邪心
「なんだあれは……」
誰の呟きだったろうか。
龍の姿で近づいてくる俺たちに驚いていた連中から、1人また1人とその先に注目する者たちが現れてゆく。
イジネたちを背中から降ろし、人型に戻る。
「あれは……」
いつかの夢で見た真っ黒な汚泥が溢れていた。
魔王城が倒壊してゆく。ジワリジワリと恐怖が充満する。
「ウォエ……」「ぐっ……」「あ、ああ、ア……」
吐気を催した者がいた。胸を押さえる者がいた。顔を覆う者がいた。
「総員!星宮獣帯に走れぇええ!!」
その全てを祓うように、アトリンテが大声で指示をする。
「は、走れ!」「はしれ!」「ハシレ!」「急げ!」「逃げろ!」
弾かれたように人々が戦場を後にする。
「ジャック!一先ずは私たちも!」
イジネの呼ぶ声が聞こえる。
「……」
夢の中ではわからなかったそれの正体が、今、わかった。
『個体名:邪心ヤルダバオト Lv.0
分類:想念集合体
種族:深淵の怪物 』
『深淵の怪物:混沌の泉の澱み。現在に至るまでの全ての死者の想念の集合体。想念とは、体ではなく、心でもなく、魂ですらない。それは記憶の残骸。互いの記憶が混ざり合い、世界に失望した救済者。全ての不死を望む怨念である。』
それは、幾百幾千幾万幾億を超えた死の閲覧者だ。そして、だからこそ、死にたくないと願うだろう。
それは当然の帰結。この世界の生命は輪廻する。
天父神が生誕を、地母神が死滅を司る。
そして、混沌の泉とは、死後の魂が洗われる神域。
これはこの世界の欠陥が生み出した怪物だ。
魔術王の時代は、未だ死者が少なく、だからこそ邪心は弱く小さかった。
故に、封印を選べた。
だが、あれは……
「ジャック!」
イジネの呼び声を振り切り、魔王城跡地まで飛び出した。
『コポッコポッ……』
汚泥が泡立つ。
それは目的を持って、動いている。ただ、溢れているわけではない。
やがて、形造られたのは、ヒトだ。
当然だろう。最も強く複雑な想念を持つ生命は人なのだから。
それの表面には、無数の顔があった。
嘆いている。願っている。狂っている。
そんな顔でカタチを持った巨きなヒト。
『其は救済者。其こそは、世界を完成させる者。汝は間違っている。正しくない世界に、正しき原理を刻み込もう』
老若男女の様々な声が混ざり合って聞こえた。
『死の概念を廃して、世界を不死へと導かん』
元より有限の世界に無限のチカラなど存在しない。
俺の哲人石はおそらく、異世界のエネルギーを流入させることで無限なように見せているに過ぎない。
人型の生命規模の存在が使用するエネルギーならば、世界規模のエネルギーを供給すれば充分以上に事足りる。
不滅の概念はだが、無限だ。しかし、それは前提が違う。不滅の無限は、心や魂などあくまでも精神概念上の無限だからこそ成立している。精神活動を行う存在が消えれば、不滅もまた虚無となる。
邪心ヤルダバオトの目的は、有限の物質世界における不死。肉体の不死だ。なぜなら、彼らは生命であり、生命であるためには肉体が必要だからだ。
そして、無限は不可能だ。だからこそ、彼らは停止を目的達成の手段とした。
無限ではなく、零の世界を再び創世しようとしている。
そして、邪心ヤルダバオトに限れば、それは既に達成されている。レベルの表記が0なのだから。
あれは既に、有限でも無限でもなく、不変の零なのだ。
渇望王の器を満たせば、「負の無限」としての不滅存在になると思っていた。それならば、勝つ手段もあったはずだ。
だがこれでは……
時空魔術【時空斬】
時空ごと両断した。されど、影響はない。
精霊魔術【虹の裁き】
あらゆる精霊の力の結晶が、それを貫いた。されど、影響はない。
神聖魔術【聖天の霹靂】
究極の聖雷がそれを焼いた。されど、影響はない。
死霊魔術【死神の指先】
死の烙印で呪った。されど、影響はない。
占星魔術【月鏡の光】
真実を暴露する月光が降り注ぐ。
されど、そこに嘘は無い。
どれもこれも最大の威力を誇る大魔術だ。
邪心ヤルダバオトはこちらを見ない。
ただ、ゆっくりとチカラを練り上げていた。




