第九十三話
島原 角屋
夜も更けた丑三つ時。
廊下に響くのは・・・・・・・ふたつの足音。
前を行くのは男のものと思われる力強い音。
そしてそれを追いかけるのは、小さな足音と衣擦れの音。
その音は、とある部屋の前で歩みを止める。
と同時に。
勢い良く目の前にある扉を開け放つ。
「君が何者かなど・・・・・・問いただすつもりはない。が、あまり無茶をするのは賛成出来ないよ?君の身になにかあっては総司が泣くだろうからね」
何の前触れもなく襖を開け放った山南。
その姿はまさに『仁王立ち』そのものだった。
「せ、せんせぇっ!!か、堪忍ぇ、あかねはん。うち、余計なことを・・・・・」
山南の後を慌てて追ってきた明里が息を切らせて部屋に飛び込む。
見れば相当慌てたのだろう。
肌襦袢の襟元も、その上に羽織っただけの着物も、結い上げられた髪も乱れていた。
・・・・・・遡る事、半刻ほど前。
三週間ぶりに明里の元へと訪れていた山南は、愛しい妓のいつもと違う表情に気づいていた。
いつもと違う、どこか憂いを秘めた顔。
それが一層、艶やかにも見える。
何度か問いかけてみたが、明里は重い口を開こうとはしない。
それでもこの夜の山南は諦めなかった。
やっとのことで口を開いた明里からは、山南にとって信じがたい話が聞かれた。
『ここのところ、夜更けにあかねが深雪太夫のところに通っている』
『詳しいことはわからないが・・・・・・時々あかねの着物に血がついていることがある』
そんな話しをしていた矢先。
廊下から深雪太夫の声が聞こえたのだ。
「あかねを部屋に通せ」
という声が・・・・・・。
今夜もあかねが来ていると知った山南は、反射的に部屋を飛び出した・・・・・・というわけである。
明里が乱れた息を整えながら部屋の中に目をやると、そこにはキチンと正座をするあかねの姿があった。
突然の訪問者に動じる事もなく。
ただ、静かに座っていた。
まるで、乗り込まれることを知っていたかのように。
「明里さん姐さん、謝らないで下さい。これは私が望んだ通りの結果なのですから」
淡々とした口調のあかねに明里だけでなく、山南も驚きの表情をみせる。
「あ、かね、はん?」
「・・・・・・まさか、わざと?」
「申し訳ありません。なにぶん屯所で話せることではなかったので・・・・・・このような回りくどい手を使わせて頂きました」
正座のまま深々と頭を下げるあかねの姿に、山南は苦笑を漏らす。
「ははは。参ったね、これは・・・・・・どうやら君は、なかなかの策士のようだ。土方くんが頼りにするはずだね」
「恐れ入ります」
「で?なんだい?わたしに話したいこととは・・・・・・・」
肩を竦めた山南が部屋の中へと足を進め、あかねの前に腰を下ろす。
それを見届けたあかねは少し後ろで控えている深雪太夫の方へと視線を流した。
「お雪ちゃん」
「へぇ・・・・・・ほな行きまひょか?明里はん」
名を呼ばれると同時にひとつ頷きをみせた深雪が静かに立ち上がると、山南の後ろで突っ立ったままの明里に笑みを向ける。
「・・・・・・」
そう促されれば断れない。
席を外して欲しい・・・・・・それがあかねの望みなのだろう。
明里は納得の出来ない表情を浮かべながらも、仕方なく深雪と共に部屋を後にする。
二人の足音が廊下の向こうへ消えていくのを聞き届けたあかねは、深呼吸をひとつした後にゆっくりと口を開く。
「ここのところ長州者が京へ入り込んでいるのはご存知だとおもいますが、その数が日に日に増え続けております。私の方でも探りを入れてはいるのですが・・・・・・尻尾を出すのは下っ端の雑兵ばかりで詳しいことは何も聞かされてはおらず、ただ京に入れば次の指示があるまで待てと言われている者ばかり・・・・・・・ところが一人だけとある店の名を出した者がいました」
その店の名は『桝屋』
木屋町にある商家である。
しかも偶然か必然か・・・・・・。
ここ最近、浪人に押し借りの被害を受けたと奉行所に届出があったばかりの店なのだ。
「ただし、確証がありません。そこに攘夷派の不逞浪士がいるかどうかも、本当に関わりがある者なのかも」
「なるほど・・・・・・それでわたしに隊の監察方を動かして欲しい・・・・・・というわけだね?」
「・・・・・・はい」
深く静かに。けれど力強く返答するあかねに、山南が少し首を傾げた。
「しかし・・・・・・桝屋といえば、つい最近長州者と思われる浪人に押し入られたと聞いたが?」
「それです。それを聞いてますます怪しいと」
「と、いうと?」
「今まで押し入られた店のものは浪人だったと証言していますが、長州者だったと証言したのは桝屋のみ。あえて長州の名を出したことが・・・・・・怪しまれてなりません。ですが、これこそ私の勘でしかありません」
あかねの言葉のひとつひとつを聞き漏らさないよう耳を傾けていた山南は顎に手をあて、もう一度首を捻る。
「なるほど・・・・・・言われてみれば確かに腑に落ちないね」
「このような不確定情報で大変申し訳ないのですが、私が頻繁に出入りするわけにもいかず・・・・・・総長のお知恵をお借り出来ないかと思いまして」
真っ直ぐな視線を向けるあかね。
その表情は・・・・・・当然ながら真剣そのものだ。
「・・・・・・あいわかった。わたしの方で山崎くんに話してみよう」
「はい!ありがとうございます」
そう言ったあかねは、心底ホッとした表情を浮かべている。
その表情を見つめながら山南は全てを悟っていた。
あかねの情報の正確さも。
あかねの勘の良さも。
そして・・・・・・。
あかねがわざわざ自分を頼ってきた理由も。
あかねとの密談を終えた山南は、何事もなかったかのように明里の部屋に戻っていた。
だが、その表情は心なしか嬉しそうに見える。
そんな山南を部屋で待っていた明里は内心ホッとしたのか、笑顔で迎え入れた。
「あかねはんとは、なんの相談されてたんどす?」
「ん?あぁ・・・・・・」
「うちには言えへんこと、どすか?」
「あぁ、すまない。だが・・・・・・」
そこで言葉を区切る山南の表情は柔らかい。
「なんどす?」
「本当にいい子だな、彼女は。土方くんに言えば動いてくれただろうに・・・・・・わたしの立場を重んじてくれたのだろうね。本当に、いい子だ・・・・・」
しみじみと呟く山南に、言葉の意味を読み解いた明里がとびっきりの笑顔で頷く。
「へぇ、うちも大好きどす」
「そういえば・・・・・・あかねくんとは古い知り合い、と言っていたね?」
「へぇ。けど・・・・・・馴れ初めは内緒どす」
そう言いながら自分の唇に人差し指をあてる明里に、山南は「参った」とでも言うかのように頭を掻く。
「これは一本取られたな」
「ふふっ、女子には女子の・・・秘密、いうのがあるんどすぇ?」
「ではわたしの知らない明里をあかねくんが知っている、ということかい?」
「さぁ、どうですやろ」
艶っぽい笑みを浮かべ意地悪そうに片目を閉じる明里に、山南は優しい眼差しを向けその身体を抱き寄せた。
「お前には本当に敵わないよ。どこまでわたしの心を虜にすれば気が済むんだい?」
「全部どす。せんせのぜ〜んぶ、うちでいっぱいにさせても足りまへんのぇ」
「それなら既にわたしの心は明里でいっぱいさ。これ以上もないぐらいにね」
抱き寄せた明里の髪を優しく撫でる山南。
その表情は優しく愛情に満ち、それを明里も全身で感じ取っていた。
優しく触れる指も。
重なる唇の温もりも。
身体に感じられる重みも。
全ては、今ここにいる証。
次にいつ逢えるか、そんな約束できる状況ではなくとも。
二人にとっては今が全て。
せめて。
夜が明けるまでは。
相手の温もりをずっと感じていられるように。
次に逢えるその時まで。
その温もりを身体に刻み込むかのように。
互いを求め、抱き合い・・・・・・存在を確認するかのように。
一瞬も離れることなく。
― せめて、夜が明けるまでは ―