第九十六話
同日 夜
壬生 新撰組屯所 近藤の部屋
「公方様が江戸へ?」
「あぁ。それで大坂までの警護を仰せつかってきた」
「・・・・・・つまり。あんたの申し出は却下された・・・・・と?」
近藤が出向いた理由とはまったく正反対の答えに、土方は全てを読み解いたかのような視線を向ける。
「いや、容保様には会えなかったんだ。病に臥せっておいでらしく、その件に関しては保留とされた」
「なるほど、保留中だから任務には就けってぇことか・・・・・・うまく誤魔化されたな」
土方がフンっと鼻を鳴らすと、近藤は苦笑いを浮かべ着座する。
あながち間違っているわけではないからだ。
「あぁ。だが、どうも容保様にはお考えがあるように思えてならない」
「と、いうと?」
「いつもの容保様であれば・・・・・・直接お話になり、説得なり叱責なりなされると思うんだが・・・・・・今回はそれをなさらなかった・・・・・・どうにもそれが引っかかってな」
近藤自身もその覚悟をしていたのだ。
容保公を目の前にしても、怖気づくことなく自分の想いをキチンと伝えるつもりだった。
だからこその文でもあった。
それが・・・・・・姿すらお見せになられなかったのだ。
「そういや前にも似たようなことがあったな・・・・・・確か給金を断ったとき、だ。あん時は容保公に丸め込まれて帰ってきたもんなぁ」
「丸め込まれたって・・・・人聞きの悪い・・・・・・まぁ、そうなんだが」
バツの悪そうな顔で頬をポリポリと掻く近藤に、土方が意地の悪そうな笑みを向ける。
「なるほど・・・・・・確かに引っかかる気もするが。だが、目的がわからん」
「そう、だよな・・・・・・でも、何か考えがあってのことに思えてならない。保留とはそういう意味ではないか・・・・・・とな。まぁ、本当に病ということも有り得るのだが」
ふぅ。と一息吐いた近藤を横目に、土方は胡座の上に頬杖えをつく。
「まぁ、容保公の真意はわからねぇが・・・・・・警護の任には就かねぇとな。今のところ会津藩御預であることには変わらねぇんだからな」
「あぁ、そうだな。公方様がこのまま江戸に帰られることには納得いかないが、な」
渋い表情で腕を組んでいた近藤だったが、「仕方ない」とでもいうかのように頷いた。
「公方様が江戸に?」
ふいに頭上から降り注いだ声に、ふたりは驚いたように頭を上げる。
「あかね?・・・・・・いつからそこに」
「すみません。声は掛けたのですが、お取り込み中だったようなので・・・・・・」
そう言ったあかねの手には、急須と湯のみが載せられた盆が握られている。
「いや、構わないよ。丁度、飲みたいと思っていたところだからね」
座るように促す近藤に、あかねは安堵の表情を浮かべ従う。
「それで・・・・・・公方様はいつ江戸へ?」
「数日中には京を出立されるとのことだが・・・・・・」
そう答えると同時に近藤は湯のみに口をつける。
「そう、ですか・・・・・・それは良かった」
「良かった?」
「あ、申し訳ありません」
うっかり本音を漏らしてしまったことに気づいたあかねが申し訳なさそうに身体を小さくする。
話しの流れからいけば、あかねの言葉は場違いでしかない。
「いや、構わないが・・・・・・どうしてだい?」
当然のことながら首を傾げる近藤。
土方に至っては、軽く睨んでいる。
というか、視線が痛い。
「大変個人的な想いなのですが・・・・・・公方様が江戸を離れられて随分経ちます故。和宮様がさぞお淋しい思いをされていると思いまして・・・・・・」
刺さる視線に居心地の悪さを感じながらも、あかねは正直に話した。
たとえ上手く誤魔化したとしても、あの刺さる視線からは逃げられない。それに嘘を吐く必要がないと感じたからだ。
「そういうことか」
納得顔でウンウン頷く近藤。
と同時に、痛いほど感じていた土方の視線が消える。
「前年ご上洛の際には、ご心痛の余り・・・・・お顔の色も日に日に悪くなられ心配したこともありましたので・・・・・・今回も、と」
そう言ったあかねの瞳は、遠い日を映し出し懐かしむように細められていた。
― 遡る事、一年前 ―
江戸城大奥にはいつもと同じ、朝の陽が降り注ぐ。
あかねは和宮の支度を手伝いながらも、沈んだ表情の主を黙って見つめていた。
表情が暗いのは、家茂公のご上洛を控えてのこと。
無理もない。
将軍自ら江戸を離れるなど・・・・・・3代将軍家光公以来のことなのだ。
それは幕府の権威が落ちていることを示し、ここに至っては朝廷の威光を傘に権力回復に努めなければならないことを現していた。
和宮降嫁はその幕府の思惑と朝廷の思惑が合致したことで推し進められた政略結婚であり、これが成ったことで幕府と朝廷は共に手を携え公武合体の名の下で攘夷を行なうこととなったのだ。
だが未だ何の動きも見せない幕府に、痺れを切らせた朝廷は「将軍に上洛させよ」という命を下した。
今までならば考えられないことだったが、折りしも異国の脅威に晒されているこの時勢。
無下に断ることも出来ない幕府が上洛を決めたのは、家茂公自ら「行く」と宣言されたからに他ならない。
「なにゆえ。なにゆえ・・・・上さんが上洛など・・・・・・」
ポツリ。と小さく呟く和宮の声。
その悲しげな声に、あかねは思わず唇を噛み俯く。
和宮が不安に思うのは当然のことだ。
京の町は日に日に治安が悪化していると聞く。
攘夷を唱え、刀を振りかざし、血の流れぬ日はないとも聞く。
「宮さま。本日はどうかお心をお沈めになってくださりませ」
「なれど・・・・・・」
「お慕いなされているお方との暫しの別れ・・・・・・それがお辛いことは充分存じております。なれど・・・・・・それは上様も同じこと。宮さまを残し、京に向かわれるのはとてもお辛いことと存じます。それでも上様は・・・・・・この国のために行かれるのです」
「・・・・・・でも」
あかねの言葉に抗議の視線を向ける和宮。それを感じながらもあかねは言葉を続ける。
「上様のために宮さまが出来る事は・・・・・・笑顔で送り出して差し上げることではありませんか?少しでも上様の不安を取り除いて差し上げる・・・・・・それが御台所である宮さまの務めかと、存じます」
「わたくしは・・・・・・天璋院さんのように笑って見送ることなど、出来ぬ。このように悲しい時に笑うなど・・・・・・出来ようはずもない」
瞳を伏せ、怒りに似た感情を抑えながらも必死に抵抗しようとする和宮に、あかねは悲しげな視線を返す。
「・・・・・・天璋院様が悲しんでおられない、とお思いなのですか?」
「そう。でなければ、上洛を聞いた後もあのように平然としておれるはずがない」
「宮さま・・・・・・」
和宮の言葉にあかねは視線を下に向けひとつ息を吐く。
「本当に悲しいとき、人は笑えぬ」
「それは・・・・・・そうかもしれません。然しながら・・・・・・」
もう一度顔を上げたあかねの瞳には、悲しさ辛さが入り混じったなんとも言えない表情が浮かんでいた。
あかねの脳裏に浮かぶ、多くの者との別れ。
共に育った者たちを見送るときの淋しさ。
京を発つ時初めて味わった、見送られる切なさ。
それを思い出すと胸が締め付けられて痛む。
だが、決して悲しい思い出ではない。
あかねが思い出すのは最後に見た皆の笑顔。
悲しくても淋しくても。
笑って送ってくれた皆の笑顔だ。
きっと最後に見たのが仲間たちの笑顔だったから、今の自分は頑張れるのだろう。
次に会ったときに、また笑顔で会うために。
「?」
「相手のことを想い・・・・・・笑う、ということも・・・・・・あります」
「どういう、意味です?それは・・・・・・?」
あかねの言葉が理解出来なかったのか、和宮は怪訝な表情を浮かべ目の前に座る侍女の顔を食入るようにジッと見ていた。
「覚えておいでですか?京をお発ちになられた前日のこと・・・・・・天子様とお過ごしにになられた最後の夜のことを」
「もちろん、覚えています」
なぜ今そんな話しを?とでも言いたげな表情で和宮は短く答える。
「では・・・・・・その時の天子様のご様子は?」
「・・・・・・いつも通りの優しいお顔で・・・・・・笑って・・・・おいででした」
懐かしんでいた和宮の顔だったが、想いだすと同時に。
あかねの言わんとすることがわかったのか、次第にその表情が曇る。
「江戸に来てから思い出される天子様のお顔は、その時のものではございませんか?」
「・・・・・・」
「もし・・・・・・お別れの時に天子様が涙されていたら・・・・・優しいお顔を思い出せたでしょうか?」
言葉に詰ったままの宮に、あかねは畳み掛けるように言葉を続ける。
「・・・・・・そのようなお顔をなされていたとしたら・・・・・・わたくしは江戸に来ることが出来なかったかもしれぬ」
「そうかもしれませんね。だからこそ・・・・・・天子様も悲しい気持ちを抑え、笑って送り出された・・・・・・旅立つ宮さまのため、笑顔をお見せになられた・・・・・のではないでしょうか?」
にっこりと笑うあかねの顔から視線が外せないのか、暫く無言で見つめていた和宮だったがフッと口元を緩めた。
「・・・・・・そなたにはいつも敵わぬ。そんなに歳も変わらぬというのに・・・・・・いつもいつも・・・・・・わたくしは、教えられてばかりで」
「いいえ、宮さま。私が教えるなど恐れ多いことにございます・・・・・・宮さまを導いて下さっているのは天子様と・・・・・・宮さま自身が抱いておられる、公方様へのお気持ちにございます」
和宮が理解してくれたことを悟ったのか、あかねの顔も緩む。
「あかね・・・・・そなたが居てくれて、ほんに良かった」
「宮さま」
「今日、だけは・・・・・・泣きませぬ。上さんの前では絶対に泣きませぬ・・・・・その代わり」
「えぇ。今宵は泣き止まれるまでお傍におります。宮さまが眠られるまで、ずっと」
その言葉通り。
和宮は笑って家茂公を送りだした。
そして言葉通り。
その日の夜以降、和宮が泣き疲れて眠るまであかねは傍を離れなかった。
「どうか、したかい?」
想い出に浸るあかねを呼び戻したのは、近藤だった。
その声にハッとしたように我に返ったあかねが、恥ずかしげに頬を染める。
「申し訳ありません・・・・・・少し昔のことを思い出してしまいました」
あかねの言葉に土方はニヤリと口の端を上げる。
「お前も普通の人なんだな」
「どういう意味ですか」
「・・・・・・いや、別に」
チラリとひと睨みされ、土方は目を逸らすとわざとらしく口笛を吹く。
それを横目にあかねは一転、表情を引き締める。
「大坂といえば・・・・・・ちょっと気になることがあるのですが」
そう言ったあかねが2人との距離を縮めると、ボソボソと耳打ちした。