第六十七話
文久3年 12月27日
早朝。
朝食の時間になっても姿を見せない副長助勤である野口健司を呼びに行った隊士が、血相を変えて副長室の扉を叩いた。
「なんだ?朝っぱらから騒々しい・・・・・・こっちは・・・・・」
不機嫌そうに言葉を続けようとした土方の言葉を遮って、隊士が叫んだ。
「の、野口先生がっ!!」
「野口さんが?」
「どうしたと言うのです?」
土方の部屋で朝食と取っていた近藤と山南が同時に顔を見合わせる。
「せ、せ、切腹をっっっっ!!」
「な、なにっ!?」
「なっ!?」
「なんだとっ!?」
三人はそれぞれに驚きの声を上げ、すぐさま部屋を飛び出す。
途中。
お茶を運びに来たあかねと、偶然居合わせた総司を引きずりながら・・・・・・。
「なん・・・・・という・・・・・」
「なぜっ!?こんなことにっ!?」
野口の部屋に辿り着いた5人は、開け放たれた扉の前で茫然と立ちすくんでいた。
いつもと変わらず。
キチンと整理された部屋。
だが。
そこにはいつもと違う光景が広がっていた。
鼻に届くのは部屋に充満する血の匂い。
視界に飛び込んできたのは・・・・・・。
真っ白な死装束に身を包んだ野口の身体。
辺りを真っ赤に染めながら。
ゆっくりと部屋に足を踏み入れた土方は、野口の身体の側に置かれた2つの文を拾い上げた。
ひとつは、局長に宛てられたもの。
そして、もうひとつは。
あかねに宛てられていた。
土方は無言のままその文を近藤とあかねに手渡す。
目の前に差し出された文を受け取ろうとしたあかねの指は小刻みに震えていた。
あかね殿―
君には何度も心を救われた
何度「ありがとう」と伝えても足りないぐらい感謝している
このような道を選んだわたしを
許して欲しい
そして
悲しまないでくれないか?
わたしはやっと解放され自由になれたのだから
誰のせいでもなく
長い間考え続けて出した答えなのだから
もし最期に願うとすれば
笑って送ってくれないか?
君の笑顔には人を救う力があるのだから
わたしが何度も救われたように
ありがとう、あかねくん
そして
さようなら
手紙を読み終えたあかねは、その場に泣き崩れる。
人目を気にすることなく。
静まり返った部屋の中に、あかねの嗚咽とも呼ぶべき泣き声だけが響いていた。
溢れ出る涙は止まることなく。
その胸には野口の文がしっかりと抱き締められていた。
そして。
その震える肩を支えるように総司が腕をまわす。
優しく。
落ち着かせるかのように背中を擦りながら。
近藤に宛てられた文には、謝罪と感謝が綴られているだけで切腹の理由と思われる言葉はなかった。
ただ、これ以上の生き恥は晒せない。
芹沢たちが待っているから、と記されているだけだった。
翌28日
野口の遺体は屯所の近くにある光縁寺に埋葬され、近藤をはじめとする新撰組隊士たちは突然の野口との別れを悼んでいた。
隊務の合間を縫って訪れるものも多く、中には目を赤く腫らすものもいた。
影が薄くなっていたとはいえ、野口の人柄に惹かれていたものも多い。
それは。
その死に衝撃を受けたものは少なくはなかった、ということを示していた。
隊士たちの姿が見えなくなった夕刻。
野口の墓の前には茫然とした様子で座り込むあかねの姿があった。
胸にはしっかりと文を抱き。
泣きはらした顔は、ただジッと墓を見つめている。
「さんざん泣いて・・・・・・もう涙は枯れたと思っていたのに・・・・・・」
ひとり墓に話しかけるあかねの頬を涙が伝う。
「何があったのですか?・・・・・・どうして・・・・・・」
確かに。
芹沢亡き後、野口は目に見えて沈んでいたこともあった。
だが。
ここ最近は以前のような明るさを取り戻していると感じていた。
なのに・・・・・・。
何故?
野口からの文には明確な理由は書かれていなかった。
あかねにはそれが理解出来なかったのだ。
突然の死。
武士が理由もなく切腹するなど考えられない。
武士に限らず。
人が自ら死を選ぶのには、それ相応の理由があるはずだ。
そこにはどんな理由があるというのか。
野口は切腹して何を守ろうとしたのか。
死をもって何を得られたというのか。
あかねはもう何も答えてはくれない野口に向かって語りかけていた。
「あなたは、何のために・・・・・・命を懸けたのですか?」
「野口さんが守りたかったのは・・・・・・名誉かもしれない・・・・・・」
突然後ろからした声に、あかねは驚いたように振りかえる。
そこには花を手にした銀三が立っていた。
「ぎ、ん・・・・・・」
「姿が見えないと思って・・・・・・様子を見に来た・・・・・・やはりここに居たのか」
「・・・・・・」
ゆっくりとあかねの隣に並ぶと、手にした花を墓に捧げ手を合わせる。
「隊士たちの間で芹沢さんが心中したのではないか・・・・・・という噂があったのを知っているか?」
「えっ!?」
「・・・・・・野口さんの死はそれに関係しているかもしれない・・・・・・」
「どういう、こと?」
「芹沢派の最期のひとりである彼が切腹したことで・・・・・・芹沢さんたちは近藤局長たちに暗殺されたのだと・・・・・だから今回も野口さんは切腹させられたのだと・・・・・隊士たちの間ではそんな話になっている」
「まさかっ!?」
「そして・・・・・・そう仕向けたのは土方副長だと・・・・・・偶然にも副長が戻られてまだ日も浅い。そんな憶測が飛び交ったとしても・・・・・不思議はないだろう?」
銀三の言葉にあかねの表情はみるみるうちに驚きへと変わる。
「そん、なっ・・・・・・」
「・・・・・・だが、気になることもある・・・・・・三ヶ月も前のことだというのに、何故今頃になって話が蒸し返されたのか・・・・・・」
あえて言葉を濁す銀三の顔には険しさが宿っていた。
「まさか・・・・・・銀・・・・・・?」
「どうだ?悲しんでばかりもいられないとは思わないか?」
「・・・・・・誰かの思惑がそこにある・・・・・・と?」
「ま、これは勝手な俺の憶測に過ぎないが・・・・・・野口さんが守ろうとしたのは芹沢さんの名誉・・・・・・そして新撰組そのもの・・・・・・だとすれば、俺たちに出来ることは野口さんの遺志を継ぐこと・・・・・・それが彼の冥福に繋がると・・・・・・そうは思わないか?」
もしも誰かの思惑がそこにあったのだとすれば。
野口はその者に殺されたも同然、ということになる。
直接手を下さなくても。
死へ追いやった者がいるのなら・・・・・・。
涙の乾ききらぬあかねの瞳に、新たな決意が宿る。
泣いてばかりじゃいられない。
涙は何も解決してくれない。
自らの手を汚す事なく。
人を死に追いやった卑怯者。
野口に死によって得した者は誰だ?
そそのかしたのは誰だ?
「野口さん・・・・・・涙は今日限りにします。あなたにとり憑いた死神・・・・・・私が必ず暴きますから・・・・・・貴方が安らかに眠れるように・・・・・・」
野口の墓に向かって誓いを述べたあかねの表情には二日ぶりに覇気が戻っていた。