番外編 女坂探偵事務所 根坂間薬師の奮戦記 水道真琴の仕事モード その2
慣れない目覚まし時計の音が鳴っている。うっすら目をあけると暗闇の中で携帯電話の液晶が点灯していた。
画面には『めざまし1』の文字と『6:00』の文字が確認できた。なるほど。この目覚まし時計の音は携帯電話のアラーム音か。
いつもと違うふかふかのベッドがとても気持ちいい。もう少しこのまま過ごしたい。とりあえずはあの煩わしいアラーム音を排除しよう。
あれ?体が何かに引っ張られる。背中に暖かく柔らかな感触を感じる。視線を自分の体に移すと人間の手が巻きついていた。首だけを動かし正体を確認しようとしたが確認できない。
そしてこの時、自分が着衣を身に着けていない事に気付く。
半分くらいしか起動していない脳から、昨夜の記憶を掘り起こす。
ルームサービスで食事をとった事はおぼえている。そこから記憶がない。
おそらくその後でそのまま落ちてしまったのだろう。だがそれでは服を着ていない理由がわからない。手掛かりはこの体に巻き付いている二本の腕だ。
いや、うすうすは気付いているのだが。問題はどういう経緯でこうなったかだ。
「真琴さん。起きてますよね。ちゃんと説明して下さい。昨夜の記憶がないのですが真琴さんにとっては想定内ですよね?もしかして食事に何かもりました?もりましたよね?あと僕らこんな格好ですけど何もしてないですよね?」
背中に張り付いている人物に質問の嵐をなげつける。
「うぅん……おはよう薬師くん。顔も見えないのによく私ってわかったわね。あと質問は一つずつしてもらえるかしら。そんなにいっぺんには答えられないわよ」
気だるそうな声が背中ごしに聞こえた。
「じゃあ最初の質問を……」
「はーい、もりました。うちの事務所の博士オリジナルのお薬をお夕飯に混入させましたー」
何平然と言ってんだこの人。あと口調がむかつく。
これはもう普通に犯罪者だ。裁いてもらわなければ。お国に毎月、まぁまぁな金額をお支払いしてる。利用して少しは元をとらなければ。
「無駄よ薬師くん。ほらほら、この書類にサインしちゃってるから」
ココロの声を聞かれたのか、一枚の紙を見せびらかす様にヒラヒラさせてきた。
いつの間にか通常の水道真琴に戻っている。
確かに自分の筆跡でサインされている。細かくて全て目を通せないが新薬の被検体がどうとか書いてある。一番下には誰もが知っている大臣のサインと印が押してあった。
いつサインしてしまったのだろか。全く記憶がないのだが。
噂で聞いた事がある。うちの事務所には研究室があり、そこにはマッドでキュートな「博士」と呼ばれる社員がいるらしい。その博士と呼ばれる人物の開発した薬は人を思うがままに操れるというが……ただの噂じゃなかったのか。それにそんな怪しい組織に国が認可する書類を出すなんて我が国は大丈夫なのだろうか。
「あと二つ目の質問なのだけれども……」
水道真琴の声のトーンが変わった。芝居じみた感じでトロントロンしている。なんか甘ったるい。
「薬師くんてば……いきなり壁ドンから押し倒してくるからびっくりしちゃったわよ。ほぼ無理矢理だったんだから」
いったい自分は何をのまされたんだよ……
「まぁ、そういうの嫌いじゃないからいいのだけれど。ああいう薬師くんも嫌いじゃないわよ。すごくよかったし」
これはマジなやつだ。さっきから感じる気怠い脱力感はこれが原因なのか。
そういえば……過去にも記憶がない状態があった事がある。あの時は一人で目が覚めたので気にはしなかったのだが……
「おっはよーございまーす!」
黄色い朝の挨拶と共に勢いよく部屋の扉が開いた。
「ねざかまさーん、昨日は優しくしてくれてありが……」
間が悪すぎる。
「あら、おはよう早紀さん。元気そうで少し安心したわ。ユウキくんも大丈夫かしら」
あられもない姿のまま立ち上がり出縄早紀に朝の挨拶からのハグをかます。少しは羞恥心といものがないのだろうか。というか、これは自分は根坂間薬師と深い関係にあるという事を見せつける為におこしている確信的な行動に違いない。
「ご、ごごご、ごめんなさい。まさか真琴さんがいるなんて全然考えてなくて!」
同性である彼女でも恥ずかしさで顔を赤く染めてうつむいている。まぁ裸の男女がいる、いかにもな寝室に踏み込んだのだ。無理もない。
「ほんとうにゴメンなさい!」
もう一度謝罪の言葉を残し、出縄早紀は逃げる様に部屋を立ち去っていった。
つーか……なんて事してくれるのだ。あとで出縄早紀の誤解を解く仕事が増えた。無駄な稼働を増やしてくれるなよ。
「真琴さん……なんて事するんですか。僕が依頼したとはいえ彼女もクライアントですよ。関係を悪くする様な事してどうするんですか。それに僕は真琴さんと何かした記憶ないですから。どうせしたなんて話、でっち上げですよね。まったく……うわわわわ!ちょっと」
水道真琴がハンディのカメラで怪しげな声がする動画を再生し始めた。ビデオの中の怪しい声の主は彼女自身の声だ。
ビデオを奪い床に叩きつけ破壊する。
「無駄よ薬師くん。私たちの愛のメモリーはすでに雲の上よ」
人差し指を空に向けて突きさす。クラウドに保存されてしまったという事だろうか。これはいずれ消去しなくてはならなくなった。
「とりあえず出縄早紀と打ち合わせして一刻も早くターゲットの調査にはいりましょう」
そうだ。今回の件は早期解決が理想だ。時間がかかれば出縄早紀の生命にもかかわる案件だ。
「何言ってるの薬師くん。薬師くんはこの件には関わらせないわよ」
「なっ……」
「当たり前じゃない。薬師くんが依頼者でしょ?依頼者が調査するとか聞いた事ないわよ。大丈夫?」
水道真琴が本気で心配する様な視線を向けてきた。
「そんな痛いものを見る様な目をするのやめて下さい。僕は真面目に言っているんですよ」
「あなた十分に痛いわよ。心配だわ。昨夜のお薬の副作用かしら……」
これは本気で調査から外される流れだ。
「いや、そんな……」
「はい、ダメよ。却下。無理よ。無理。薬師くんには別の仕事があるのだから。どうしてもやりたいって言うのなら今回の依頼はお断りする事になります。どうぞお引取り下さい」
「真琴さん!少しは話を……」
「はい、この話はお終い。それより早く準備しなさい。会社遅刻するわよ。私は出縄早紀の話を聴かないといけないから午前中くらいまでホテルに残るわ。所長にはメールしといたから安心してちょうだい」
いつの間にか仕事モードに入っている。ダメだ。何も言い返す事ができない。
「くっ……」
無言のままスーツに着替えホテルを出る。久しぶりに冷静でなくなった。イライラで出縄早紀とユウキにも声をかけるのを忘れた。今さら戻っても部屋にも通してもらえないだろう。何が遅刻するだ。こんな早く出勤したら二時間も早く到着する。サービス早出しろっていうのか。