第弐話・・・。
わたしは時々咽る派です・・・。帰ったら、手洗いうがい、これ大事。
闇に沈む廊下、そこを照らすのは玄関からの弱々しい明かりだけであった。
そんな薄暗い廊下へと、男は足を踏み出す。キシリ・・・床の軋む音が、やけに大きく廊下に響いた。
男の借りた物件は、ハーフリビング型といわれる２ＬＤＫの部屋であった。
玄関からすぐの所にトイレがあり、そこから少し進んだところには洗面所とバスルームがある。キシリ・・・男は仄暗い廊下を歩く。キシリ・・・男が一歩踏み出すたびに、床はまるで叫ぶかのように音を立てる。行くな、そっちに行けば恐ろしい物が待っているぞ、男にはその叫びがそう聞こえた。
――キィ・・・。
男が洗面所へと続く扉を横切ろうとした時であった。
小さな音と共に洗面所の扉がゆっくりと、独りでに開いていく・・・男はほんの一瞬ではあったが、ぴくりとその身を震わせた。
そこが、その先に待つ物が怖かったのだ。何度も何度も、それは男を苦しめ続ける・・・そこに待つ物は、そういうモノであった。
男はそのままその扉を通り過ぎようとする。今日こそは、見逃して欲しいと・・・そう願いながら・・・。しかし、現実とは非常な物である。
――バタンッ！
男が扉を過ぎようとしたその時、突如として大きく、そして激しく洗面所の扉が開いた。
――バタン、バタンッ！！
男の眼を扉へと向けさせるように、何度も何度も執拗に・・・そこには、ある種の執念のような物が感じられる。
――ジャー・・・・・・・。
そして、動き出したのは扉だけではなかった。扉の先、そこにポツンとある洗面台・・・その蛇口から、止め処なく水が溢れ出していた。
――ゴポリ・・・。
不意に、洗面台から何かを飲み込むような音が響く。ゴポ・・・ゴポ・・・と、まるで水で溺れる者が空気を求め水中で口を開いてしまったかのような・・・そんな音であった。
水が流れる。男の立つ扉の前まで、その音が聞こえていた。ゴポ・・・ゴポリ・・・と、水が流れ飲み込まれて往く音が・・・。
男は諦めたような、覚悟を決めたような不思議な表情を浮かべながら、その扉をくぐった。
――ジャー・・・ゴポッ・・・。
音は、止まない。
男は音の源となる蛇口を閉めようと、その手を伸ばした。
――パチンッ！
しかし、その手は何者かに叩かれ弾かれる。小さな痛みが男の手に残った。
その痛みに男は怯む・・・その僅かな間に、ガシッ！ 男の腕は、何者かに強く掴まれた。それは冷たい何か・・・男は掴まれた箇所に眼を向ける。そこには、くっきりと人の手のような跡があった。
何故、それが人の手とわかるのか・・・それは、男の腕が、肌が・・・そう歪んでいたからだ。
ぐい・・・。男の腕は、その手によって水へと引っ張られる。
男にはその力に抵抗するだけの力が無かった。成すがままに、男はその手を・・・流れ出す水へと差し込む事となった・・・。
ひんやりとして冷たい水の感触が、男の手に纏わりつく。そして、それと同時に水に、赤い何かが混ざり始めた。
それはまるで血のように濃い赤であった。透明な、清浄な水が赤く染まっていき、そして・・・男の手にぬめりと共に張り付いていく・・・。
男は水へと差し込んだ・・・差し込まれたのとは別の手を、その手へと添える。いったい、何をしようというのだろうか・・・なんと、男はその合わせた手をゴシゴシと擦り合わせ始めたのだ。
赤い血のような色をした何かは、その男の手に合わせてその姿を変えていった。泡立ち、その色を赤から肉々しいピンクへと変化させる。ぷく・・・ぷく・・・・・と泡立つそれを、男は万遍なく手へと広げていく。手の平に、そして甲に・・・指の間や爪の間にまでも・・・。
男は、その行為を何度も繰り返す。その姿は、まるで殺人を犯した人間が、手についた血を何度も執拗に洗い流そうとしている・・・そんな姿に似ていた。
繰り返す内に、男の鼻にふわりと薔薇のような香りが漂ってきた。男はその香りを楽しむと、その手を再び水の中へと沈ませる。
赤く染まった男の手は、何時しか元の肌色を取り戻していた。
――ゴポ・・・ゴポ・・・ゴポッ。
赤い何かは、水と共に排水口へと飲み込まれていく。その様は、まるで血を啜る蛭の口の様であった。
ふと、男は己の腕にかかっていた圧力が消えていることに気が付く。手に刻まれていた何者かの手の跡は消え、何時も通りの頼りのない細腕となっていた。
ほっと息を吐いた男は、そのまま蛇口の栓を閉じようと手を伸ばす。
――パチンッ！！
だが、その手は先程よりも強く弾かれてしまう。この場に居る誰かは、まだ男を許したわけではなかったのだ。
その痛みに、男はびくりとしてしまう。痛かったから、というよりはその強さに誰かの意思の強さ、怒りのような何かを感じ取れてしまったからだ。
仕方が無い――男は、そう諦め・・・拷問に等しいその行為を行うことを心に決める。元より、それをしない限りは男は決して許されない・・・それは解り切っていた事なのだ。
男は水で洗い流したばかりの手を、今度は椀のような形に変えて合わせた。そして、その手を水へと差す出す。
――ジョボジョボジョボ・・・。
水が、男の手の中に音を立てて溜まっていった。
清浄で透明な水が、男の手に集まる。水は、透明なままであった。
男は、その溜まった水へと口を寄せ・・・ズルズルと啜り、口の中に貯め込む・・・そして、その水をくちゅくちゅという卑猥な音と共に口内で転がし汚していき、やがて用済みだとばかりにその水を吐き捨てる。
何度も、何度も・・・。
口から吐き捨てた水が、排水口へと飲み込まれていくのを見つめた後・・・男は眉を顰め、最後の行動を取り始めた。それは、口に水を入れたまま、天上を見上げるという行為である。
「・・・・・・・・がっ！？ あぐ・・・げはっ！ ・・・・・・お・・・が・・・・・がふっ！！？」
見上げたまま、徐に喉を震わし始めた男は・・・喘ぎ、呻き・・・苦しみの声を上げ始まる。やがて、男は下を洗面台へとその顔を向け、嘔吐するかのように水を吐き出し、何度も咳き込む。
それは、まるで溺れかけた人間が必死になって水を吐き出そうとする・・・そんな光景であった。
「・・・・・・はぁ、はぁ」
痛む喉に耐えながら、男は床へと座りこみ荒くしわがれたような音を喉から出しながら、呼吸を繰り返す。
男の姿は、実に憐れみを誘う姿であった。しかし、それがどのような姿であれ、誰か・・・が、その動きを止めることはない。
この部屋に居る限り、誰かは決して男から離れたりはしない・・・それが、ここに住むという事なのだから・・・。
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