後篇
領主さまに逢えて、嬉しかった。
あまりにも想いがけなくて、言葉も出なくて、そこにいらっしゃるのが夢ではないかと立ち尽くしていた。
なのに領主さまはその辺にいる若い男たちを眺めまわして、
「どうだ。この中に好きな男でも出来たか」
とわたしに訊いたのだ。もうほんとうにひどい。
この五年の間に確かにわたしは何人かと唇を合わせたし、胸を触らせたり、誘われるままに男のものを衣の上から触ってみたこともあったけれど、その間もずっと領主さまのことが好きだった。
嫁ぐ前、十二歳だったわたしと同じようにはるか年上の男に嫁いだ女たちから、わたしは色々とすごいことを聴いていた。
見合いの時からいやらしいことを考えてるおっさんの顔がどろどろに笑み崩れていたとか、身体中を舐め回されたとか、無理やり一緒に風呂に入れられるとか、そういう気色の悪いことをたくさん聴いていた。下々の言葉でいうところの、「ないわ」案件を、山ほどきいた。
想像するだけでも発狂しそうな気持ちの悪いことを我慢するつもりで、倍以上、歳上の領主さまの許に覚悟して嫁いだ。ところが、夫になった領主さまはそうではなかった。
「ああ、風呂なの。着替えなの」と衝立の裏を覗きもせずにすぐに出て行ったし、はだかにされて身体中を舐め回されるようなこともなかった。
にやけきったおっさんから食べ物を咀嚼したものを口移しで与えられると聴いた時には怖気がして吐きそうだったけれど、領主さまは違った。
林檎をかじっておられたので見ていると、「お前も喰えよ」と新しい林檎を樹から取ってくれた。
試しに寝相が悪いふりをして領主さまのお腹の上に脚を乗せてみた。領主さまはわたしの脚をそっと返してきた。
十七歳まで待てばきっと本当の夫婦にして下さるのだ。そう想っていた。
メリーさんという人をわたしは知らない。
後で訊くとわたしが生まれる前に死んだわたしの異母姉だそうだ。人質として一時領主さまの城に預けられていたらしい。
わたしはただその人が領主さまの愛人だと想ったのだ。大人の男たちはみんな身体を重ねる愛人を持っている。領主さまが寝言でその名を云ったからだ。メリーと。
それである晩、「メリーさんにしているようにして」とお願いしたら、離縁されてしまった。
わたしがメリーさんとの間に生まれた娘だという領主さまのへたくそな嘘は最初から嘘だと分かっていた。後から調べたけれどやっぱり嘘だった。メリーさんが産んだ子は確かに領主さまとの子だったけれど、生後三か月で女児は死んでいた。
領主さまを深く傷つけてしまったことが悲しくて、悔しくて、何日も後悔して泣いた。
少女の身体中を舐め回すようなおっさんじゃないから好きだというのも変なはなしだけれど、領主さまには可愛いところがあるのだ。
わたしを前にした領主さまはいつも少し困惑しているような顔をしていて、食事の時に向い合せの席からわたしが微笑みかけてみても、うーんという顔をして水を呑んだりされるのだ。
一応わたしは実家の者たちから可愛い、美人だと云われていたのだけれど、まったく効果なしだった。
夜寝る時はわたしが寝てしまうまで待っていた。
何かの書類をご覧になっているところへ、「何をされているのですか」と覗こうとしたら「仕事だから駄目」と厳しい声で追い払われてしまった。
実家から連れてきた侍女たちが領主さまに色目を使っても、領主さまはその子たちの鼻を指ではじいて退けられたということだ。
ずっと好きだったの、領主さま。
農奴一揆により城が焼けてしまったので、しばらくの間わたしは領主さまの城に行くことになった。
領主さまの馬に乗せてもらって長いあいだ揺られていた。流れる小川の音と鳥の声と、つんと鼻を刺すような秋の冷たい空気の中を領主さまの馬ですすんだ。紅葉している森からこぼれる白い陽射しが眩しかった。
今ならわたしはちゃんと云える。だから云った。この時のために実家の若い男を掴まえては云う練習をしてきたのだ。
「男性の怒張した男根が女人の陰部の穴に入ることです」
「まあ、そうなんだが。それだけというわけでは。淑女が口にするようなことでもない」
領主さまは視線を外しながら戸惑っていた。領主さまの腰に抱き着いて前鞍に横座りしているわたしは領主さまの顔を見上げてまた云った。
「膣の中で射精行為があり、男と女は結ばれます」
「どうしたんだ。はじめて戦を間近に見てまだ興奮しているのか」
領主さまが大声を出して遮った。停まった馬の上で眼が合った。わたしは胸をそらした。わたしの身体は大人になっているのだ。
くそ寒いことをべらべら喋りやがるという話も聴いたことがあったけれど、領主さまは黙ってやる方だった。ただ耳元で一度だけ「マリー」と囁かれた。
開いたこともないところを開かれて、したこともない姿勢にされて、上げたこともない声を上げた。そのせいか、身体中の節々が痛かった。
気持ちがいいものだと聴いていたけれど動かれたら勝手に声は出るし、なにこれと想いながら奥まで入ってくるものに愕いていた。
領主さまがわたしを抱いていることが嬉しかった。胸やお腹が合わさるとくすぐったかった。熱くて温かい男性の身体。
「痛かったろ」
とても眠れそうにないと伝えると、領主さまはわたしを抱き上げて、城の塔の上に連れて行ってくれた。嫁いでいた時にはこんな処があるのを知らなかった。
細い螺旋階段をあがっていくと、強い夜風が吹いてきた。
きれいな夜空が広がっていて、吸い込まれそうな小さな光が空にいっぱいだった。遠くにまで続いている河の流れにまで星空が光って映っていた。
高い処が好きなわたしは塔の屋上の胸壁の上に座ってみた。領主さまが支えてくれているから平気だった。旗みたいにわたしの髪が後ろになびいた。
夜の所領地を眺めている領主さまが何を考えているのかは分からなかった。何となく触れてはいけない気がしたから訊かなかった。これからもこういう時にはわたしはメリーさんと胸で唱えて、領主さまをそっとしておくことに決めていた。それは領主さまの大切な想い出で、領主さまの傷ついた心の隙間にいつもあって、少し哀しい花の色をしているのだ。あの星空のどこかにも同じ色があって、領主さまは夜空を眺める時にはその花の色をずっとご覧になっていたのだろう。
しまった。領主さまが突然に云われた。領主さまの髪が夜風と寝ぐせで乱れていた。
「離婚しているのだ。してしまったぞ」
領主さまは慌てていた。
「俺は気にしないが教会がうるさいからな。もう一度結婚しないと駄目だ。俺はいいけどお前はどうだ」
今さらそれを訊くとかどうなの。
領主さまが咀嚼した林檎ならわたしは口移しでいつでも頂く。甘い汁と赤い皮を喉の奥まで味わうし、果肉に残る領主さまの歯の痕まで舌の上で転がして遊ぶ。
わたしは領主さまを傷つけたと想っていたけれど、領主さまはずっとわたしを傷つけたと想っていたみたい。領主さまはきっと頭の中で歳を数えて、あの時の赤子が大きくなったらわたしと同じ年なのだということに思い至って、哀しくなってしまったのだ。だからわたしを離縁されたのだ。
でももう大丈夫。ほらわたしはもう大きくなったから。男の人に愛されたらちゃんと女としてお応えできるようになったのだから。わたしの胸や腕や身体の奥は男を抱けるのだ。
わたしを離さないで領主さま。
塔の下から吹き付ける夜風がわたしの長い髪を乱して領主さまの顔にわたしの髪がかかってしまった。領主さまはそれを邪魔そうにしていたから、わたしは手を伸ばして領主さまの顔からわたしの髪を取り除いてあげた。外にぶらつかせていた脚をひっこめて、きちんと振り向いて領主さまに唇を近寄せた。わたしが高いところに座っているから同じ高さになっていた。領主さまはわたしに応えてくれた。天には星の河があり、いろんな色が宝石みたいにまたたいている。
ずっとこうしていたかった。数はやっぱり数えた。こんど領主さまが泣いていたらわたしが慰めてあげるのだ。わたしの胸に領主さまを抱いて哀しみを取り除き、お眠りになるまで歌でもうたって差し上げることにしよう。わたしはもっと領主さまが好きになるだろう。
領主さまの腕の中で倖せすぎて気が狂いそう。今度離婚すると云われても、絶対しない。わたしは花の色をした寂しさを幾夜もお独りで抱えてきたこの領主さまが好きなのだ。きっと愕かれるほどに。
わが殿。
唇を離した時に呼んでみた。返事はなかった。今日から一日一回ずつ呼んでみることにしてみよう。領主さまの胸に顔をうずめて、わたしは「ふふ」と笑った。いつかは照れることなく「なんだ」と妻の眼を見てお返事を下さるだろう。
[おさな妻・了]