王妃がバルコニーから崖下の海へ身を投げたこと。
侍女が騒ぎ、護衛が引き上げたこと。
死には至らなかった。
軽傷。
実際、今朝の祈りの儀式にも平然と参加していた。
そして、彼女が口走った言葉。
――自分だった痕跡を全部消された身体で、そいつはこの先まともに生きていけるのか?
そんなことを考える人間が、いたのか。
――このわたし以外に。
王妃の言葉を聞いた瞬間。
アレクシスの脳裏に、別の光景がよぎる。
聖女の回復を受けた兵士たち。
傷は消える。
骨も繋がる。
奇跡と呼ばれる力。
だが。
数ヶ月後。追跡調査で見た彼らは――笑わなかった。
痛みも。喜びも。恐怖さえも。
薄れていた。
五感は鈍り、上官の命令にだけは絶対服従した。
まるで。
戦争のための人間兵器だ。
そしてさらに時間が経つと、からだは動かなくなった。
心が摩耗したように。
人として壊れていく。
(奇跡……だと?)
アレクシスは、ずっと疑っていた。
あの力を。
そして。
教会を。
だからこそ――カナリアを、そこから遠ざけたかった。
聖女としてではなく。
ただの一人の女性として。幸せに、生きてほしかった。
この手で、幸せに、したかった。
過去の回想に引きずられそうになる意識を、むりやり振り払う。
あの王妃の変化は、なんだ?
護衛が来たからなのか。
それとも――。
いや、違う。
思考を切り替える。
いま最も重要なのは。
草原の王女が、この国で自死を図った、という厳然たる事実だ。
外交問題になる。
草原王カヨウの耳に入れば、どう動く。
謝罪か。
釈明か。
あるいは――
(……まずい)
感情ではなく、計算が先に動く。
王としての思考だ。
しかし。
それでも。
(会わねばならない)
夫として。
頭では、分かっている。
草原の王女は、自ら望んでこの国に嫁いだ。
その理由も知っている。
――恋情。
自分に向けられたものだ。
草原との同盟を有利に結ぶため、その気持ちを利用したことも、自覚している。
だが。
王としての判断が先に立つ。
(……まずは王妃に会う)
◇ ◇ ◇
王妃の私室。
アレクは近衛長であるルシアンを外で待たせた。
騎士ルシアンが、視線だけで部屋を一巡する。
危険なし。
それだけを確認して、静かに扉の外へ下がる。
その時だった。
扉の脇には、いつのまにか盲目の草原の護衛が立っていた。
――気配を感じなかった。
その事実に、ルシアンの背筋が冷える。
この距離まで近づかれて、まったく気が付かなかった。
それは、騎士としてあり得ない失態だった。
「目が見えないとは思えんな」
ルシアンが言う。
盲目の男は、わずかに首を傾けた。
「忠告しておく」
低い声だった。
「ラゴウを軽んじることは、草原を軽んじることと同義だ」
一瞬、沈黙が落ちる。
「ラゴウが王都で死ぬようなことがあれば――」
男が、かすかに笑う。
「草原王カヨウは、王都を焼くだろう」
ルシアンの背に、冷たい汗が流れた。
盲目の男は、静かに言い切る。
「ラゴウが死ぬ時は、レザリアが滅びる時だ」
◇ ◇ ◇
扉が閉まる。
静寂。
先に口を開いたのは、アレクシスだった。
「……昨夜は」
言葉を選ぶ。
「配慮が足りませんでした」
敬語。
王としてではなく。
夫としての謝罪。ただ、形だけだ。
だが。
ラゴウは、動かない。
瞬きもしない。
そして、言った。
「カナリア、と呼びましたよね」
静かな声。
アレクの呼吸が、一瞬止まる。
否定しない。
それが答えだ。
「義務の夜は、もう必要ありません」
はっきりと告げる。
アレクの瞳が、わずかに揺れた。
「……それは」
「草原の女としての誇りです」
声が低くなる。
「自分を愛していない男に、体は開かない」
そして、敬語が消えた。
「金輪際、アンタに敬語は使わない」
空気が変わる。
王に対する口調ではない。
だが、敵意でもない。
宣言だ。
対等の。
アレクシスは怒らない。
「……王妃」
王はまだ敬語を崩さない。
その距離が、かえって際立つ。
でも、かまわない。勝手に距離をとればいい。
ラゴウは続ける。
「でも」
初めて、感情が混じる。
「アンタの命は守る」
王の眉が、わずかに動く。
アレクシスが、初めて真っ直ぐラゴウを見る。
「守る?」
「死なれたら、困るんだ」
理由は言わない。
「もう、恋情はない。だからアンタは、責任も義務も感じなくていい」
一歩、近づく。
「アンタは、本当に自分が望んでいることをやれ」
金の瞳が真っすぐ刺さる。
「聖女を――メフィストから奪い返せ」
アレクの瞳が鋭くなる。
そして。
ラゴウは言った。
「だから条件だ」
一歩、距離を詰める。
「離婚してくれ」
沈黙。
風が止まったようだった。
アレクシスは、初めて真正面からラゴウを見る。
金の瞳。
怒りはない。
涙もない。
決意。
三年前。
草原から来た王女は、少年戦士のようだった。
日に焼けた頬。
短く切られた髪。
無駄のない身体。
金の瞳は、まっすぐこちらを睨んでいた。
婚礼の場でさえ、剣を奪われた兵のようにただ立っていた。
――あれは花ではない。
刃だ。
王妃として丁重に扱ってきた。
冷遇はしていない。
衣も、食事も、最高のものを与えた。
だが。
視線は、止めなかった。
ただ、通り過ぎる。
そして月に一度、決められた日に、王の義務として、形ばかり肌を重ねるだけの。
感情は排除した。
それが誠実だと思っていた。
だが。
「離婚してくれ」
その言葉で。
初めて、視線が止まる。
髪は長く、首筋は白く、鎖骨は繊細で、腰は細い。
少女は、女になっていた。
だが。
それを“咲かせた”覚えはない。
蕾を、無理やりこじ開けたのは――
(……わたしだ)
外交の駒。
同盟の証。
王妃という檻。
最大限の礼は尽くした。
だが。
王妃の想いを、無視し続けてきた。見ないふりをし続けてきた。
そして今。
その女は、
王を見返している。
対等に。
「アンタに敬語は使わない」
喉が、わずかに動く。
この城で。この国で。この私に。
敬語を捨てる女など、いない。
なのに。
怒りが湧かない。
むしろ――胸の奥が、妙に静まる。
(……はじめて見た)
王妃ラゴウを。
今、初めて。
外交の象徴ではなく。
王妃という器でもなく。
草原の王女でもなく。
一人の、女として。
見る。
その瞳に、自分が映っている。
責めているのではない。
問われている。
王としてではなく。
男として。
(……この女は)
いつから、こんな目をしていた。
そして。
なぜ今まで、気づかなかった。
第9話「敬語を捨てる」でした。
今回は、ラゴウがとうとう一線を越えました。
王妃としてではなく、ひとりの人間として、アレクに向き合い始めた回です。
そしてアレクの側でも、
ずっと見ていなかったものを、初めて見た――
そんな転換点になりました。
「敬語を捨てる」というのは、
ただ口調が変わるだけではなく、
関係そのものが変わり始める合図でもあると思っています。
次回から、少しずつ二人の空気が動いていきます。
引き続き読んでいただけたら嬉しいです。




