第1話 王が死ぬと妹が死ぬ~赤銅の月の夜
新作です。
本日3話公開します。
よろしくお願いします。
王が死ぬと、妹が死ぬ。
だから俺は王妃になった。
男なんだが。
赤銅の月の夜、王妃ラゴウは塔から身を投げた。
◇ ◇ ◇
月が、赤かった。
黒い影に呑まれ、夜の底で、燃えている。
赤銅色。血を混ぜたような、錆びた刃のような、沈みかけた太陽の残滓のような色。
草原では、それを“戦の月”と呼ぶ。
凶兆である。
誓い。裏切り。血。
だが今夜、その月は、王都の上にかかっていた。石造りの塔の縁に、白い足がかかる。
長い髪が、風に揺れた。赤銅色の髪だ。今夜の月と同じ色。
王妃、羅煌。
その瞳は、まっすぐ月を見ていた。
黒に喰われていく光を、静かに。
三年前。
草原の王女は、刃のような少女だった。
今は。
王宮の絹をまとい、宝石を飾り、“王妃”という檻に入れられた女。
誰も知らない。
この城で、女が何度、月を見上げてきたか。
風が吹く。足先が、宙へ出る。
その瞬間。
赤銅の月が、金色の瞳に映る。
月が落ちていくのか。それとも、女が月へ吸い寄せられるのか。
――重力が、反転する。
落下。
風が髪を裂く。
月が、瞳いっぱいに広がる。
赤銅色の光が、砕ける。
そして。
闇。
◇ ◇ ◇
三年間。
月に一度だけ、王は王妃の寝室を訪れた。
それは祝福でも、愛でもない。
ただ、同盟の証として交わされる〈義務〉だった。
◇ ◇ ◇
目が覚めた瞬間、知らない匂いがした。
冷たい石、乾いた香木、微かに残る香油。
そして――身体に、どうにも覚えのない重み。
天蓋の薄布が、ゆらりと揺れている。
外はまだ夜。 潮の匂いが、風に乗って忍び込んでいた。
(……どこだ、ここ)
起き上がろうとして、胸の奥がひどく痛んだ。
物理的な痛みではない。
もっと深い場所を、鋭く引き裂かれるような感覚。
視線を落とす。
見知らぬ白い肌があった。
細い腕。
華奢な指。
見慣れない肩。
――俺の手じゃない。
喉がひりつく。
呼吸が浅い。
寝台の端には、黒い外套が無造作に置かれていた。
まだ、わずかに温もりが残っている。
乱れた薄布。
引き落とされたままの紐。
皺の寄ったシーツ。
灯の熱に溶けた香油の匂いが、重く残っている。
寝台の脇に、男が腰を下ろしていた。
広い背中が、わずかに沈む。
長い指が、額に当てられる。
思い悩んでいるように、うつむいていた。
淡い銀灰色の髪が頬にかかり、まだ乾ききらない汗が淡く光っている。
沈黙が落ちる。
やがて――
「……カナリア」
低く、掠れた声が落ちた。
苦しげに、切なげに。
耐えきれない痛みを押し殺すように。
世界が、ひび割れた気がした。
その瞬間。
怒濤のような女の情念が、遅れて流れ込んできた。
◇ ◇ ◇
――赤い月の夜。
寝室は静かすぎた。
燭の炎だけが、壁に長い影を揺らしている。
王アレクシスの呼吸は規則正しく、ほとんど機械的だった。
触れ方も、言葉も、すべてが〈役目〉の形をしていた。
冷たいわけではない。
だが温かくもない。
王の義務を、丁寧に遂行しているだけ。
そのはずだった。
ところが、その日は、ほんの一瞬だけ。
女の肩に落ちた王の息が、わずかに乱れた。
固く結ばれていた指先が、女の指に強く絡んだ。
背中に伝わる体温が、たしかに変わった。
(――いま、彼は私を見ている)
そう、思った。
しかし、次の瞬間。
「……カナリア」
熱病に侵されたような、体温のこもった声だった。
――この国の聖女カナリアが、王弟メフィストと婚約した夜だった。
温度が、一気に引いていく。
触れていた手が、ほんの刹那だけ止まる。
世界が、遠のいた。
胸の奥に灯りかけた小さな火が、冷水を浴びたように消える。
残ったのは、焼け跡のような痛みだけ。
――ああ、違った。
彼が抱いていたのは、私ではなかった。
身体は近くとも、心は遠い。
この腕の中に抱かれていても、彼の心はいつも決まって別の女に向いていた。
ラゴウは目を伏せた。
声は出なかった。涙も出なかった。
ただ、静かな絶望だけが胸に満ちた。
◇ ◇ ◇
男は上着を羽織り、立ち上がった。
石床を踏む、低く重い歩み。
振り返らない背中。広く、冷たい肩。
男は一度もこちらを見なかった。
足音が遠ざかる。
胸の奥が、焼ける。
だが同時に、別の感情が俺を貫く。
――なんだ、この怒り。悲しみ。憤り。どろどろと渦を巻く、苦しさ。
この女は誰だ。
なぜ、あんな男に背を向けられて、ただうつむいている。
罵りもしない。
叫びもしない。
泣きもしない。
おまえは誰だ。
そして俺は――どこにいる。
鏡があった。
ゆらめく灯の中に映ったのは、赤い髪の女だ。
華奢な鎖骨。乳白色の肌。
乾金の瞳。
――三年前、草原からレガリア王国に嫁いだ、王妃・羅煌の顔。
「は?」
声を出した瞬間、喉が震えた。
だが出た声は、低く抑えられた女の声だった。
違う。
違う。
違う。
俺はここにいる。
なのに、俺はこの女になっている。
理解が追いつく前に、身体が勝手に動いた。
窓辺へ。
バルコニーへ。
潮風が、冷たく頬を打つ。
眼下に広がるのは、黒い海。
赤い月。
月光を砕きながら、波が岩に砕けていた。
――死ぬ気だ。
この女は、ここから身を投げるつもりなのだ。
その確信が、胸の奥に流れ込む。
女の絶望が、俺の身体を満たす。
(ふざけるな)
喉の奥が熱い。
あんな最低の男のために死ぬ?
この女を抱きながら、ほかの女の名を呼んでおいて、振り返りもしない男のために?
――死ぬな。
足が、勝手に手すりを越えようとした瞬間、
別の記憶が、激流のように押し寄せた。
夜の池。
冷たい水。
妹の小さな背中。
計都が、闇へ沈んでいく。
――待て、ケイト!
俺は池に飛び込んだ。
必死で腕を伸ばした。
その先にあったのは、冷たさと、闇と――
そして、いま。
俺は王妃の身体で、バルコニーの手すりの縁に立っている。
妹に、重なる。
あの日。
妹も――計都も、こんな景色を見ていたのか。
こんなに苦しんでいたのか。
喉が裂けそうなほど叫んだ。
「待て――死ぬな!」
その声は、ラゴウの声だった。
だが、叫んでいたのは――俺だ。
足元から、空気が消えた。
身体が、落ちる。
石造りの欄干が、視界の端で滑っていく。夜空が反転し、赤い月が遠ざかる。月と同じ赤 銅色の髪が舞い上がり、喉の奥に風が叩き込まれた。
肺が、息を吸えない。
落ちている。
落ちているのに、どこかで妙に冷静な思考が残っていた。
(……違う)
俺は、飛び込んだはずだ。
あの日、妹の背中を追って――水面に叩きつけられる衝撃を覚悟した、その瞬間。
腕を、掴まれた。
強い力だった。
指ではない。鉄の輪のような、逃がさぬ意思を持った拘束。肩口を乱暴に引き寄せられ、 骨が軋む。落下の軌道が、横へと引き裂かれる。
空気が、裂けた。
布がはためき、何かが風を切る音がした。
身体が、抱き留められる。
革の匂い。血と、砂のような乾いた気配。
誰かが、俺を抱えている。
だが、視界はもう、まともに結ばない。
妹を救おうとして池に飛び込んだ俺は――この女の中で、目を覚ました。
王妃ラゴウ。
この女を抱き捨てて去ったあの男は、この国の王アレクシス。
妹が後追い自殺をはかるほどはまり込んだ乙女ゲーム。
ならば、これは夢じゃない。
地獄でもない。
まだ間に合うという宣告だ。
赤い月が、にじむ。
海鳴りが、遠ざかる。
意識が、深い水の底へ沈んでいく。
闇が、すべてを攫っていった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
本日、第1~3話まで公開しています。
以降はしばらく毎日更新予定です。
この物語は、
「王を救うことで妹の命を救う」ために王妃となった主人公が、
王宮の陰謀や聖女、教会をめぐる思惑の中で、
少しずつ運命を変えていく話になります。
もし続きが気になった方は、
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