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第三十四話

 文久3年 8月2日 早朝


 まだ寝静まっている屯所を抜け出した佐々木愛次郎は、その足であぐりの元へと足早に向かっていた。

 数日前の、副長助勤のひとりである佐伯又三郎の言葉を思い返しながら。



 「芹沢局長がそんなことを?」

 思いがけない言葉に佐々木は目を見開いた。

 「あぁ・・・・・・どうやら妾にするつもりらしい・・・・・・そうなる前に2人で逃げた方がいいと思って知らせに来たんだ」

 心配そうな表情を浮かべる佐伯の手を、佐々木は握り締めていた。


 「ありがとうございます、お知らせ頂いて!」

 慌てた様子で走り去る佐々木の背中を、佐伯は冷酷な眼差しで見送る。

 口元には不敵な笑みを浮かべて・・・・・・。



 佐々木が佐伯の言葉を簡単に受け入れたのには訳がある。

 芹沢があぐりを気にいったのではないか?と悩んでいた佐々木のよき相談相手になったのが佐伯だったからだ。


 副長助勤として、芹沢の傍にいることも多い佐伯が言うのなら間違いないと。

 しかも自分の悩みをいつも親身になって聞いてくれ、時には的確な助言までしてくれている。

 そんな佐伯の言葉を信じないはずがない。



 佐伯の話をあぐりに伝えると、ふたつ返事で承知してくれた。

 すぐにでも京都を離れなければ、あぐりは芹沢の(おんな)にされてしまう。

 恐れていたことが現実になった、と佐々木は唇を噛み拳を震わせていた。


 脱走は恥ずべき行為だ。

 だが、このまま京都に(とど)まればあぐりは芹沢に取られてしまう。

 それを黙って見過ごすなど、出来る筈はない。


 2人でここを出て、遠いところに行こう。

 誰も知らない場所でひっそり暮らそう。

 2人が一緒にいられるのなら、どんな貧しい暮らしでも耐えられる。

 逆に一緒にいられないのなら、死んだ方がマシだ。

 そんな風にさえ思えるほど、佐々木は芹沢の存在に追い詰められていた。


 もし誰かに見つかれば、間違いなく殺される。

 2人は互いの手を強く握り締めながら道なき道を進み続けていた。


 ちょうど朱雀の藪の中を進んでいた時。

 人気(ひとけ)のない筈のその場所に、人の気配を感じた佐々木はあぐりを(かば)うように身を隠す。


 息を噛み締め、気配を消しその人影を確認しようとする佐々木。

 そんな佐々木の目に飛び込んできたのは、芹沢と野口の姿だった。


 「芹沢・・・・・・局長・・・・・・・」

 こんなにすぐに追っ手がくるとは・・・・・・。

 それに相手が芹沢では、逃げ切ることは無理だろう。


 佐々木の身体は恐怖からか震えていた。

 せめて、あぐりだけでも助けたい。

 あぐりだけには幸せになって欲しい。


 そんな佐々木にあぐりは不安そうな瞳を向ける。

 「・・・・・・あぐり・・・・・・すまない。この場を離れ、逃げてくれ」

 搾り出すような低い声に、あぐりも全てを悟っていた。

 「!!」


 あぐりは声を出すこともなく、ただ首を左右に振り愛しい者の背中にしがみつく。

 「頼む・・・・・・あぐり。このままでは、芹沢局長の思うままになってしまう・・・・・あの人の(おんな)にだけはなってほしくない・・・・・・だから・・・・・・お前だけでも逃げてくれ。そして生きて・・・・・・幸せになってくれ。俺の最期の頼み・・・・・・聞き届けてくれ・・・・・・・」

 佐々木の言葉にあぐりはポロポロと大粒の涙を流し、佐々木の身体を背中から抱きしめる。


 「愛次郎はんっ、あぐりは・・・・・・あぐりは貴方様をお待ちしております・・・・・・きっとすぐにお会い出来ると信じておりますっ」

 「・・・・・・あぁ・・・・・・きっと、また会おう。そして・・・・・次に会うときは必ず一緒に生きていこう・・・・・・さぁ、あぐり。行ってくれっっ」


 ゆっくりとあぐりの体温が離れていくのを身体で感じ、佐々木はもう一度あぐりを引き寄せると強く抱きしめる。

 愛しいあぐりの髪には、自分が渡した(かんざし)が揺れていた。


 「愛している・・・・・・あぐり・・・・・・」

 愛しい想いが滲み出た声で耳元に囁くと、名残惜しい気持ちを断ち切るようにグイっと身体を離した。


 そのまま芹沢たちとは反対の方へと向かせ、その背中を押す。

 押された反動であぐりは2、3歩進んだところで足を止めてしまう。

 「そのまま・・・・・・行ってくれ・・・・・」


 悲しみを押し殺したようなその声に、あぐりは振り返ることが出来なかった。

 (愛次郎はん・・・・・・うちは・・・・・ずっと・・・・・)

 流れ出る涙をグイっと拭うと、あぐりは前を見て走り出す。

 「きっと、また会おう」と言った愛する人の言葉だけを信じ、恐怖で動かなくなった足を必死に前へ前へと踏み出す。



 あぐりの走り去る背中を見送った佐々木の心は、不思議と落ち着いていた。

 まるで頭上に広がる澄み切った青い空のように・・・・・・。


 死を目前にしているというのに、こんなにも冷静でいられる自分が不思議な位だ。

 人は覚悟を決めると、こんなにも平常心を保てるものなのかと。

 それとも、愛することを知った喜びのせいか・・・・・・。



 「芹沢局長・・・・・・」

 「お前も馬鹿な男じゃな・・・・・・女と生きるために脱走するなど・・・・・」

 「局長にあぐりを渡すつもりはありません。わたしの命と引き換えにしてでも、あぐりからは手を引いて頂きますっ!」


 強い口調。

 決意の眼差し。


 佐々木の言葉に芹沢と野口は少し驚いていた。

 「何を言っておる?」

 「約束してくださいっ!あぐりには決して手を出さぬとっ!!」

 言葉と同時に剣を抜き、勢い良く走り出す佐々木に芹沢も剣で応える。


 「何を言っているのかはわからぬが・・・・・・佐々木愛次郎。脱走の罪により、処断いたす。覚悟いたせっ!!」

 芹沢の声が辺りに響き渡る。



   あぐり・・・・・・わたしは・・・・・・。



 「うおぁぁぁぁぁっっっ!!」



   お前と出逢えて・・・・・・。



 「やあぁぁぁぁぁっっっ!!」



   本当に幸せだった。



 佐々木は自分の刀を振り上げると、迷うことなく立ち向かっていった。



   ありがとう・・・・・・あぐり。


   愛している。




 あぐりは背中越しに聞こえた佐々木の叫び声に、振り返ることも出来ず呆然と立ち止まっていた。

 愛する男の元へと戻りたい。

 その衝動を抑えきれず、戻ろうとしたところを誰かに引っ張られる。


 「きゃぁっっ」

 背中に走る痛み。

 誰かに押さえつけられている腕。

 あぐりは閉じていた目を恐る恐る開く。


 「すまない、あぐり殿・・・・・・」

 申し訳なさそうな瞳で、自分を抑えつけている佐伯の顔を見てあぐりはまた涙が溢れ出していた。

 助かった・・・・・・そう思った矢先、佐伯が思わぬ行動に出る。


 「これからは佐々木の代わりに・・・・・・俺が君を護るから・・・・・・」

 そう言って佐伯はあぐりの身体を抱き寄せる。

 「!!・・・・はな・・・・してっ」

 思わず佐伯の身体を突き飛ばすあぐりに、佐伯の顔色が変わった。


 「なぜだっ!?佐々木はもう死んだんだ、この世にはいないんだぞっ!?」

 佐伯の怒鳴る声に身体を強張らせながらも、あぐりは真っ直ぐな瞳で答える。

 「うちの身ぃも心も、愛次郎はんだけのもの・・・・・・たとえ愛次郎はんがこの世からいんようになったとしても、他のお人にすがって生きるつもりはないんどすっ!」


 あぐりの言葉は佐伯の押さえていた感情を爆発させ、力任せに押し倒される。

 「やっ・・・・・はなしてっ」

 ジタバタともがくあぐり。 

 それを力でねじ伏せようと馬乗りになる佐伯。

 その佐伯の手が容赦なくあぐりの胸元へと伸び、白い肌を(あら)わにさせる。


 「いやぁぁぁぁぁ」

 あぐりの悲鳴が響き渡る。

 それに構うことも、(ひる)むこともない佐伯の手はあぐりの着物の裾を捲り上げた。


 「やめてぇぇぇぇっっ!!」

 なんとか抜け出そうともがくが、到底男の力に敵う筈もない。

 恐怖と失望と怒りに支配されたあぐりの心は氷のように凍てつき、もう涙すら出なかった。


 「諦めて俺の(もの)になれっ」

 「うちの心は、後にも先にも愛次郎はんだけのもんどすっ!」

 この状況でもキッパリ言い切るあぐりの姿に、佐伯の顔が怒りで歪む。


 「この(あま)っ!!イヤでも、その身体に教え込んでやるわっっ!!」

 怒りに任せた佐伯の手が、あぐりの頬を打ちその身体を(まさぐ)るように動きまわる。

 その感触にあぐりは背筋が凍るような気がしていた。


 (愛次郎はん以外の(ひと)に辱めを受けるのやったら・・・・・・いっそ・・・・・・)

 ふと覆い被さる佐伯の肩越しに、綺麗な夏空が目に映る。


 (愛次郎はん・・・・・・今・・・・・・あぐりもお傍に・・・・・・)

 最期に見た空には、佐々木の優しい顔が映っていた。

 それだけでもう充分だ。


 あぐりは身体中の力を抜くと、最期の空に映る愛しい男に向かって微笑む。

 (せめて・・・・・・愛次郎はんの手にかかって死ねたら・・・・・・)

 そう思って瞳を伏せたあぐりの脳裏に浮かんだのは、以前佐々木から貰った(かんざし)のことだった。


 (愛次郎はんに貰ろうた(かんざし)・・・・・・あれが、きっと愛次郎はんの元へ導いてくれる・・・・・・)

 あぐりは佐伯に気づかれぬよう、そっと自分の髪に手を伸ばす。

 (さぁ、うちを愛次郎はんの元に・・・・・・)


 あぐりは強く握り締めた(かんざし)を、迷いなく自分の喉へと突き立てた。



   愛次郎はん・・・・・・


   うちは愛次郎はんに出逢えて・・・・


   ほんに幸せどしたえ?


   大好きどす。愛次郎はん・・・・・



 息絶えたあぐりの瞳から、最後の涙が一筋流れ落ちた。

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