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彼我  作者: てんてこ
9/11

解放

同じ時間に目を覚まし、携帯を確認し、決まった時間に朝食を食べ、携帯を確認し、昼食まで宿題をし、携帯を確認し、決まった時間に昼食を食べ、食休みかたがた携帯を確認し、夕食まで宿題をし、携帯を確認し、決まった時間に夕食を食べ、お風呂に入る前に携帯を確認し、電気を消す前に携帯を確認し、目を閉じる前に携帯を確認し、決まった時間に目を覚ます。

 同じ生活を繰り返すだけで、何の変化も訪れなかった。強いて言うなら宿題が半分以上終わったことだろうか。僅か一週間足らずで。しかし、僕が望むものとは違った。僕はあの日から、曖昧な告白の返事を待ち望んでいた。

 窓の外から水の弾ける音が聞こえた。それは母親が夕食前に必ずしていた、打ち水の音だった。僕は英和辞典を不格好な本棚に戻して、携帯を見た。一通の未読メールの他に、新着メールが二通届いていた。

 僕は嬉々としてメールを見てみると、一通は中野あたるからで、もう一通は海原凪からだった。変化が訪れようとしているのが分かり、その望まない変化を憂慮しながらも、メールを見ることにした。

 あの忌々しい記憶が蘇った。矛盾を焼き付けられ、生じていた断層を消し去り、高野敦樹が殺された日のことを。しかし、今では感謝しているのも事実だ。結果、中野あたるの言葉をきっかけに自力で海底から浮き上がり、僕が求めていた光と出会うことができたのだから。彼は決してあっち側の人間ではなかったのだ。

 良き友として、彼からのメールを見た。

「久しぶり。明日の花火大会来てくれん?」

お誘いと言うより、お願いのような文面を不思議に思った。僕は一つのしがらみがあるために、一も二もなく返信することはできず、後回しにすることにして、専ら憂慮の理由となっている、海原凪から届いたメールを見た。

「早く早く早く早く早く」

彼女は何かを僕に急かしているようだ。

 切迫感だけは感じ、その何かを見つけるために、未読のまま放置されたメールを見ることにした。

「ごめん。君の言いたいことはあまり分からなかった。もし負い目を感じているなら、罪滅ぼしをするつもりで、私を解放して。もう君にしか頼めない。返事待ってる」

僕も彼女の言っていることが分からなかった。

 返信しなければいけないことは分かった。返信していいのだ。僕にしか頼めないと彼女は言っている。加害者の血縁である僕にしか頼めないのだ。僕だけしか彼女の頼みを聞くことができないのだ。僕にしか頼めないとは、由々しき事態なのかもしれないと思い、遅くなってしまったが、メールを送った。

「僕にできる事なら何でも言ってください」

事情を聞くよりも、頼みを聞いた方が早いと思ったのだ。自ずと事情は分かってくるだろうと思い。

 海原凪にメールを送り終えると、窓の外から水の弾ける音が聞こえなくなっており、夕食の準備をしているであろう母親に花火大会へ行きたいと、何度目かの一生のお願いをするため、台所に向かった。やはり暖簾の向こうからリズミカルな音が聞こえてきた。僕は暖簾越しに、

「母さん、あのさ、去年まで行ってた花火大会あるやろ?あたるから誘われたんやけど、行っていい?あっちに行くの最後にする。お願い」

情けを乞うように言った。それを聞いた母親もまた暖簾越しに、

「駄目。何回言ったら分かるの。お母さんからの一生のお願いよ、あそこには行かないで」

情けを乞うように言っていた。リズミカルな音は止まり、水の流れる音が聞こえてきた。

 例によって電気を消す前に携帯を確認した。そこには、中野あたるからのメールが一通届いていた。僕はお風呂に入る前に、母親の話を一言一句違わずに彼へと綴ったのだ。

「それなら、手持ち花火買って俺らがそっちに行く」

僕は彼のメールに「了解」とだけ送った。

 母親の話には続きがあった。暖簾を潜ってきた母親は、濡れた布巾を持って茶の間へ行くと、僕を呼んだ。既視感。僕はまた忌々しい記憶が蘇った。母親を誰なのか分からなくなったあの日。そのあの日に少しでも抗おうと、僕はスキップをして茶の間へと行ったのだ。

 既視感。既に座布団はテーブルを挟んで二つ用意されていた。僕が座ると、

「別に中野くんと遊んだりしちゃ駄目って言ってないのよ。ただあそこには行ってほしくないの。敦樹のためなの。分かってくれるね?」

母親は哀愁を漂わせ、悲哀の満ちた表情で、少し物憂げな様子で話した。僕は憂鬱に飲み込まれ、母親の言葉に無言で頷いたのだった。この時は、母親の保身の言葉だと気付かずに。

 既視感。僕は母親の保身の言葉に気付いてしまった。中野あたるにメールを送ろうと母親の言葉を綴るとき、海底に沈んでいた僕と重なったのだ。利己的、自己中心的、自己愛が詰まった言葉に。それらは全て「敦樹のためなの」に集約されていた。

 電信柱に貼られた紙を見て、僕が見ていた異様な光景に納得した。指定された待ち合わせ場所に行くまでに、何人もの浴衣を着た人たちとすれ違い、その都度不思議に思っていた。ここから二時間もかかる上に、煩わしい電車の乗り継ぎまであるのにも関わらず、僻地に花火だけを見に行くなどとは、と。

 つい今しがたまで溢れていた子供たちは三々五々、公園を後にしていた。僕は四阿に腰を掛け、ひとりでに揺れるブランコを眺めながら、中野あたるを待っていた。止まりかけるブランコに寂しさを感じ、四阿から出てブランコに座り自らも揺れて待っていると、突然大きな揺れになり、背中を押されたことに気付いた。

 僕は大きく揺れるブランコを止めようと、砂埃を立てた。が、もう一度背中を強く押されると同時に、

「久しぶり」と聞こえた。それは中野あたるの声ではなかった。全身が粟立っているのが分かる。僕はブランコの勢いに身を任し、前方に飛び降りた。そして振り向き、海原凪を見た。

 彼女は僕と目が合うと柳眉を逆立てて、怒り始めた。

「なんで、すぐに返信してくれなかったの?なんで、詳しく話を聞いてくれようとしないの?なんで。なんで。なんで」

僕は怒声を聞くが早いか、さめざめと泣く彼女の手を引っ張り、公園を出た。

 張り紙に記載されていたシャトルバスの時間まで少しあった。僕は彼女の手首を握りしめて走った。その間、何も話さなかった。話せなかったから、僕は走ったのだ。下を向いて泣いている彼女の顔を上げさせるために。

 流れる景色を無言で見つめる彼女の横で、僕は携帯を見て息が詰まった。それはシャトルバスに乗るための行列に並んでいたとき、中野あたるに送信した、所謂ドタキャンメールの返信に。

「俺はいいけどさ。今日、三木の計画なんよね。詳しいことはまた今度話すけど。取り敢えずこっちは俺がなんとかしとく」

彼の言っている三木とは美樹のことだとわかった。しかしそれだけでは情報が少なすぎて、理解が追い付いていなかった。いつ、どこで、どのようにして、彼女は中野あたるの連絡先を知ったのだろうか。そして、なぜ、花火大会の計画を立てたのだろうか。

 あの告白の返事のためなのかもしれない。そう思うと、喉にできていた壁に小さな穴が開き、笛のような音が鳴った。視界の端で、その音を鳴らす僕を怪訝そうに窺っている海原凪を確認して、何もなかったかのように、携帯を閉じた。僕は罪滅ぼしをするために、また別の罪を重ねたのかもしれない。

 窓の外は色鮮やかな、沢山の花で溢れていた。シャトルバスが花畑になった駐車場に止まると、彼女が僕の手首を握り、花をかき分けながら歩いた。僕は行き先も分からずに、ただ黙って引っ張られ続けた。

 あの海沿いの道は屋台が立ち並んでいた。しかし彼女はそれらに目もくれず、雑踏の流れに身を委ねるようにして歩いていた。僕は彼女に身を委ね、気が付けば雑踏から抜け出しており、諸井駄菓子店の近くまで来ていた。お店の前まで行くと、

「少しだけ待ってて」

彼女は僕の手首を離して、お店の中へ入っていった。

 店先に設置されているベンチに座り、待つことにした。五分過ぎても出てくる気配はなく、手持ち無沙汰を感じ、ベンチの隣に置かれていたカプセルトイを回した。十五分過ぎても出てくる気配はなく、ベンチの向かいにある自動販売機で水を買って飲んだ。三十分過ぎても出てくる気配はなく、少し前に震えていた携帯を確認した。中野あたると三木美樹から届いたメールを読んでいると、四十五分が過ぎようとしていた。彼女が出てくる気配はなかった。

 自動販売機の明かりが際立ち、多くの虫が集まってきた頃、僕の足元に人の頭が現れ、淡い門灯の光が誰かの影法師を明瞭に映し出していることに気付いた。僕は足元の頭頂部からつま先へ、つま先から頭頂部へと視線を移すと、そこには知らない人が立っていた。

 その人の後ろから「お母さん、やめて」と言いながら、広い袖をなびかせて、褄先をぱたぱたと揺らし、しゃなりしゃなりと海原凪が歩いてきた。僕は一時間近く待たされた理由が分かった。そして知らない人が、彼女の母親であることも分かった。僕は急いでベンチから立ち上がり、挨拶をした。母親の後ろに立つ彼女は俯いていた。

 僕の挨拶はそこかしこから聞こえる虫の鳴き声として、彼女の母親に届いたのだろうか、何も言わず僕を見据えていた。ただ嫌悪感だけは表情に出ていた。僕はそれを見て、浴衣に着替えた彼女に申し訳ないと思いながらも、一礼をして回れ右をした。

「待ちなさい」

背後から怒声が響き渡り、僕は呼び止められたのだと思い、足を止めて回れ右をした。

 導火線に火を点けたのは、どうやら海原凪の方だったらしい。僕を追いかけようとして、抜き衣紋をしていた襟を掴まれ、奔放な犬のように制御されていた。そして引き寄せられ、湿気た花火のような乾いた音が暗闇に響いた。僕の頭には彼女のメールに書かれていた、

「解放して」

と言う言葉がスポンジに残っていた泡のように、じわじわ滲み出てきていた。母親から解放してほしいのか。これは日常茶飯事なのかもしれない。助けなければいけない。彼女の手を握らなければ。

 僕は走った。身体は酸素を欲し、吸ってばかりだった。それでも足を止めることはできない。規制された道路の中央を走りながら、古くなった酸素を全て吐き出し、新鮮な酸素を身体に取り込もうと貪った。すると新鮮な酸素は僕を落ち着かせてしまった。

 僕は握る手を解いた。全身から力が抜け、止めてはいけないと脳は命令していたが、その場で立ち止まり、僕が緊張から解放された。緊張から解放されると、自責の念に苛まれることになった。

 海原凪が頬を叩かれたとき、確かに助けなければいけないと思っていた。しかし、彼女の母親は僕の素性を知って、加害者の血縁を連れてきていたことに癇癪を起こしたのかもしれないとも思っていた。目先のことを考えるならば助けるべきだが、彼女の望む解放はできない。結果、僕は逃げ出した。彼女のためを思って。

 額の汗を袖で拭い周りを見渡すと、僕と同じように足を止めている人が多くいた。ただ僕と決定的に違うのは、足を止めている人たちは皆、上空を見上げていたことだ。神様が降りてきたかのように、顔を照らされ恍惚とした面持ちで。そんな中、僕は断続的に現れる僕を見ていた。

 僕の姿が消えると、恍惚とした人たちは啓示を受けたかのように、足元にあるゴミを拾い、一斉に同じ方向に歩き始めた。僕は波に飲まれ、気付けばシャトルバスがある駐車場へと辿り着き、人々に導かれたシャトルバスに乗った。


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