第百三十九話
「火の手は逃げ切れぬと思った長州の兵によって放たれたと報告を受けています」
御簾越しに向かい合った位置に座る慶喜が凛とした声で答えると、横に控えていたタケが鋭い視線を向けながらも静かな口調で反論する。
「それはまた異な事を申される。わたしが確認した時には既にあの邸で息をしていた者はひとりもいなかったと記憶していますが?息は出来ないが火は放てる、とは・・・どういうことでしょう?」
タケの冷たい視線に慶喜の顔色がサッと変わる。
「っ!」
その表情を見逃すまいとタケが更に言葉を重ねる。
「長州軍には妖術使いがいたとでも言うおつもりか?」
「・・・親衛隊の隊長殿は人が悪いですな」
「いや慶喜殿には勝てませぬな」
2人の男の鋭い視線がぶつかり合い部屋の空気はピリピリと緊張を増していく。
それを御簾越しに感じながらあかねは感心していた。
(なかなか良い斬り込み方をするじゃない。あの慶喜殿が珍しく動揺しているようだし)
少し前。
半ば無理やりに御簾の中へ放り込まれたあかねは、几帳の裏に身を潜めていた。
本来なら帝と同じ場所に上がることなど出来ない身分なのだから天井裏でも良かったのだが。
そうこうしている間に孝明天皇によって呼ばれた慶喜が部屋に来てしまったので、口を噤むしかなかった。
時間さえあればタケにあれこれと意を伝えることも出来たのにと悔やんでいたのだが、思っていた以上にタケが冷静に対峙しているのであかねは少し安心していた。
いま慶喜公の前で隊長として座る彼はいつもの悪童ぶりは微塵もなく、堂々としていて隊長らしく見える。
身代わりをかって出たのだからそのぐらいは当然なのかもしれないが、口調までそれらしく振る舞っているのだから驚きである。
さすがは忍びとも言える。
(心配、は無用だったかな)
などと思っていると孝明天皇の横顔が少しだけこちらに向けられた。
どうやら同じような感想をもたれたのか満足気な笑みを浮かべ、小さく頷かれている。
(・・・御上も満足なされている、と。というより、なぜか余興を楽しまれているように見えるのは気のせい?いや、気のせいだと思いたい・・・)
あかねは出そうになる溜息を呑み込みつつ、御簾の向こう側へと意識を集中させる。
「もう一度お伺いしますが。火を放ったのはどなたですか?」
「・・・長州の者でないとすれば、幕府側の者、ということになりましょうなぁ」
旗色が悪いことを理解したのか慶喜の口調はすっかり変わっていた。
「・・・・・まるで他人事のような言い方をされますが、お認めになるということでよろしいのでしょうな?」
「いや、なに、状況から察するにそういうことになるかもしれないと思った次第で」
「なんです、そのはっきりしない物言いは」
「正直に申すなら、わからぬのですよ」
「は?」
このままのらりくらりと追及をかわす策に出たのだろう。
言い換えれば得意の狸っぷりで切り抜けるつもり・・・とでも言うべきか。
「確かに長州軍をあぶり出す為に鷹司邸に火を放った、のかもしれない。けれど、わたしは誓ってそのような命令は出していない」
「そんな言い訳が通用するとお思いか?」
「思ってはいないが、それが事実なのだ」
キッパリと悪びれることなく言い切る慶喜。
さすが御三家の当主は肝が座っている。
家茂公と将軍の座を争っただけのことはあるな。と誰もがその狸っぷりに感心すらしていた。
だがタケの方は追及の手を緩めるつもりはないらしく、慶喜を見る目にはあきらかな怒気が浮かんでいた。
「なるほど。よくわかりました」
「ご理解頂けましたか」
「えぇ・・・・・・この問答が無意味であることがよく理解出来ました」
「なっ!?」
思ってもみない暴言に初めて慶喜の顔色が変わる。
御簾の中で息を潜めるあかねにもその動揺が伝わってきたのだから相当なものだろう。
(タケもだいぶ頭にきてるな・・・まぁ気持ちはわからなくもないけど)
「なんとっ!いくら御上の親衛隊隊長とはいえ、失礼ではないかっ!」
「やめろ。御前であるぞ、下がっておれ」
慶喜の後ろに控えていた側近が声を荒げたことで冷静さを取り戻したのか、慶喜の表情からは感情が消えていた。
「し、しかし慶喜様」
2人の会話などまるで耳に入らないとでも言うかのように、タケの眼光が鋭くなる。
「失礼はどちらか?仮にも禁裏御守衛総督ともあろうお方の配下が、この御所を危険に晒しているのは明白。御上をはじめ宮さま方がご無事だったからよい、というわけには参りませんぞ?」
言葉だけでなく纏う空気までもに怒気が滲み出て抑えようとしないタケに、強気だったはずの側近がたじろぐ。
「仰る通りにございます」
「では禁裏御守衛総督として直ちに消火に全力を尽し、この御所並びに京の町をお守り頂きたい」
「しかし敗走した長州軍の追討もせねばなりませぬ」
「それはこちらに任せて頂いて結構。既に手は打ってあります。町の焼失を少しでも最小のものになされることが、御上お心をお救い出来るものと心得られよ」
御簾を隔てたこちら側とあちら側では漂う空気すら違う・・・なんというか、あちらには緊張感がまるでない。
御上は目の前で繰り広げられる攻防をただ静かに見守りながら、時々「ほぉ、そう来たか」などと呟いているし、あかねは怒声が聞こえても気配を消したまま微動だにしない。
タケの部下という形で同席している朱里も口を挟むわけにはいかないので、ただ事の成り行きを見守るしかない。
気になることがあるとすれば・・・時々あかねに視線を向ける御上の様子を慶喜が気づいている、ということだけである。
(あれではあそこに誰かがいると言っているようなもんだよね、やっぱり・・・。タケは慶喜公を言い負かした気でいるんだろうけど、男というのはやはり詰めが甘い・・・さすがに御上に注意するわけにはいかないけど、これでタケが隊長ではないことは慶喜公も気づいているはず・・・だからと言ってどうこうするつもりはないみたいだけど・・・)
「わかりました。隊長殿の仰る通りに致しましょう。それで此度の不始末が帳消しに出来るわけではありませんが、町を焼き、その上長州軍を取り逃がすようなことだけは避けたい故、貴殿たちにお任せするのが一番だと理解致しました。ではこれにて御前を失礼致します」
最後に正面に向かって礼をすると、そのまま退席しようと立ち去る慶喜だったが。
ふと立ち止まりタケの方に視線を向けるとわずかに口の端を上げてこう言い放った。
「また近いうちにゆっくりお会いしたいものです、隊長殿」
それはタケに向かってというより、タケの向こう側にいるあかねに向かって言ったようにも見えた。
いや、間違いなくあかねに向けて言った言葉だった。
(嫌な予感、的中か)
朱里ががっくりと肩を落とすのと、
「さすが、狸よ。あの父にしてこの子あり、と言ったところか」
と、孝明天皇が言葉を漏らすのはほぼ同時だった。
そして。
先ほどまで勝ち誇った顔をしていたタケは。
最後に言い逃げをされたことに本気で悔しがっていた。
一方、部屋を出た慶喜は。
「なぜあんな無礼者とまた会いたいなどと?」
という至極真っ当な側近の問いに
「あれはきっと美人だ。俺の勘は外れない」
などと意味不明な答えを返していた。
ゾクっとするような笑みを浮かべて。