第八十八話
元治元年
春、真っ只中。
そろそろ初夏の訪れさえも感じ始めるこの頃。
暖かな陽射しに包まれ、人々が心躍らせる過ごしやすい季節。
一年のうちでもっとも穏やかな風が吹く季節。
穏やかな陽気に誘われ、人の心も穏やかに・・・・・・とは、いかないのが。
ここ新撰組屯所である。
と言っても。
不逞浪士の探索に殺気立っている訳でも、国難を危惧して論戦を繰り広げている・・・・・・わけでもない。
この場で繰り広げられているのは・・・・・・。
他愛もない部屋の取り合い、である。
事の発端は、永倉の何気ない一言だった。
『八木邸には空いている部屋がある。こちらの屯所は人数も増えて手狭になったので向こうに移りたい』
と、言い出したことに始まったのだが・・・・・・。
それを聞いた原田も当然のことながら自分も移ると言い出し、それなら俺も俺も・・・・・・などと他にも手を挙げるので収拾がつかなくなったのだ。
なぜ部屋ごときでこれほど熱くなれるのか?
その理由は・・・・・・至極簡単。
男所帯のむさ苦しいこちらよりも、向こうには唯一の紅一点『あかね』がいるからだ。
同じ屋根の下で寝起きすれば、今よりも接する機会も増えるだろう。
何かを期待するわけではないが、少しでも関わりたい・・・・・・などと考えるのが、悲しいかな男の性。
うまくいけばそれ以上・・・・・・などと、邪まな期待を抱いてしまうのが男というもの・・・・・・なのだろう。
「んな、全員が入れるほど部屋が空いてるわけねぇだろ!?ここはまず、言いだしっぺの俺は決定として・・・・・・」
「そんなの関係ないと思いま〜す!」
「そうだ!そうだ!」
自分だけはこの無用な争いから抜けようとした永倉だったが、当然のことながら非難の声が飛び交う。
「こっちと同じ2人1部屋だったら、俺は八っぁんと一緒に引越し決定だな」
「そんなの横暴だと思いま〜す!!」
「「そうだ!そうだ!」」
「うっせぇ、こういうのは早いモン勝ちだろうがっっ」
永倉に便乗しようとした原田だったが、やはり否定の野次が飛び・・・・・・挙句キレる。
「こういうときは平等に決めるべきだと思いま〜す!」
「「「そうだ、そうだ」」」
誰かの発したもっともな言葉。
それに同意の声が上がるが、そんなことで引っ込むような永倉ではない。
「とりあえず俺は決定だから、他の部屋をお前らで平等に決めりゃいいじゃねぇか」
「駄目ですよ、八さんの場合は下心が顔に出すぎてるので認められません」
あっさりと言い放ったのは、藤堂だった。
「ヤベッ」
そう言って口元を押さえた永倉の顔は・・・・・・
誰の目のもニヤけているように見え、今さら隠しようもない。
ぎゃあぎゃあと言い合いをする男たち。
それは『泣く子も黙る』などと皆に恐れられている・・・・・・ようには到底見えない。
その後もこの言い争いは続くのだが・・・・・・当然のことながら皆、自分を推すので決着がつくはずもなく。
騒ぎを聞きつけた土方の拳が容赦なく降り注ぐのだった。
怒鳴り込んできた土方の迫力に、永倉や原田をはじめとする面々はすっかり借りてきた猫状態・・・・・・その場に正座をして土方の顔色を窺っていた。
「まぁ、確かに永倉の言うことにも一理ある、な。こっちは人が増えて少々手狭ではあるし・・・・・・今後も隊士の数は増える」
「だろ?だから」
「だからと言ってお前が向こう移る必要はない」
ピシャリと言い切り、永倉を黙らせるあたりは・・・・・・さすが鬼の副長である。
「そうだな・・・・・・芹沢さんの部屋には近藤さんに移って貰うか」
「えっ!?」
目を剥いて驚きの声を上げる永倉。
「け、けどよぉ。あそこは芹沢さんが賊に襲われて命を落とした場所だぜ!?そんな縁起の悪りぃ部屋に・・・・・・」
「だが、芹沢局長の部屋を使えるのは・・・・・・局長である近藤さんだけだろ?それにあの人は喜んで承諾すると思うぜ?芹沢さんの部屋なら、尚更な」
あえて局長のところを強調する土方。
それでも永倉は食い下がろうと無駄な抵抗を試みる。
「いや、でも・・・・・・」
納得のいかない表情をする永倉たちをアッサリ無視した土方は、そのまま淡々と言葉を続ける。
「新見さんがいた部屋は・・・・・・総長である山南さんに入って貰うのが妥当だな」
「・・・・・・」
「あとは・・・・・・平間さんたちが使ってた部屋だが・・・・・・」
言葉を失う永倉。
それを横目にしながら、土方の言葉は更に追い討ちをかけるかのように続く。
「やはりここは・・・・・・総司がいいか。近藤さんの護衛という意味も込めて・・・・・・もちろん同室の斉藤も一緒に、だな」
うんうん。とひとり納得顔の土方。
それにしても。
この場にいない者の名ばかりが並べられ、さっきまでの言い争いが不毛でしかないことを思い知らされた永倉たちは・・・・・・ピクピクと顔を引き攣らせていた。
「た、確か、部屋の空きは・・・・・・もうひとつ、あったよな!?」
「あぁ・・・・・・野口さんたちの部屋か?あそこは駄目だ」
最期の頼みと言わんばかりに口を開いた永倉だったが・・・・・・これまたアッサリ否定される。
フフン。と鼻を鳴らす土方に戦意喪失気味の永倉に代わって、原田が立ち上がる。
「な、なんで!?まさかあんたが使うのか!?」
「馬鹿言え。俺はここから移るつもりはねぇよ。俺まで向こうに移ったらおメェらが羽目外すばかりになるだろう?」
ニヤリ。と笑みを浮かべる土方に、原田は目をカッと見開く。
「じゃ、なんで!?」
「あそこは・・・・・・もう既にあかねが使ってるからな。元々、八木さんには無理言って部屋を空けて貰ってたんだ。離れに空きが出りゃぁ、そっちに移るのが当然だろ?」
「・・・・・・・え?い、いつから?」
予想外だった土方の言葉にその場がザワつき、永倉が代表するかのように問いかける。
「確か・・・・・・年明けには移っていたと思うが?」
「で、でも、あそこは野口さんがっ」
切腹した場所だ。という言葉は敢えて口にはしないが、藤堂の声には驚きが込められていた。
それを読み取った土方が深い頷きをみせる。
「あぁ。俺もそう言ったぜ?だが、あかねは『だからこそ移るんだ』って言いやがった。全く肝の据わった女だぜ」
その時のことでも思い出したのか、土方の眼差しが一瞬緩む。
「だから、こそ?」
「野口さんのことを忘れないため、だそうだ。もっとも血に染まった畳だけは八木さんの好意で取り替えられたそうだが・・・・・・・あかねはそのままで構わないと言ったらしいぜ?」
「・・・・・・すげぇ女、だな。ヘタすりゃ俺ら以上に肝が据わってるのかもしれねぇ」
しみじみと呟いてみせる原田に、部屋にいた全員が深く頷いた。
「・・・・・・えーっと。じゃ、俺は?」
無駄な抵抗と知りつつも、永倉が口を開く。
「何言ってやがる?お前にはちゃんと部屋があるだろうが?そんなに部屋を移りてぇなら・・・・・・俺の隣にでも移ってくるか?ちょうど空くことだしな」
ニヤニヤと笑みを浮かべる土方に、永倉は冷や汗を浮かべ慌てて首を横に振る。
「いや、それは真っ平御免こうむる」
「なんだ。遠慮するな。今の部屋より少し広くなるぞ?」
「いやいや、今の少し手狭な感じが俺は落ち着くんだ」
「そうか。なら、文句はねぇよな?」
「・・・・・・はい」
「よし、決まりだ。文句のある奴はいねぇな?」
ギロリ。と一同をひと睨みする土方。
それに反論出来る者など・・・・・・ここにはいない。
「「「・・・・・・はい・・・・・・」」」
全員が怯えた表情で目を合わせないまま、小さく返事をする。
偶然にもその場に居合わさなかったことで結果的に得(?)をした近藤、総司、銀三の三人。
それが思わぬ結果を生むのは・・・・・・まだ先の話、である。