第八十九話
元治元年 四月
つい、ふた月ほど前に大騒ぎした京都守護職の交代劇。
だが。
ここにきて再度、松平容保公が復職することとなった。
それも意外なほどに、あっさりと。
当然ながら、これには裏がある。
水面下で行なわれた会津藩老中たちの裏工作。
生来。身体が丈夫な方ではない主君に『陸軍総裁職』などという重荷を背負わせ、長州勢との戦の前線に立たせることを快くは思っていなかった側近たちの気持ちもわからなくもない。
それは主君たる容保公のことを想う『愛』ゆえの行動なのだ。
『尊王』という観点から見れば『同志』であるはずの長州。
だが幕府側の立場から見れば長州は簡単に『敵』になる。
そんな複雑な状況下で板ばさみになる容保公の心痛は測り知れない。
つい先日も風邪をこじらせ床に伏せっていたばかりなのだ。
そんな身体の弱い容保公に突きつけられた今回の辞令。
側近でなくとも『勘弁して貰いたい』と思うのが、人の情というものだろう。
だが、それによって。
当然ながら言われのない火の粉が降りかかるものもいる。
・・・・・・言わずもがな・・・・・・新撰組のことなのだが。
もちろん。
近藤たちが知るはずもなく・・・・・・。
話は至って簡潔、簡単。
『血の気の多い新撰組が新守護職に従う気はなく、容保公の復職を願っている』
そんな有りそうな噂をワザと流したのだ。
『容保公の復職を願っている』という話は、人から人へと伝わる間に、『慶永公を暗殺する計画が立てられている』という具合に尾ひれがついた。
それを聞いた松平慶永の側近たちは、あろうことかその嘘話を真に受けたのだ。
それは京の町での新撰組の評判が真実味を与えたのだが・・・・・・。
元々、農民あがりの俄か侍である新撰組。
ましてや京の治安維持という名目で町を闊歩している彼らは、泰平の世に慣れ親しんだ幕臣から見れば・・・・・・殺戮集団以外の何者でもない。
しかも、である。
会津藩に飼いならされた彼らが、慶永公を消せば全て元通りになる・・・・・・などと物騒なことを考えてもおかしくはない。というのが慶永公を取り巻く老中たちの見解だ。
いくら一橋慶喜公の命令であっても、我が主の命には変えられない。
ならば主君の身の安全の為にも、一刻も早く京都守護職を返上させるのが最善の道という答えを出したのだ。
これもまた、主君への『愛』・・・・・・以外の何ものでもない。
新撰組からすれば、とんだ誤解でしかないのだが・・・・・・。
本人たちの知らないところで進む話だ。
知らぬが仏。とはこういうことを言うのだろう。
兎にも角にも。
京都守護職の座は無事(!?)容保公のもとへ戻ってきたのだ。
その頃。
何も知らない新撰組はというと・・・・・・。
京の町の見廻りを強化していた。
このところ京の市中では不逞な輩たちによる強盗、強奪が繰り返され・・・・・・新撰組の面々は忙しく飛び回り続けている・・・・・・のだが。
当然ながら新撰組が現場に到着するのは事件が起こってから・・・・・・いつも後手にまわり土方の苛立ちは最高潮に達しようとしていた頃。
とある薪炭問屋から有力な情報が舞い込んだ。
『押し入った者たちの中に長州訛りのある者がいた』と。
「それが本当なら・・・・・・俺たちが思っている以上に長州者がこの京に潜伏している、ということになるな」
見るからに苛立ちを隠しきれない土方。
その手に持つ煙管からは絶えず煙が立ち昇っている。
「えぇ。ここのところ立て続けに起きている事件・・・・・・それが彼らの活動資金になっているかもしれません」
そんな煙の立ち込める部屋の中にありながらも、山南の表情はいつもと変わらない。
だからこそ、土方も冷静さを取り戻すことが出来るのだが。
「金・・・・・・か。何をするにも先立つものが必要・・・・・・ってことだな。一刻も早く奴らを仕留めねぇと、厄介なことになりそうだな」
「ですが・・・・・・潜伏先を突き止めるのは、なかなか厄介・・・・・・でしょうね」
深い溜め息と共に腕を組み直す山南の言葉が、重く響く。
「山崎たち監察方も随分手を焼いているようだからな・・・・・・そう簡単には尻尾を掴ませては貰えなさそうか」
「といって、手をこまねいている訳にもいきません。何か手を打たないと・・・・・・」
とはいえ。
出来ることといえば、巡察隊の人数を増やし目を光らせることぐらいだ。
そんな苛立ちを抱えた日々を送っていた土方が、張り詰めていた緊張の糸を緩めたのは江戸に戻ることになった富沢を伏見まで見送りに行ったときだった。
「いやぁ、わざわざすまないねぇ。こんなところまで見送って貰って」
人の良さそうな笑みを絶やすことなく、終始御機嫌な様子の富沢は見送りに来た土方と井上を交互に見ていた。
「いえ、こんなことぐらいしか出来ないので」
鬼の副長、土方歳三にしては珍しく謙虚な物言い。
それだけで充分、富沢を敬っていることが伝わってくる。
「ははは。そんなことはないぞ?皆の元気な姿も見れて、いい土産話になりそうさ。ただ・・・・・・山南くんに会えなかったのは心残りだがね」
何度となく開かれた宴の席。
その宴席に最後の最後まで顔を見せなかったのは、山南ただひとりだった。
山南にしてみれば懐かしい顔に会いたい、と思わなくもなかったのだが。
人前で飲み食いをするような場で、万が一にも怪我のことを勘付かれでもしたら困ると思ったのだろう。
結局、最後まで顔を見せることはなかった。
ここ最近では、屯所内においても食事は部屋で取る事がほとんどになっている程の念の入れ様だ。
そこまでしても、あかねには見破られてしまったのだから余計慎重に成らざるを得ない。
「申し訳ない・・・・・・なにしろ昔と寸分違わぬ真面目さ故、総長としての職務を疎かにするわけにいかない、と・・・・・・」
山南の心情を読み取っていた土方にすれば、不信感を抱かせないための方便。
心が痛まないわけではないが・・・・・・嘘も吐き続ければ真実になる。
「そういうところもちっとも変わらないようだね。彼は昔から随分頑固なところがあるから・・・・・・いや、何。元気なら構わないさ」
「はい。それは、もう」
「君たちもいろいろと大変だろうが・・・・・・今が正念場だと思って誠心誠意、幕府のため心骨砕いて頑張ってくれよ?皆、期待しているのだから」
「はい!ありがとうございます」
「江戸に戻ることがあれば、きっと顔を見せてくれよ?」
「はい!」
「そうそう・・・・・・預かったものは必ず、日野の姉上に届けるから」
そう言ってニマっと笑った富沢は軽く手を振ると、軽やかな足取りで立ち去る。
その背中を見送りながら井上がそっと土方の横顔を盗み見ると、そこには満足そうに笑いながらも少々顔を赤らめる土方の表情があった。
この時。
土方が託したのは愛用していた鉢金と日記、そして花街の妓から貰った恋文が多数・・・・・・なんとも土方らしい話である。
富沢が京を発って十日あまり・・・・・・。
土方や山南が危惧していた通り・・・・・・・事件は起こる。
望もうと望むまいと。
それぞれの思惑を巻き込みながら。
歴史という名の大きな波が、侍を夢見て必死に生きる男たちを飲み込もうと。
静かにその時が来るのを待ち構えていた。
そして、これこそが。
新撰組が歴史の表舞台へと躍り出る前哨戦になっていく・・・・・・ことは、まだ誰も知らない。