阿諛
最後のチャイムと同時に心弛び、教室は話し声と安堵のため息に支配され、先生の労いの言葉は誰にも届いていなかった。僕以外には。僕も小さく息を吐き、友達と答え合わせに夢中の人達を横目に教室を出て、初めて図書室へ足を運んだ。
教室とは違い静かで、委員会の人を覗けば誰もいない。僕が求めている作品がどんなものか知らず、パイプ椅子に座り本を読む委員会の人に聞いた。
「表紙が地球の小説って分かりますか?」
彼女は読んでいた本をハの字に伏せ、少し考えてから僕を置いて、一人本棚の陰に消えていった。五、六分して彼女は戻ってきた。その手には何も持っていない。何も言わずパソコンを操作して、
「借りられてるみたい。少し前にテレビで紹介されてたから。敦樹も見たのかな」
違う。見ていない。僕はただ海原凪が買った小説が気になり、読みたくなっただけだ。普段読みもしないのに。そんなこと言える訳なく、彼女の推理に否定も肯定もしないでいると、
「明日の放課後にもう一度来て」
それだけ言って、伏せていた本を読み始めた。彼女の邪魔にならないよう、静かに図書室を出た。
残り香をいつまでも嗅いでいたい。そんな思いで海原凪の買った本を読みたいと思い、借りに来たわけだが、読んだところで何も変化しないのは知っている。僕と彼女は平行でなければならない関係だ。然れども、触れるか触れないかの距離で平行することができるかもしれない。僕の一縷の望みだ。
翌日、約束通り図書室へ行くと、昨日と同じパイプ椅子に座っている彼女は本を読まず、友達と話をしていた。扉は開かれたままになっていて僕を気付かせる手段がなく、心証が悪いと思いながらも咳払いをして二人の会話を止め、視線を向けさせた。僕に気付くと、一人は怪訝そうにこちらを見て、もう一人は約束した当事者にも関わらず、しかめっ面をしてこちらを見てきた。
二人は顔を近づけて何か話している。僕の悪口かもしれない。膨らみかける新しいアドバルーンに小さな穴をあけた。目の前にして悪口を言うはずないと。話し終えると、怪訝そうに見ていた彼女からは怪訝の色が消え、
「隣のクラスの福北笑美です。小倉くんは美樹と同じクラスなんだね」
二人が話した内容は悪口ではなかったらしい。美樹と呼ばれた彼女が、福北笑美に僕の簡単な紹介をしたのだろう。僕の名前とクラスを。美樹と同じクラスだと。気になるところもありはしたが、然有らぬ体で改めて挨拶をした。
僕と福北笑美が挨拶をしている途中に席を外していた美樹が戻ってきた。パイプ椅子に座り、鞄の中から本を一冊出して僕に差し出してきた。表紙を見ると地球が描かれていた。
「返すのはいつでもいいから」
しかめっ面のまま彼女は言って、図書室を後にした。それは逃げるように感じた。一瞬の沈黙があって、
「その本ってテレビで紹介されてたやつだよね?」
福北笑美は聞いてきた。
「らしいですね。昨日借りにきたら借りられてて」
「え?その本は最初から入ってないよ」
「え?」
「だからか」と福北笑美は一人で納得していた。
謎の種を植え付けられ、図書室を後にした。福北笑美はその後、何も言わず自ら口を縫ったように黙していた。分かったことと言えば、この本「地球を丸くした男」は図書室になかった。それだけだ。美樹は知らなかったのだろうか。例え知らなかったとしても、パソコンを見て知ったはずだ。僕の中に植えられた種は、成長の兆しを見せようとしなかった。
ともあれ、美樹の協力で海原凪の残り香を嗅ぐことができる。彼女の厚意は僕に向けられていたが、言うなれば僕は彼女の厚意を利用したことになる。彼女の不思議な嘘のおかげで。