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第15話 弓を引く 

 それから、ひと月。


 壊れた身体を立て直すには、短い。

 だが、絶望するほど短くもない。

 最初の三日は、歩くだけだった。

 王宮の庭を、ゆっくり一周。

 朝の石畳は、三月の冷気をまだ抱えている。

 吐く息は白く、指先はかじかみ、芝には薄く霜が残っていた。


 その冷たさを、初めてはっきりと感じた。


 この三年。

 季節は、ただ窓の向こうを通り過ぎていくだけだった。

 春が来ようが、花が咲こうが、身体はほとんど動かず、部屋の中で時間だけが積み重なっていた。

 だが今は違う。

 石畳の冷たさ。

 朝の空気の湿り気。

 土の匂い。

 芽吹き始めた草の青い匂い。

 身体が動くと、世界が戻ってくる。


 呼吸を整える。

 血流を戻す。

 固まった関節を少しずつ起こす。


 壊れかけた身体は、いきなり鍛えれば壊れる。

 順序がある。

 まず循環。

 次に可動域。

 それから筋肉。


 四日目から、軽い走り。

 足裏の感覚を取り戻す。

 母指球で地面をとらえる。

 重心を前に乗せる。

 身体の軸をぶらさない。

 歩幅。

 姿勢。

 呼吸。

 まずはそこからだ。


 食事も変えた。

 肉。

 卵。

 豆。

 骨と筋肉を作る蛋白。

 血を巡らせるための塩分と水分。


 夜は必ず眠る。

 深く。

 長く。

 筋肉は、眠っている間に修復される。

 神経も、休息の中でつながり直す。


 人間の身体は、機械じゃない。

 だが、正しく扱えば、必ず応える。

 ジンナイは知っている。

 骨を継ぐことはできる。

 切れた腱を縫うこともできる。

 動かなかった関節を、もう一度動くようにすることもできる。

 だが。

 本当に難しいのは、その先だ。

 身体を「自分のもの」として、もう一度感じられるようにすること。

 足裏で地面を感じること。

 踏み込む瞬間に、怖くないこと。

 動いた身体が、ちゃんと自分に属していると思えること。


 ケイトを思い出す。

 妹は、膝の故障でバスケをやめた。

 靱帯の損傷。

 治療はうまくいった。

 筋力も戻った。

 画像診断上は、なにひとつ問題はなかった。

 医者として見れば、「治った」と言えた。


 だが、妹は言った。

『前みたいに走れない』

 身体は治っていた。

 それでも、以前と同じようには踏み込めなかった。


 切り返しの瞬間。

 床を蹴る感覚。

 膝に体重を預ける感覚。

 そこに、微かな恐怖が残っていた。


 身体の地図が、書き換わってしまっていた。


 ・・・あのとき、もっとできることがあったのではないか。


 怪我を治すだけじゃなく。

 走る感覚。

 動く喜び。

 身体の所有感そのものを、支え直すべきだったのではないか。

 そうすれば、ケイトは。

 もう一度、コートを走れたかもしれない。

 大好きだったバスケを、諦めなくてよかったかもしれない。


 足裏で、地面を押す。

(……戻ってこい)


 身体に向かって、静かに命じる。


 おまえは走れる。

 おまえは戦える。

 これはおまえの身体だ。


 ひと月目の終わり。

 ようやく弓を持った。

 最初は、引けなかった。

 肩が上がる。

 腕が震える。

 弦がびくりと揺れる。


 矢は、的のはるか手前に落ちた。

 乾いた音がして、地面に転がる。

 ラゴウは顔をしかめた。

 弓を下ろす。

 その横で、シキが言う。

「話にならん」

「うるさい」

 シキは肩をすくめる。

「あんたラゴウの師匠だろうが。少しは師匠らしい指摘をしてみろよ」

「師匠らしい指摘とは?」

「どうすれば的に届く」

「簡単だ」

 短く、ひとこと。

「背中で引け」

 だーかーらー・・・。

「意味が分からんわ」

「世話が焼けるやつだ」

 シキはラゴウの背後にまわりこんだ。骨張った指が、背中を軽く叩く。

 肩甲骨のあたり。

「ここだ」

 次に、腰の後ろ。

「ここ」

 指先が、背骨の下へ滑る。

 そして。

 臍の下、指三本分。

 ラゴウの腹に、シキの骨ばった長い指が軽く触れた。

「……おい」

 ラゴウが顔をしかめる。

「セクハラかよ」

「動くな」

 低い声だった。

「ここが中心だ」

 肩甲骨、腰、丹田。

(・・・要するに)

 筋力の問題じゃない。身体の連動の問題ってわけか。


 シキが言う。

「この三点で引く」

 ラゴウは弓を構える。

 弦を引く。

 腕に力が入る。

 震える。

「違う」

「黙れ」

「違う」

 シキの声は静かだった。

「肩を落とせ」

 ラゴウは一瞬だけ力を抜く。

「息を止めるな」

 ゆっくり吸う。

 吐く。

「背中だ」

 ラゴウは肩甲骨を寄せた。

 その瞬間。

 感覚が変わった。

 弓の重さが、腕から消える。

 背中に落ちる。

 体幹へ流れる。

「・・・そうだ」

 弦を引く。

 今度は震えない。

 息を吐く。

 指を離す。

 ヒュッ

 風を切る音。

 的の端。

 ――ドン。

 矢が刺さった。

「……当たった」

「当たっただけだがな」

 ラゴウは振り返る。

「うるさい」

 だが。

 口元は、笑っていた。

 ◇ ◇ ◇


 その頃。

 アレクシスは、王宮の回廊を歩いていた。

 遠くから、弦の音が響く。


 ヒュッ。


 矢が飛ぶ。

 兵士が小さく声を上げた。

「また当たった」


 王は足を止める。

 訓練場。

 ラゴウが弓を引いていた。


 ひと月前とは明らかに違う。


 足取りが軽い。

 身体の軸がぶれない。

 矢が、まっすぐ飛ぶ。


 王は何も言わない。

 だが、しばらくその場に立っていた。


 春の風が吹く。

 訓練場の端にある木々が揺れ、若い葉が光を弾く。

 三月の終わり、まだ枝ばかりだったそこに、今は淡い緑が満ちていた。

(……そうか)

 季節が変わっていた。


 王は再び視線を落とす。

 王妃が笑っている。

 兵士たちに何か言い返し、また弓を構える。


 三年前、王宮に来たばかりの王妃は、ほとんど笑わなかった。

 いつも静かで、怯えたように王だけを見ていた。

 だが今は違う。

 風を感じている。

 地面を蹴っている。

 世界の中心にいる。

(……別人だな)


 王は視線を逸らす。

 ――政務がある。

 そう思って執務室へ戻る。


 書類を開く。

 侍従が報告を読み上げる。

 だが。

 ふと、顔を上げてしまう。


 窓の外を見る。

 練兵場の方角だ。

(……彼女は)

 一瞬、考える。

(まだ、弓を引いているのだろうか)

 その思考に、自分で驚く。

 王は小さく息を吐いた。


(気になるのか・・・あの女が)


 そのとき。

 扉が叩かれた。

「陛下」

 近衛隊長ルシアンが入ってくる。


 王は書類から目を上げた。

「どうした」

 ルシアンは腕を組んだ。

「王妃の訓練ですが」

 アレクは静かに言った。

「どうだ」

 ルシアンの表情は、至極不機嫌そうだ。

「正直に?」

「・・・言ってみろ」

「化け物です」

 王の眉が、わずかに動いた。


 ルシアンは続ける。

「走る」

「射る」

「食う」

「寝る」

「全部きっちりやっています」

 一拍。

「そこいらの兵士よりよほど理にかなった行動習慣で、身体能力を立て直してます」


 王は黙る。


 ルシアンが言う。

「王・・・本気ですか」

「何がだ」

「本気で、王妃を近衛隊に入れるおつもりで?」

 アレクシスは書類を閉じた。

「約束は約束だ」

 ルシアンは肩をすくめる。

「まあ、今の段階では、十中八九、落ちると思いますが」

 王は静かに言った。

「そうか」

 ルシアンは小さく笑う。

「ですが」

 少し不満げに言う。

「今後の仕上がり方次第では・・・落ちないかもしれません」

 沈黙。


 弦の音を、風が、遠くから運んでくる。

 乾いた、鋭い音だ。

 練兵場。

 ラゴウが弓を引いている。

 目に浮かぶようだ。

 背筋をまっすぐに伸ばした姿。

 肩を落とし、首を静かに立てる。

 風を受ける赤銅色の髪。

 細い腕が弓を支える。

 指が弦を引く。

 背中が、しなる。

 肩甲骨が寄り、背筋に弓の力が落ちる。


 そして。


 息を吐く。


 ――ヒュッ。


 矢が飛ぶ。


 王は、目を閉じた。

 三年前。草原で見たあの少女の背中が、ふいに、よみがえる。

 長じてのちに草原の女王となるべき少女だった。

 惜しげもなく義弟のカヨウにその座を譲り、この国に嫁いだ。

 あのときの少女は、どんな目をしていた。

 そして、今、彼女の目は、何を見ている。


第15話を読んでくださって、ありがとうございます。

今回は、ラゴウの回復のひと月でした。

歩く、走る、そして弓を引く――少しずつ身体を取り戻していきます。

そして、そんな彼女を、思わず目で追ってしまう王。

まだ自覚はなさそうですが、確実に何かが変わり始めています。

次回も、楽しんでいただけたら嬉しいです。

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