第七十二話
服部半蔵と会ったその夜―。
夜も更け、静まり返った屯所をそっと抜け出す銀三。
その足は迷うことなくあかねの部屋がある八木邸へと向けられる。
今夜こそは・・・・・・という決意を込めてあかねの部屋の前に立つと、今までにないぐらい心臓が高鳴る。
少し自分を落ち着かせようと大きく深呼吸をひとつ。
・・・・・・またひとつ。
そうこうしていると、部屋の襖が音もなくスーッと開けられ中からあかねが顔を出した。
「何してるの?」
不思議そうな顔で小首を傾げながら見上げるあかねに、ドキンッとする銀三。
「あ、いや・・・・・・」
動揺してうまく言葉が見つからない銀三の様子に、あかねは疑いの眼差しを向ける。
「まさか、夜這い?」
「バ、バカ、そ、そんなんじゃねぇっ」
「良かった、血迷ったのかと思っちゃった」
あはは、と可笑しそうに笑いながら部屋の中に招き入れるあかね。
その後ろを平静を装いながら続く銀三の額には、冬だというのに汗が浮かんでいた。
「で?どうしたの?」
「ん、あぁ・・・・・・」
言い辛そう下を向く銀三に、あかねは首を傾げていた。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・」
長い沈黙の後。
いい加減痺れを切らせたあかねが口を開こうとした時。
銀三が顔を上げ、真っ直ぐにあかねの方を見つめた。
「やめろ」
「?・・・・・何を?」
「断れ」
「だから、何を?」
「しゅ、しゅ、しゅ」
「しゅ?・・・・・・酒宴に誘われてはないけど?」
「いや・・・・・・そ、そうじゃなくて」
あかねの的外れな言葉に思わず脱力する銀三。
「じゃあ、何?」
「しゅ、しゅ、しゅう・・・・・・」
「しゅう?」
言おうと心に決めて来たというのに、いざとなると思うように舌がまわらない。
既に喉はカラカラに渇いている。
「しゅう、げん」
「しゅうげん?」
「そ、そう。祝言だ」
やっとの思いで言葉にしたというのに、あかねは首を傾げる。
「誰の?」
「・・・・・・」
思わずコケそうになった銀三。
(この鈍感天然娘めっ!)
と、心で悪態を吐いてはみるが、あかねの表情は変わらない。
「お前の、に決まってるだろっ!?ほ、他に誰がいるっていうんだっ」
「?やめたよ?」
「あっ、そう。やめたのか・・・・・・・えぇっ!?」
あっさりと言い放つあかねに銀三は、全身の力が抜けるような気がしていた。
・・・・・・今、なんと?
「あれ!?言わなかったっけ?」
「き、聞いてないぞ!?」
「断ったの。昨日、頭領に会って」
「き、のう?」
・・・・・・頭領に会ったのは今日だぞ?
なのに昨日、断った、だと?
「うん。皆が戻る前に頭領が訪ねて来られて・・・・・・その時に」
「えっ!?」
「申し訳ないとは思ったんだけど・・・・・・今のわたしには受けることは出来ないし」
「・・・・・・」
淡々と答えるあかねの言葉を聞きながら、銀三の頭は真っ白になっていた。
翌朝。
昨日と同じように壬生寺の境内には服部半蔵の姿があった。
口元には笑みを浮かべて。
その半蔵の傍には青筋を浮かべた銀三の姿があり、抗議の視線を送っている。
「どういうつもりですかっ!?初めっから謀るつもりだったんですねっ!?」
「まぁ、落ち着けって」
「これが落ち着いていられますかっ!」
今にも掴みかからんばかりの勢いで銀三は詰め寄るが、半蔵の方は相変わらずニヤニヤと笑みを浮かべていた。
「まぁまぁ・・・・・・おかげで踏み出すことが出来たんだろ?」
「それとこれとはっ・・・・・・まさかっ、そのために?」
「かわいい弟分に後悔などさせたくはないからな・・・・・・それに」
言いかけて言葉を止めた半蔵がおもむろに煙管を取り出すと火を点ける。
「それに?」
「・・・・・・今回の話はおババ様が言い出したことなんだ」
「えっ!?頭領が師匠に願い出た、と聞きましたが?」
いぶかしむ様な表情を浮かべる銀三。
「まぁ、俺にとっても願ってもない話だったから・・・・・・それでも構わないんだがな」
「どういう意味、ですか?」
「翁が隠居したことで、おババ様も跡目のことをお考えになったんだろうな。歳も歳だから当然だろうが・・・・・・だから俺とあかねを夫婦にさせようとした・・・・・・お前なら、もうわかるな?」
そう言って半蔵は吸い込んだ煙を一気に吐き出すと、銀三に視線を投げかける。
「まさか、あかねに跡を継がせるつもりで!?」
「・・・・・・そういうことだ」
「で、でも、あかねは了承しないでしょう!?」
「だから、だ。俺と一緒にさせて外堀から埋めるつもりだったんだろうよ。服部半蔵の妻には京都を守る義務がある、とかなんとか言いくるめて」
「そ、それじゃあまるで騙し討ちじゃないですか!?」
思わず声を荒げる銀三の頭を半蔵はコツンと小突く。
「ばーか。あの狸ババァがなんの考えもなしに動くと思ったのか?・・・・・・お前もまだまだ甘いな」
「・・・・・・それを承知の上で頭領は?」
「当然だ。だからあかねに断られたとき・・・・・・少しホッとした。騙している気がして後ろめたかったからな・・・・・・」
「・・・・・・」
「おババ様は昔からあかねに跡を継がせる気だった。だから和宮様からあかねを所望されたときに喜んで送り込んだんだ。何故かわかるか?銀」
「・・・・・・天子様の妹宮様だから・・・・・・ではないのですか?」
「ま、半分正解と言ったところか」
「半分?」
「和宮様に許婚がおられたのは知っているな?有栖川宮親王・・・・・・もしあのままご成婚なされていたら京をお出になることはなかっただろう。だが時勢が変わり江戸へ降嫁された。おババ様のとっては計算外のことだったろうな。そこで次の手を思いつかれた。つまりは江戸にいる俺との婚姻だ・・・・・・だが、これもまた予想外のことが起こる・・・・・・あかねが京へ戻ることになった・・・・・・しかも今度は厄介なことにお前の側だ。あかねを密かに想うお前の、な。もしこのまま放っておけばお前と・・・・・・という危険性があると焦ったんだろう。だから事を急いだ、というわけだ」
「それじゃ、俺のせいで?」
「勘違いするなよ?確かにそれも理由のひとつではあったが、玄二のことがあったから時期を早められたんだ。まさか玄二が裏切るなど・・・・・・さすがに想定外のことだったからな。おババ様にとっても、俺にとっても・・・・・・」
「・・・・・・」
玄二の名に銀三の表情が曇る。
「だが、断られたとはいえ・・・・・・まだ俺の方が一歩先を歩いてるぞ?やっと土俵にあがったお前に負けるわけにはいかないからな」
「お、俺の方があかねと一緒にいるんですからすぐに追い越します」
「・・・・・・言うじゃねぇか、銀。ま、これで正々堂々勝負が出来るってわけだな」
「はい!」
二人はどちらからともなく手を差し出すと固い握手を交わす。
それは。
互いを恋敵として受け入れ、悔いのない戦いをする決意を込めて・・・・・・。
「・・・・・・あっ、でも本当に厄介な相手は沖田さんですよ?」
「沖田?・・・・・・ってあかねの実の兄か?」
「はい」
「けど、所詮は兄貴だろ?恋敵とは言わないだろ??」
「そうでもないですよ?・・・・・・なにしろあかねが今、命を懸ける唯一の相手ですし。二人を見てればわかると思いますが・・・・・・俺なんか入り込む隙、ありませんから」
「いや、それ・・・・・・冗談キツイぞ」
半蔵は苦笑いを浮かべるが、銀三の方は大袈裟に溜息を吐く。
「ほんと、勝てる気しませんよ・・・・・・しかも島原の太夫にまで言い寄られてるらしいですし・・・・・・前途多難ってこういうことを指すんでしょうねぇ」
「太夫!?・・・・・・ってアイツこの京で一体どんな生活してやがるんだ!?」
「まぁ、太夫と言ってもお雪ちゃんのことなんですけどね」
「お雪?・・・・・・お雪ってあのお雪か?」
「そうです、そのお雪ですよ」
「あ〜、なんか頭痛がしてきた・・・・・・ホント笑えねぇ・・・・・・」
お雪の名前を聞いてウンザリした表情を浮かべる半蔵に、今度は銀三が苦笑いを浮かべていた。