残された書
過ぎ去りし日の出来事をここに記そう。
それが自分を今の自分にしたと思うから。
それはまだ子供の頃だった。
当時小学生だった私は、ごく普通だったと思う。
友達がいて、学校に通って、ネットで見た事を語り、ゲームをして。
運動よりは室内にいる方が多かったとは思うが、それでも世間の平均に位置する方だったと思う。
それが一変したのは、当時の友人に誘われた事による。
「なあ、ちょっといいか?」
いつもと違って真剣な表情だったのをおぼえている。
ただならぬ…………というほどではなかっただ、明らかに何かが違うのを感じた私は、いったい何がと思ったものだ。
ただ、これは避けては通れない、断るわけにはいくまい、と強く思った。
特に何か理由があったわけではなく、彼が友人であり、真剣な願いを無下に断るのは男の友情にもとる、と思ったからだ。
おそらく、当時読んでいたか見ていた漫画やアニメに影響をされていたのかもしれない。
あるいは、その時読み始めていたライトノベルのせいだったのだろうか。
何にせよ、約束は守る、信義は裏切らない、というのは子供ながらに私の行動規範となっていた。
もちろん子供の頃の事だ、それほど深く考えていたり、その意味などについて理解があったかと問われれば疑わしい。
間違いなく言えるのは、当時私を動かしたのは、今でも十分通用するそんな人としての規範のようなものだった。
それから下校して。
一度言えに戻ってから友人との待ち合わせに向かった私を、別の友人が迎えてくれた。
その友人もまた、声をかけてきてくれた友人に呼ばれたのだとか。
友人が複数になるから、ここから彼らを混同しないようにそれぞれに名前を振っておこうと思う。
これが私だけが読むならこんな手間は必要ないのだろうが、一応これが別の誰かの目にとまる事を考慮して。
最初に声をかけてきてくれた者を、安西(仮名)としよう。
待っていた者を飯山(仮名)とする。
今後人数が増えるにつれ、適宜名前を付けていく事とする。
これらはここで仮に割り振った者なので、本名というわけではない。
彼らにも生活があるし、今があるだろう。そんな彼ら現在に下手な影響を与えたくないのだ。
さて、あらためて飯山と共に友人を待っていた私だが。
何とそこから更に別の人間が増えた。
自転車に乗ってあらわれたのは、隣のクラスの植山(仮名)と江守(仮名)だった。
どちらも、顔と名前は知ってるし、同じクラスなので声をかけられた事もあったが、さして親しいわけではない。
ただ、安西とは交友があり、それで呼ばれたのだろう。
総勢四人となった私たちは、呼び出しておいてまだ来てない安西に、「何やってんだ?」「遅ぇよ」などと文句を言いながら、それでも到着を待った。
結局一番最後にやってきた安西は、「わりぃ、わりぃ」と全く悪いと思って無い態度であらわれた。
そんな安西に、四人であれこれと文句を言ったが、「まあまあ」となだめた安西は、あらためて真剣な表情で私たちを見渡した。
「じゃあ、ついてきてくれ」
大事な要件だとかで呼び出した安西は、そういって再び自転車に乗り込んだ。
いまだに理由の説明のない私たちは、いったいなんなんだと思いつつも、その後ろについていくしかない。
もちろんここで帰ってもいいのだが、誰もそんな素振りをみせなかった。
そこで引き返せば、私も別の人生があったかもしれないが。
だが、その時の私たちは、ただ安西の後ろをついていく事だけしか考えてなかった。
自転車というのは行動範囲を一気に拡大する便利な乗り物だ。
子供で扱えるこの人力移動装置は、家と小学校、そして公園くらいまでの範囲でしか行動できなかった私たちを待ちの外へと連れていく。
その時も私たちは、いつもの行動範囲を超えた更に遠くへと向かっていった。
子供で行ける範囲だから高が知れているが、それでも当時としてはちょっとした冒険だった。
隣を走る飯山と、
「どこ行くんだろうな」
「さあ?」
などと語りながら進む私たちは、やがて学区の範囲を超えていた。
見知らぬ道を進み、知らない町を抜け、田んぼや畑、あるいは林の横を通り。
私たちはいつしか川へと出ていた。
済んでる所の近くに川があるなど、この時まで知らなかった私には結構な驚きであった。
その川沿いに進む安西は、やがてとある所でブレーキをかけた。
堤防のような、土手のような盛り上がりを上がり、そこから川岸に出る場所である。
「なあ、こんな所に何のようなんだよ」
後ろにいた植山が幾分不機嫌そうに言っていた。
それもそうだろう。
時間を計ってなかったので詳しくは分からないが、おそらく二十分から三十分は走りっぱなしだった。
理由も分からずつれて行かれれば、言い隊のことの一つや二つも出てくるというものだ。
だが、そんな植山の声も無視して、安西は先へと進む。
「いいから来いって。いいもんあるから」
いったいなんなんだと思いつつ私たちはその後ろについていった。
向かった先は、川岸にある雑草の生い茂る場所で、周囲からの視線を妨げるような所だった。
普段なら特段近づく事もないような場所である。
だが、そこに向かっていった安西は、「ほら、これ」と言ってそこに置いてあった────否、落ちていたものを指す。
それを見た私たちは、一様に驚いた。
「わあ…………」
と記憶に残る簡単の声を漏らしたのは、江守だっただろうか?
私も、声は出せなかったが同じような気持ちになっていた。
そこにあったのは、それほど異彩をはなっていたのである。
「な、すげえだろ」
「お、おう」
したり顔の安西に、私は頷くしかなかった。
確かにそれは、今まで見た事もないものだった。
そこにあったのは、束ねられた書物であった。
単に書物というだけなら私も図書室や父の本棚で目にしている。
書店に行って、大量の本を目にした事もある。
だが、そこにあった書物は、それらと趣を完全に異にしていた。
誰もが目を釘付けにしていた。
その中で、ここに誘った安西だけが割りかし正気を保ち、「ほら」と言って書物を我々に差し出してきた。
それを最初に手に取ったのは誰であっただろうか。
そこは記憶が定かではないが、気がつくと全員その場にかがみ込んで書物を読み始めていた。
内容は今まで私たちが読んできたものとまるで違う。
記された内容の異常さに私たちは圧倒されていた。
「へえ……」
「すげえ」
「おい、こっち」
「ああ、これもな」
そんな声が私や周囲の者達から上がる。
一通り読み終わったあと、私たちは一斉に安西に目を向けた。
ますます得意顔になってる安西を責めようとする者はもういなかった。
安西がここに連れてきた理由が分かったし、その理由に文句を付ける事もできなかった。
「どうしたんだ、これ」
「見付けたんだ、この前な」
「どうやって?」
「前に兄ちゃんに聞いてな」
この中で年上の兄弟がいるのは、安西と江守だけだった。
江守には二つ上の姉がいたと記憶している。
安西は逆に、更に上の兄が二人いたはずだった。
思い出してみれば、あの中で安西だけが末っ子だったような気がする。
考えてみればおもしろいものだ。
私は弟や妹がいる長男なのだが、別の誰かは同じ年齢にも関わらず一番下の子なのだから。
おかげで安西は年上の兄達から様々な情報を得る事ができていた。
良くも悪くも大人びていたし、はっきり言えばマセていたのはそのためだったのだろう。
多少は大人になった今ならばそんな事も考えつく。
その情報源たる兄から何をどう聞いたのかは分からないが、どうもこの川岸にはこういった不可解な物がおきざりにされる事があるという。
いったい誰がどうしてそんな事をするのかさっぱり分からないと言うが。
その置物、あるいは落とし物の一つがその時の書物だったのだろう。
「な、これ持って帰ろうぜ」
安西の言葉に、私は呼ばれた理由が分かった。
放置されていたとおぼしき書物は結構な量があったし、一人で持ち運ぶのは手間であった。
また、ざっと見た内容からしても、おいそれと他人に見せてよい物ではないと思えた。
それはまさに異次元の有り様を描写したもので、迂闊に他人に見せる事が躊躇われるようなものだった。
考え過ぎだったかもしれないが、私達はなんとなくそんな事を考えていたのだ。
だから、それらを秘密裡に回収し、誰の目にとまる事なく保存しようと無言で決めていた。
それからは早かった。
スーパーのビニール袋を持ってきていた安西が手早く書物をまとめ、私達に手渡していく。
必要な時はそれらを回し、それぞれの相手に融通するよう約束をした。
ここでの事を他に漏らさない事も含めて。
かくて私達は、生まれて初めて誰にも言えない秘密を共有する事となった。
それからの事は取り立てて書く事はない。
特に期日を決めていたわけではないが、ある程度定期的に川岸に向かい、いつの間にか増えてる書物を手にして帰っていった。
秘密の保管場所として選んだ、近所の森の中にそれらをビニール袋に入れて保存し、読みたいときに読めるようにしていった。
その森は後日宅地造成で潰れてしまったが、今でもあの森は私と、そしてあのときの仲間達の心の中で往事の姿を留めている。
そんなこんなで私達は、秘密を共有する仲間としてその後もそれなりの仲を保っていった。
各自の生活や日常で、仲間にも伝えてない事は色々あったであろうが、書物に関する事では誰にも何も隠し立てするような事は無かった。
ただ一つの事を除いて。
私は彼らを裏切っていた事を告白しなければなるまい。
今となってはそれを謝る事もできないが。
伝えられたとして、彼らがそれにどう応じるかも分からない。
おそらく彼らにとってそれは迷惑な事にしかならないとも思える。
だが、私は私だけが知るであろうその事実を、自分一人で抱える事ができないでいる。
長々と記述したが、私はその事についてこれから記そうと思う。
ここまでの話は、そのための前提となる状況を説明するためのものだ。
ある日、というかある期間、私は川岸に一人で向かっていた事がある。
時折置いていかれるあの書物を誰が持ち込んでるのか気になったからだ。
その正体を突き止めようと、時間があれば川岸に向かっていた。
もちろんそんな事をしても謎が解けるわけでもない。
小学生だった私の行動時間は、どうしても夕方に限定されてしまう。
学校から帰り、空が暗くなるまでの限られた時間が、私が自由に出歩ける期限であった。
そんな私に、謎を突き止めるだけの余裕があるわけもない。
しかし、諦める事が出来なかった私は、夏が来るのを待って、思っていた事を実行した。
子供ならほぼ誰もが手に入れる夏休み。
それが、私の行動時間を大幅に延ばしてくれると信じて。
そのために私は、何が出来るかを考えていった。
いくら夏休みとはいえ時間の全てを費やす事はできない。
宿題に、家族旅行、盆の帰省などなど。
それらを考えると、やはり時間は限られてしまう。
だが、何度も川岸を見張っていたことで、書物の出現にある程度の法則性があるのは掴めていた。
日時や曜日が決まってるわけではないようだが、毎月後半、だいたい二十日から二十五日の間に書物はあらわれる傾向にあった。
その時期のいつ頃にそれがやってくるのか分からないが、私はその期間に全てをかける事にした。
盆の帰省も家族旅行もその時期にはない。
その代わりに宿題に毎年没頭する羽目になっていたが。
その年は目的達成のため、夏休みに入った直後から宿題を片付け始めていった。
一応七月の同じ時期も見張りに出かけていたので進みはそれほど早かったわけではない。
それでも八月前半、お盆になる前には全てが終わっていた。
驚き喜ぶ親の顔が忘れられない。
そういうわけで夏休み後半、自由を手にする事が出来た私は、来るべきその時期に備える事となった。
他の仲間はまだ宿題を終えてなかったが、その時の私にはそれがありがたかった。
一人で見張りに行っても咎める者がいないからだ。
そして私は、夜になって家族が寝静まってから川岸へと向かっていった。
八月十七日。
私は行動を開始した。
今までの状況からして、この時期に書物があらわれる可能性は低いのだが、もしかしたら早めにやってくるかもしれないという用心があった。
その程度の知恵は、まだ子供だった私にもあった。
もちろん初日は空振りに終わった。
明け方、空が白身始めた頃に言えに戻り、布団に入り、少し遅めに起きてまた川岸に。
書物があらわれてないかを確かめてから夜を待つ。
そして再び深夜に外に出る。
二日目、三日目も空振り。
さて、今月も駄目かと思って迎えた翌日。
忘れる事のできない八月二十日がやってきた。
その日も昼間は書物が表れなかったので、私は今夜からが勝負かな、と思いつつ夜を待っていた。
刻限がきたら、多少は要領をおぼえて家を出られるようになり、夜の暗がりでもある程度平気で走れるようになった道を進んでいった。
目的地についたら、自転車を草むらに隠し、書物があらわれるのを待った。
誰がそれを置いていくのだろうとその時は好奇心をもって待っていた。
懐中電灯も付ける事ができない暗がりの中、恐怖を覚えることもなくただその瞬間が訪れるのを願いながら。
そして、その瞬間がやってきた。
不思議な事に、私はその者がいつやってきたのか全く分からない。
夜中で寝ぼけていたのもあると思うが、本当に突然出現したように思えたのだ。
だが、私以外にも川岸にやってきていた存在がいて、その者はいつも私達が書物を回収していく場所へと向かっていった。
歩いてきた方向からして堤防(土手とも言う)から来たとは思うのだが。
不思議に思ってる私の前で、その者は手にした束をそこに置いていった。
私は、ようやく見付ける事ができたのだ、書物を提供してくれていた者を。
残念ながら姿形ははっきりとは分からなかった。
空は少し白み始めていたが、まだ暗く、ある程度離れてしまうと輪郭をつかむのがやっとになってしまう。
目は暗さに慣れていたが、それでも相手の姿をはっきりととらえる事はできなかった。
何となく男であろうと思えた、それくらいしか分からない。
だが、恐怖はその次の瞬間にやってきた。
その男(?)は、書物を置いてその場から立ち去ろうとした。
私の方に顔を向けてから。
その時の驚きといったら、言葉にあらわす事も難しい。
暗がりの中、細部をとらえる事ができない状況なのに。
私は草むらに隠れていたのに。
なのに男は、間違える事なく正確に私の方を向いていたのである。
それも、振り返る途中、一瞬止まったとかではなく。
明らかに私がそこにいる、と分かっていて私のいる方向を見ていた。
そうとしか考えられなかった。
夏という事もあり、草も背が高かった。
仲間と共に来たときに確かめてもいたから分かる。
あの頃、子供だった私達の背丈で草の中にかがみ込んだら、まず見つかる事は無い。
それだけ草の丈は高く、かがみ込んだ私達を覆い隠す事ができたのだ。
まだ日が照ってる時刻ですらそうだった。
夜中に私を見付ける事ができるわけがない。
その時私は、心底恐怖した。
恐怖というものが如何なるものかを知った。
お化け屋敷や怪談、肝試しなど、それに比べれば子供だましのお遊戯でしかなかった。
身も心も凍り付いていた。
しかし男は視線を外して歩き出し、堤防の方へと向かっていった。
草を踏みしめる足音を聞きながら、私はその方向を見る事もできず、ただ男の立っていた場所に視点を固定したまま固まっていた。
やがて朝が来て周囲が明るくなるまで、私は全く動く事が出来なかった。
それから私は川岸に行くのをやめた。
仲間達は「どうして?」と尋ねてきたが、理由を話す事はできなかった。
言ったら私が何をしてたのかバレてしまう。
そうだとしても大した事ではないのだが、仲間との無言の取り決めを破ったようでいたたまれなかったのだ。
糾弾が怖かったのもある。
また、仮に言ったとしても、果たして信じてくれるかどうか。
怪談話としておもしろがってくれたかもしれないが、それはそれで嫌だとも思った。
あれはおもしろおかしく語ったり受け止めてもらいたいようなものではなかっからだ。
かくして私は自然と仲間と距離を置くようになり、やがて彼らと疎遠になっていった。
行動を共にしなくなったのが大きいだろう。
接点のない人間をいつまでも気にかける者はいない。
また、それは仲間だった彼らだけとの事ではない。
教室内やそれ以外で付き合いのあった人間との関係も、この時期から消え始めていった。
もともと外より部屋の中で遊ぶのが好きだったのだが、この頃から更に家の中にいる事が多くなった。
書物をあさりに行くという理由もなくなり、学校以外で外に出る事は皆無に等しくなった。
外に出ると、どうしてもあの時の事を思い出してしまい、身がすくんでしまうのだ。
引きこもりひどひどくは無かったと思うが、それからの私は、家と学校、家と塾などを行き来するだけの生活になっていった。
その変化を両親や周りの者達は不思議がっていた。
だが、理由についてはついに話す事はなかった。
それを今になってなぜ書き出してるのか。
おそらくこれを目にしてるあなたはそう思ってるのではないだろうか?
その理由をこれから記していく。
ごく最近になって。
私はとある人物と接する機会があった。
詳しい事は分からないが、人当たりのよい人物で、見た目も頭もよい男だった。
それが羨ましく、嫉妬をおぼえたりもする。
だからと言って邪険にしたり、悪態をつくような事はなかったが。
しかし不思議な男である。
やや褐色がかった肌で、白人でも黒人でもない人種だった。
かといって私のような東洋人のような黄色とも違う。
人種を特定するのが難しい容貌だった。
加えて年齢も判別するのが難しい。
さすがに子供や老人というわけではないが、青年であるのか壮年なのか分からない。
精力的な若さを感じる一方で、老獪な奥の深さを醸し出していた。
共通の趣味を通じて知り合った人物で、その方面では様々な話をしていた。
最初に会ったのはネットで、それから趣味の集まりで顔をあわせた。
その時の衝撃といったら、さてどう言い表したものか。
相手がこんな格好いい奴だったというのと、こんな若かったのかというのと。
とにかく色々な感情がわき起こり、とても一つにまとめられない。
何より、そんなものとは別に感じる妙な感覚に疑問を抱いた。
いったい何だろうと思ったのだが、答えを見付けるのはそれからずっと後になる。
ともかくその時は、抱いた不思議な、決して良いとは言えない感情に不安をおぼえながらも、彼との会話を楽しんでいた。
彼の提供する話題は豊富で、話し方も素晴らしかった。
何をどうすれば相手に伝わるのか、またどう喋れば面白くなるのか。
そういった事を十分に熟知しているようだった。
もともとの頭の良さもあるのだろうが、それを上手に扱う技術の研鑽も怠ってないようだった。
自堕落に生きている私からすると羨ましいものだった。
そんな彼との接触を持つようになり、私は久方ぶりに友人や仲間というものの良さを再確認する事が出来るようになっていた。
相変わらず一人でいる事が多かった私だが、彼のおかげでようやくそこから抜け出せるような気になっていた。
相変わらずあの時の出来事は私の心に暗い影を落としていたが、そろそろ前に進もうという気になり始めていた。
しかし。
それが大きな間違いだと私は程なく悟る事となった。
ネットでは頻繁にやりとりする相手であったが、現実で接点を持つとなるとなかなかそうもいかない。
会う事が出来るのは、趣味の繋がりの者達が一同に会する時くらいである。
私自身がそれほど外に出る事がないから、その回数は本当に少なかった。
だが、その少ない回数を私はいつの頃からか楽しみにするようになっていた。
その時の私に、文句を言えればと思ってしまう。
だが私はその後に待ち受ける事なども知らず、同好の士や彼に出会えるのを楽しみにするようになっていた。
そして何度目かの会合の時。
彼は申し出て来たのだ。
あの提案を。
何の事はない、軽いお誘いである。
「面白いものを見付けたから、皆で見にいかないか」と。
その瞬間。
私の全てが凍り付いた。
懐かしく、そしておぞましい記憶の発端となった言葉とそっくりだったからだ。
子供の頃のあの日のような。
そして。
脈絡もなく私は悟った。
目の前にいる彼は、彼こそが────。
それを口するにも言葉が出ず、意思を示そうにも体も動かず。
ただ、その場を逃げるように後にした私は、ただただ怯え震えながら家へとむかっていった。
しかし。
逃げようがない事も感じていた。
もし彼が、私の前にあらわれた魅力的なあの男が。
私の想像通りの存在だとするならば。
どこに居ようとどこに逃げようと全てが無意味であろう。
朝焼け直線の川岸で、草むらに潜んでいた私を見付けたあの男ならば。
そう、私は全く根拠がないにも関わらず確信を得ていた。
子供の頃、川岸で私を見つめていたであろうあの男と、ネットを通じて出会った魅力的な男が同一人物である事を。
何故なのかは分からない。
だが、私には奇妙な確信があるのだ。
それは、男に抱いていた不思議な感覚にもよる。
私が趣味の集いで出会った男に抱いた感覚。
それは、川岸で男に見つめられた時に得た感覚と全く同じだったのだ。
最後に記しておきたい。
ネットを通じて彼から連絡があった。
彼と共に出かけた者達はとても素晴らしい体験をしてると。
彼らは今、とある場所で夢のような生活をしてるという。
それがどんなものであるか言葉で、そして動画を含めた映像で見せられた私は激しく心がゆれた。
確かにそれは理想であろう。
私もそんな事が実際に出来れば、と何度も夢に描いたものだ。
だが、それは実現する事がないから楽しめるものでもあったはずだ。
実現してしまったらどうなるのだろうか。
あるいは夢の中にいるような楽しい日々が待ってるのかもしれない。
その逆に、決して報われない悲惨な毎日になるのかもしれない。
だが私はそれを断る事がなぜか出来なかった。
返事は保留にしてあるが、どうしても心惹かれてしまうものがあった。
それは私の趣味に直結してるからでもあろう。
趣味のおかげで私は、ある意味人生を決めてきた。
その元を辿ればあそこに行き着く。
川岸で拾った書物に。
その瞬間に私は、遅かれ早かれこの道へと進んできていたのではないかと思う。
そして、それはあの男が、わざわざ川岸に書物を置いていった男が仕組んだものではないかと思ってしまう。
なぜそんな事を、とは考える。
何の利益があるのかと。
男にとってこれにどんな意義があるのか分からない。
それでも私は、あの書物が男の設置した罠であるという考えをぬぐいきる事ができない。
こうなるように仕向けるための。
男が誘う世界に連れ出すために。
私はその罠にはまりそうになっている。
自らの意思で。
誘惑にのりそうで怖い。
しかし、その先にあるであろう世界を想像すると胸が高鳴るのも確かだ。
思い描いてきた楽園の存在があるのに、それを断る勇気がある者がどれだけいるだろう?
私はそれができるような英雄でも賢者でもない。
どこにでもいる凡庸な俗人の一人である。
だからこそ、その誘惑にのりってしまいたい。
いずれ私は男にそう返事をするだろう。
だが、その前に、私に起こった事を記しておこうと思った。
誰に何のために伝えるのか、意味があるのかも分からない。
それでも、私がここにいたという証を少しでも残すために。
これが後に何かの役に立つかもしれないと考えて。
何よりも、あの男の正体について記しておきたい。
私を誘い出したあの男の。
幾つもの姿を持ち、様々な世界、数多の次元に同時に存在する事ができる、あの男を。
男であるかも今となってはあやしく思うが、目の前にあらわれるとき、たいていは男であるからそれでかまわないと思いたい。
まずはあの男の、いや、あの存在の名前から始めよう。
あの男の名は────
*********
そこまで読んだところで、男は手記から目を上げた。
「なんてこった…………」
落胆や絶望の念にまみれた声が漏れる。
手記は男の伯父にあたる人物の物で、当人の失踪の後に発見されたものだった。
よくあるノートに書かれたそれは、読みやすさをさほど考慮したものではない。
文筆的な才能があったわけでも、それを学習していたわけでもないので仕方がない事ではあったが。
それでも読み進めていくうちに、男は冷や汗を体の様々な所に浮かべていく事となった。
(これ、間違いなく…………)
頭に浮かんでくる考えが、手にした手記と重なっていく。
伯父の失踪、その原因を調べていくうちに上がっていくいくつかの奇妙な点。
また、伯父の辿った足跡を探る中で見つかっていった、同様の事件とそこにある共通点。
朧気ではあったが、そこにとある事象が常に浮かび上がっていた。
(この男……何者なんだ?)
どの事件にも、男の存在があった。
何者なのか、どこから来たのか全く分からない男が。
その男があらわれた事で伯父を含めた様々な人物が道をあやまっていった。
ギリギリ社会人として生活は出来ているが、どこか切羽詰まったような、危うい生き方をしていた者達。
生まれも育ちも過程もそれぞれ違うが、大まかな道筋は似たようなものであった。
全ては、男が絡んでいる。
今回、伯父の手記を再び読むことで、様々な事件との繋がりが更にはっきりした。
以前は見通してたり、読んでも意味が分からなかった部分が今は分かる。
むろん、まだ不明確な部分もあるが、それでもおおよその意味はくみ取れる。
その一つが男の存在だった。
今、男は不思議なほどに確信を得て言える事がある。
(この中に出てくる男…………こいつは全部の事件に関わってる)
伯父が幼少期に出会ったという男と、大人になって出会った男が同一人物であると確信したように。
そんな事が可能なのか、とは思う。
だが、手記の後半部分に記された事が本当ならば、それは十分にありえた。
普通だったら信じる事はなかっただろう。
しかし、伯父の失踪を含め常軌を逸した事件に出くわしてきた。
それが男から常識の外の可能性を考えさせていた。
(とにかく、これも含めて考えていかないと)
警察による事件の調査はほとんど終わっている。
その結果は、証拠不十分、動機不明の行方不明というものであるが。
だからこそ男は自分の手で調べようと思った。
謎だらけの失踪の原因を。
必要性は全くなかったが、好奇心が男を後押ししていた。
空いた時間で進めてるので、どうしても色々と遅れてしまっていたが。
それでも、謎を謎のままにしておきたくないので、足を使っていた。
「とにかく、これを当たってみるか」
伯父の手記に残されていた、まだしも現実味のある部分。
子供だった伯父が手にしたという書物。
それが、何かを知る手がかりになるだろうと信じて。
それを所有していた、かつて父の仲間だったという者達。
彼らを訪ねれば、現物を手にする事が出来るかもしれない。
そうでなくても、当時の情報を聞き出す事が出来るかもしれなかった。
手記を鞄に入れ、男は立ち上がる。
その先に何があるかは分からなかったが、とにかく何かを手に入れようとしていた。
その姿を見守る人影が一つ。
人種も年齢もはっきりさせる事が出来ない存在が、とある家から出てきた男の姿を目で追っていた。
距離がある程度離れてる事もあり、相手には気付かれてない。
その姿がはっきりと見えなくなるまで、その者は歩いていく男の後ろ姿を見つめていた。
「ふむ…………」
どこか満足気に男はその姿を見ながら踵を返す。
その足はその町の近くにある寺へと向かっていった。
住職のいない所なので人の気配はない。
その寺の本堂の軒下に、男は手にした物を放り込んだ。
「さて、今度は誰がひっかかるものか」
ニヤリと底冷えするような笑みを浮かべて男は立ち去る。
やがて誰かがそれを発見し、好奇心を刺激するであろう事を夢想しながら。
今まで多くの者をひきよせてきたこの書物が、再び多くの者達を引きずり込む事を楽しむように。
その場を後にする男は、次の場所に向けて、その場から立ち去っていく。
後に残るのは、静かな寺と、軒下の書籍だけ。
それこそが、束ねられたその紙の集合体こそが、男の仕掛けた罠であった。
人を惑わし、しかし引きつける妖しの書。
エ・ロ異本────である。
<完>
うん、まあ、こういうもんだという事で。
謎が謎のままだったり、そもそも謎にすらなってなかったり、「これ、どういう意味なんだ?」ってのも盛りだくさんだと思う。
何よりも、わざわざ名前を出した意味があるのかな、と思ってしまったり。
これらは今後その気があったら修正していくとして。
でもまあ、雰囲気だけでも楽しんでもらえたら。
とりあえず今回も、「こんな感じの文章です」という見本と受け取ってもらえれば。
また、今回やりたかったのは、最後の一行だけでございます。
ええ、それだけなんです。
なんかもう、色々と………………ごめんなさい。
ではまあ、また今度。