第九十八話
元治元年 5月8日
将軍家茂公の江戸帰還に伴い、道中警護を仰せつかっている新撰組一行が大坂に着いたのは昨夜のこと。
一夜明け。
市中見廻りに出た隊とは別で、近藤と土方は永倉と原田を供につれ南堀江にある道場を訪れていた。
「皆様。無事のお着き、祝着に存じます」
「やぁ、谷さん。元気そうでなにより」
「は。ありがとうございます」
到着した4人を迎えたのは、道場主でもある谷三十郎と弟の万太郎、昌武の3人である。
三十郎は恰幅も良く真面目一徹という言葉がピッタリくるような男であるが、弟万太郎は人当たりの良い優しい顔つきが印象的な好青年で、その下の昌武は歳の割りに幼い顔立ちの少年・・・・・・といったところである。
同じ兄弟でも、こうも違うものかと思えるほど3人の個性はバラバラだった。
「ところで三十郎さん。大坂はどうだい?」
「は。ここのところ浪人の数が増え、治安の悪化が懸念されております。それに」
言うべきかどうかを躊躇ったのか、三十郎の歯切れが途端悪くなる。
それを見越した土方が先に口を開いた。
「米の値段が上がっている、か?」
「もうお耳に入っておりましたか」
「あぁ、まぁな。京ではそんなことなかったので、俄かに信じ難い話だったのだが・・・・・・昨夜、宿の主人からも聞いたんでな」
「はい。秋ごろから少しづつ上がり始め・・・・・・今では庶民だけでなく商家ですら容易に手に入らぬとか・・・・・・どうにも出回っている米の量が少ないようで」
「ほぉ。それは、またおかしな話だな。昨年が不作だったというわけではないのだろう?」
出回る量が少ない、という三十郎の言葉に眉を顰める土方。
近藤たちも驚いた表情で顔を見合わせている。
早い話が需要と供給が吊り合ってないということだ。
欲しがる者が多いのに、それに合うだけの物が足りていない。
となれば価格が上がるのも道理だ。
「はい・・・・・・値上がりも当初は気づかぬほど、少しづつ上がっていたようで。気づいた頃には既に三割高になっており、今では一年前と比べれば五割高に近いところまできております」
「それは猶予ならぬ話だな。米がなければ、人は生きられぬ」
腕を組みなおした近藤が表情を曇らせながら呟く。
農民出身の近藤たちにとって、米というものは本当に身近で不可欠なものなのだ。
「はい。米ほどではありませんが、他の穀物も少し値を上げていますので・・・・・・このままでは庶民が暴動を起こしかねません」
「それは困る。すぐに手を打たねばならんな」
暴動が起これば、それに乗じて良からぬことを考える輩も出る。
そうなれば治安は悪化する一方になり、悪循環にしかならない。
「そりゃそうだっ!大坂まで来て腹いっぱい飯が食えないなんて俺は御免だぜ!!」
「そうだな、おメェは飯が食えなきゃ機嫌がすこぶる悪りぃから、八つ当たりされる隊士たちが可哀相でならねぇ」
ウンザリした様子の永倉がボヤくと、原田が聞き捨てなら無いとばかりに目を剥いた。
「俺がいつ八つ当たりなんぞっ!?」
「おいおい昨夜のこと、忘れたとは言わせねぇぞ?」
「・・・・・・」
永倉の冷たい視線に思い当たる節があったのか、途端に原田は背中を丸めて大人しく座り直す。
昨夜。「ご飯のおかわりがない」と言われて茶碗を投げたことでも思い出したのだろう。
「とにかく、だ。原因がわからねぇと解決策もみつからねぇ。どうだい、心当たりはないのかい?」
土方が問いかけると、三十郎の表情が途端に曇るのが見えた。
「なぁ、暴動を見越した長州方の仕業ってことはねぇのか?」
原田を大人しくさせ、考え込んでいた永倉がふいに口を挟む。
確かにその線が一番疑わしく、有り得る話しでもある。
だが、大坂という地で長州がそんなに力を振るえるのか?という疑問も残る。
「永倉の言う通りだな。それなら話しも早えぇし、手の打ちようもある・・・・・・が、どうだ?」
もう一度問う土方の言葉に、三十郎は重い口を開く。
「それが・・・・・・どうにもキナ臭い話がありまして・・・・・・」
「なんだ?」
聞き返す土方に耳打ちする三十郎。
それを聞いた4人の顔つきが見る見るうちに険しくなっていった。
同じ頃。
大坂城に入っていた半蔵は、一通の文を大切そうに読み返していた。
先日、あかねに呼び出され手渡され・・・・・・いや忍ばされたもの。
あの時は気づかなかったのだが。
懐に差し込まれた文は2通あった。
1通は当然のことながら、和宮さま宛。もう1通は・・・半蔵宛。
さすがに恋文・・・・・・と、までは言えない内容ではあるが。
それでも。
そこにはあかねの気持ちが詰っていて、半蔵を幸せな気持ちにするには充分だった。
「あかね、らしいな。詫びながらも、しっかり己の信念だけは貫きやがる。これでは無理を通すわけにはいかねぇな・・・・・・」
ひとり呟きながらも半蔵の顔には笑みが浮かぶ。
そこには―
『妻になれぬこと申し訳ないと思っているが、これからも国を護る同志として共に戦うとこに変わりはない。今の自分には護りたい人がいる。現在も、過去も、未来もそれは変わらない。全てが終わり平穏な世が訪れ、その御方を護り通せたなら、そしてその時互いに生きていたなら、その時は共に平和な世を祝いたい』
最後まで妻になるとは言わず、生きて会うこと叶えば共に祝いたい。
つまりは・・・・・・また会えると信じている。とあかねは伝えているのだ。
会う約束があるから、簡単には死ねない。
どんな時にも生きる道を選び、生き抜く決意を抱かせる言葉。
そして。
あかね自身も、必ず生き抜くという誓いの証。
これが最後ではない、という約束。
死と隣り合わせでありながら、生きる誓いを立てるということは固い決意の表れ。
忍びである以上、いつ命を落としてもおかしくはない。
出来ぬ約束を果たすことで、あかねは誠意をみせようとしているのだ。
それは『愛してる』の言葉よりも、ずっと重く深い。
(もし万が一、死んだとしても悔いは残らないな。生きることへの執着。それがこんなにも力強いものだとは・・・・・・・)
と半蔵はくすぐったそうに、でもどこか幸せそうな笑みを浮かべていた。
そのためにも。
避けて通るわけにはいかない事がある。
惚れた女のためだけでなく。自分のために。
緩んだ表情を引き締め、半蔵は一歩踏み出す。
揺らぎそうになる心をギリギリのところで繋ぎとめ、溢れそうになる感情を抑え込む。
既に違えてしまった道を歩く、弟に会うために。
その頃。
市中見廻りに出ていた銀三は、とある米問屋の裏口に消えていった男の姿を茫然と見送っていた。
後姿とはいえ、見間違いとは思えない。
いや、見間違いではない。
あの気配は間違いなく彼のものだ。
いつも追いかけていたその背中。
自分を守ってくれた背中は変わらない。
何年経っても、姿かたちがどんなに変わろうとも。
その気配が変わることはない。
金縛りにでもあったかのように立ち竦む銀三の視界に、もうひとり歩いてくる男の姿が映る。
物陰に隠れている銀三に気づくこともなく、辺りを見まわしたその男は滑り込むかのようににその裏口へと消えていった。
誰が見ても「何かある」と思わせられるようなその不審な行動。
その瞬間。
銀三の身体は迷うことなくその問屋の中へと入っていた。
彼に気づかれないよう自分の気配を消し、息を殺し、誰にも見つからないよう屋根裏へと入り込む。
そこで見る真実がどのようなものであっても、自分は知らなければならない。
それが自分の役目であると信じて。