第5話 正史をぶち壊す
ユイが、恐る恐る告げた。
「......姫様。今日は祈りの日です」
ユイが、いつもより小さな声で告げた。
「陛下が、神殿へ同行するようにと」
神殿。
カナリア。
俺の背筋に、冷たいものが走った。
その単語が、引き金になる。
記憶の奥で閉じていた扉が、音を立てて開く。
(俺はこれを……知ってる)
脳の裏側から、別の〈情報〉が溢れ出す。
ゲーム画面。
タイトルロゴ。
甘ったるい旋律。
『聖女の結婚』
――ふざけた名前の乙女ゲーム。
妹が、寝る前に笑いながら話していた。
「アレク王、尊い」
「カナリアのイベント、泣く」
「でも正史は最悪。救えない」
そう言って、画面を抱きしめていた。
俺はいつもその横で、適当に相槌を打っていた。
(……正史)
頭の中に、一本の線が走る。
この世界には、〈本来の筋書き〉がある。
そして、それは――
(アレクシスは・・・死ぬ)
心臓が、一瞬止まった気がした。
ユイが続ける。
「今朝は、宰相メフィスト様もご一緒だと……。カナリア様に、何か大事なお話があるとか」
メフィスト。
兄とは対照的な弟。
人心を掴む笑顔。
柔らかな物腰。
――だが、政治の刃は鋭い。
教会と結び、王権を“整える”名目で力を中央に集める。
正史では――アレクシスが戦場で命を落とした後、カナリアはメフィストと結ばれる。
教会は王権の上に立ち、地方は削られ、草原は“同化”される。
(……これが、筋書きだ)
妹が泣いていたエンディング。
「推しが死ぬ」
「救えない」
「だから私も、いっしょにいく」
あの夜。
池の縁。
小さな背中。
(ケイト……)
喉の奥が、また熱くなる。
俺は、ユイの顔を見た。
「……王は、最近……危ない目に遭っていないか」
唐突な問いに、ユイが目を瞬く。
「え……?」
「襲撃とか、暗殺未遂とか、事故とか……何でもいい」
「辺境が騒がしいって聞いてます。草原との同盟も、まだ盤石とは……」
(盤石じゃない? ――なんでだ)
「わたしとの婚姻が同盟の証だろう。何が不安要素なんだ」
問い返すと、ユイは口元を押さえるように視線を泳がせた。言いにくいことを飲み込んでいる。
「遠慮しなくていい。言ってみろ」
「……その……婚姻は成立しました。でも、あの……まだ、お子さまが……」
(ああ。そこか)
「三年、子ができない――そういう話だな」
ユイは小さく頷く。
医者の頭が勝手に整理を始める。
(この身体で“普通に”妊娠するのは、まず無理だ)
記憶によると、ラゴウは十五で嫁いだ。女性としてまだ成熟していない。王都の生活に適応できず、食べる量も眠りの質も崩れている。栄養も体力も落ちている。呼吸が浅い。筋量が足りない。――おそらく、月経周期も乱れているはず。場合によっては、生理も止まっているかも。
(排卵がなければ、妊娠は起きない)
つまり。
「跡継ぎを産めない王妃は、同盟の価値が薄い。……そう見られてる」
ユイの顔がこわばる。
(なるほどな。外交ってのは残酷だ)
だが――そこで、ひとつだけ、頭の中に綺麗な線が走った。
(……使える)
三年経っても子がいない。
王妃としては“弱点”だが――離縁を請願するのには、これ以上はない理由になる。
思わず口角が上がりそうになるのを、噛み殺す。
「いいことを思いついた」
ユイが不安げに覗き込む。
「姫様……?」
王に離縁を要求する最大級の材料だ。
(ラゴウは草原へ帰れる。俺は王の死亡ルートを折る。妹も死なない)
――問題は、山ほどある。
でも今はいい。
道が見えた。
「よし。これで迫る」
「姫様?」
ユイが不審げにラゴウを見る。
「心配なさらなくても、大丈夫ですよ」
「陛下は聡明な方ですし、近衛軍隊長のルシアン様が常にお側におります。陛下に不測の事態など――」
俺は小さくため息をつく。
(聡明とか政治手腕とか、関係ない)
正史では死ぬ。
戦場で。
弟と刃を交えた末に。
奥歯を噛む。
王が死ねば、妹がまた壊れる。
俺がここに来たのが偶然だとしても、俺がここに来た意味が分からなくても。
それだけは、見過ごせない。
(……俺が、死なせなければいい)
そう思った瞬間、胸の奥に、奇妙な静けさが広がった。
怒りでもない。焦りでもない。
ただ、決意だけが残る。
ユイが不安げに覗き込む。
「姫様……?」
俺は、ゆっくり息を吐いた。
「これ以後、アレクシス王の動き、神殿の動き、宰相の動き・・・全部、報告しろ」
「姫様・・・なんのために、そのようなこと」
「いいから、言う通りに」
鏡に映る、金色の瞳。
絶望の残り火がまだくすぶっている。
本物のラゴウは、どこにいるのか。消えたのか。
それとも、この胸の奥で、情念のように燃えているのがラゴウの気配そのものなのか。
だが、今は。
この身体は、俺のものだ。
捨てられるための器じゃない。
(守る。まずは、この身体を。次に、あの男の命を。癪だが、仕方ない。あいつが死ねば妹が死ぬ。だから。あいつを救うことは――妹を救うことだ)
鏡の中の女が、静かに口を開いた。
「……正史なんて、ぶち壊してやる」
その瞬間、神殿の鐘が鳴り始めた。
読んでいただき、ありがとうございます。
ここでようやく、この世界の「正史」が見えてきました。
乙女ゲーム『聖女の結婚』の本来の筋書きでは――アレク王は戦場で命を落とします。
つまり、ジンナイが今いる世界は「救えないエンディング」へ向かう世界。
ですが、ジンナイは医者です。
人を死なせる未来なんて、素直に受け入れる性格ではありません。
ということで。
次回から――
正史破壊、開始です。




