雨が降っていた
ザアァァァア……
雨が降っていた。ジャックたちが王国と獣王国の国境を超える時くらいのことだろうか。
そこは、山の頂上で、ちょうど盆地になっていた。山麓の村人は、大して気にも留めなかった。山の天気が変わりやすいのはいつもの通りであるし、そこに近づく者は、村に伝わる習わしのためにいなかった。土砂崩れの心配は過去一度もなかったし、雨雲が村に流れるようなこともなかった。
だが、習わしというのは廃れていくものだ。最早、その意味を知る者はおらず、近づいてはならないということだけが、村人に周知されていた。
だからだろう。好奇心旺盛で反抗心旺盛な少年少女たちが、山を登っているのは。
盆地の中に立つ黒曜の城からそれを把握するものがあった。
「あらあら、随分可愛らしい冒険者様だこと」
そう呟いたのは、スレンダーな美しい女だった。くびれた腰まで伸びた艶やかな銀髪。白皙に色を添えるのは薄く弧を描くぷっくりとした紅色の唇。長い睫毛と二重瞼、それにより大きく綺麗な優しげな瞳。その瞳の色は、血のように真っ赤だった。
「うふふ」
上品に笑う女の口からは、鋭く尖った犬歯が覗いた。
「何をしている?」
女の背後から男の声が聞こえた。女が振り向けば、そこにいたのは仮面を着けた金髪の美丈夫。長身の女よりもなお背が高く、細く引き締まった身体をしていた。その顔は、白くシンプルな仮面で、女と同じ真っ赤な瞳が覗き、目元と鼻、左頬が隠されていたけれど、漂う色気を抑え切れてはいなかった。
「あら、あなた。いえね、可愛らしい冒険者様が登って来そうなの」
女の返答に、目を閉じてそれを確かめる男。やがて、目を開けて口を開いた。
「あれは村に戻らせる。来い、伝達することがある」
「あら?そうなの?」
女の問いかけに答えず、男はさっさと歩いていく。それに女は小走りで追いつき、男の腕に絡み付いた。男は気にした様子もなく、女もまた、それが当たり前のように城の闇へと歩いていった。
後には、遠くから聞こえる子供らの声だけが残る。
「ねぇ、もう戻ろうよ」
「そうだな、ちょっと怖いな」
「そうね、これ以上はなんだかパパやママに会えなくなりそう」
あれほど、反抗心に満ち溢れていた子供らはなんの疑問も抱かず、素直に恐怖を語り合い、そそくさと村へと帰っていった。
……。
「皆様、今日の目的地が見えてまいりました」
セルバの言葉に、馬車の窓から皆が外を覗いた。見えたのは、それなりの城壁で覆われた都市。獣王国領に来て、最初の都市であった。
「やっとか……」
思わずという感じに、呟いたのはイジネ。慣れない遠出に最も体力や気力を削られていた。
「お疲れだな。慣れないのもそうだが、今から気を張ってしまっていては、身体が保たんぞ」
「いや、しかしな。未だ、捕らえられた同胞のことを思うとどうしても……」
「まずは、獣王陛下に会わなければ、事は運ばないわ。リラックスよ」
「エリー殿……だが、リラックスするのも、どうすれば?」
「そうねぇ、都市にも着いたことだし、お買い物でもしない?どうせ、出発は補給などもあって、明後日でしょ?」
最後の問いには、セルバが肯定を示し、エリーさんの押しの強さに負けてイジネも了承していた。
「お兄さんは、どうするんですか?」
「俺か?……冒険者として活動するかなぁ」
おそらく、買い物についていくのだろうカーラの問いに、そう答えれば、エリーさんの鋭い視線が刺さる。荷物持ちをやらせるつもりだったのだろうか。だが、俺が血族としては上であるので、そんな視線には屈したりしない。俺は毅然と目を逸らした。
「ねぇ、あなた。ヤトちゃんが寂しがると思うの、一緒に来ましょう?」
理由にされたヤトはエリーさんに膝枕され眠っていた。その頭にはセイも丸くなっている。エリーさんは、俺の呼び方を特に決めておらず、このように場の雰囲気やノリで呼んでくるので割と心臓に悪い。
ともかく、俺はにっこりと微笑み、言葉を返した。
「いや、討伐依頼を受けて、ヤトを使うから大丈夫だろう」
「ヤトちゃんだって、女の子よ。服に興味があると思うなぁ」
尚も食い下がるエリーさんに、負けじと言葉をさらに返す。
「ヤトはその前に、刀だ。俺の敵を斬ることに喜びを覚える。それに本体とその魔動人形は別行動が可能だ。問題はない」
「むむむ、何よ。少しぐらい、女の子の買い物に付き合ってくれても良いじゃない」
理詰めで落とすことを諦めたか、涙目で迫るエリーさん。だが、俺は先ほどからソワソワしているイジネに問いかける。
「イジネは、買い物と討伐依頼どちらが、気が紛れる?」
「はっ、イジネちゃん!もちろん、お買い物よね?」
「どちらだ?正直に言ってくれ」
俺とエリーさんの争いに巻き込まれ、アワアワとしていたが最終的に顔を俯かせ、ポツリと言った。
「その、剣を振っている方が、気が紛れます」
「よっし、よく言った」
「そんなぁ、イジネちゃん。女子力〜」
無益な争いにカーラが、コロコロと笑っていた。
「お母さん、楽しそう、良かった」
その呟きは、エリーさんの悔しげででも、どこか楽しげな嘆きの前に消えていった。