第百三十話
あかねが神戸の地に着いて早3日。
シゲの言う通り。
操練所に勝海舟はおろか塾頭と目される土佐浪人の姿を見ることは一度もなく、あかねにとっては思いがけずに取れた休暇となっていた。
ここでの時間はゆっくりで、京にいた頃の喧騒は全くない。
聞こえるのは寄せる波の音と、時折さえずる小鳥の声。町を行き交う人々の話し声や笑い声。
その穏やかに流れる時間が心地良すぎて離れがたくなってしまうほど、あかねの心は静けさを取り戻していた。
一時の休息。
ほんの少し気を抜いても許される。
そんな雰囲気がここにはあった。
「ここは、のどかですね」
ふと呟いたあかねにシゲは、ヤレヤレと眉を寄せる。
「京や江戸が騒がし過ぎるんじゃ・・・どちらも表向きは華やかそうに見えるがその実、裏では火花を散らして他人のアラ探しに明け暮れておる。まったく何が楽しいのかワシには皆目わからん」
いつの間にか日課となった碁を前に、シゲは「うーん」と腕を組み考え込む。
「ふふっ。すっかり好々爺になった口ぶりですね。でも・・・本当にその通りかもしれません。力を合わせようと上だけが手を取り合い、下の者たちは牽制し合う・・・・・・・・いつになったら帝の願いは叶うのか・・・・・何のために和宮様は江戸へと下られたのか・・・・・」
蒼く澄み渡る夏の空を見上げるあかねの横顔が哀しそうに揺れるのを見て、シゲはポツリと呟く。
「もしもの時は・・・どちらにつく?」
「・・・はい?」
「・・・・・・この先。朝廷と幕府が決別することになるやもしれん・・・・・そうなったら」
「朧としては朝廷を選ぶでしょうね・・・・・」
鞍馬の長としては当然の答え。
けれど曇った表情を浮かべるあかねは、視線を下に向けながら言葉を続ける。
「でも・・・・・幕府に残る宮様をそのままには出来ません・・・・・だから」
「きっと最後の最後まで迷う、か?」
「はい。私にとって宮様はこの世で最も大切なお方・・・・・あのお方なしに今の私は存在しません。恩あるお方を見殺しに出来るほど私は強くありませんから・・・・・けれど今上帝のお傍を離れることは宮様の意に沿わぬこと・・・・・だからきっと最後まで迷うと思います。出来る事なら、そんな未来だけは避けたいものですね」
そう言って悲しそうに笑うあかねに、シゲは言葉を詰まらせた。
「その時・・・・・お主は・・・・・」
その先に続く言葉をシゲは飲み込む。
(・・・心を、死なせる・・のかもしれん・・・・・)
どちらも選びきれず。
己を殺めることで、どちらも選ばずに済む唯一の方法。
だが。その逃げ道すらも。
この忠誠心の塊は選ぶことが出来ないのではないか?
その時もがき苦しむこの年若き長を、誰が支えてくれるというのだろう。
この小さな背中を誰が守ってくれるというのだろう。
少し沈黙の続くその部屋に、娘が駆け込んで来たのはそれからまもなくのことだった。
「ジジさまぁ!あかねさまぁぁ!」
「な、なんじゃ、騒々しいっ。どうしたと言うんじゃっ!?」
ドタバタと大きな足音を響かせて部屋へ飛び込んできたのは、店の女中として働くタマという娘。
もちろん忍びである。
が。どうにも落ち着きのない性格のようで、ついたあだ名は「いのしし娘」。
猪突猛進な姿がそっくりである。
「西から知らせがあって、長州が軍を率いて京に向かったとっ!!」
「長州がっ!?」
長州と聞いて思わず立ち上がったあかね。
「おタマ。すぐにあかねの出立の用意じゃっ!」
「は、はいっ!あ、あかね様のご出立じゃー!ご出立っぅ!」
転がる様にして部屋を飛び出すタマの後ろ姿を見送りながら、シゲは呆れたように息を吐く。
「まったくアレは騒々しくてイカン」
「とか言いながらも、可愛くて仕方ないのが顔に出てますよ?」
「フンッ。出来が悪いんで目が離せんだけじゃ。お前も生意気言うとらんで早ぉ支度せぇ」
「はぁーい」
シゲに急かされイソイソ支度を始めるあかねだったが、その表情はどこか複雑で憂いが浮かんでいた。
それはまさしく夢の終わりを突き付けられ、現実へと引き戻された切ない表情。
誰よりも本人が一番理解している。
夢から覚めた自分が、これから向かうのは地獄への道だということを。
この先この瞳に映すのは・・・・・血で赤く染まった世界であることを。
それでもちゃんと顔を上げて淡々と支度をするあかねに、シゲは表情を曇らせる。
(死んではならんぞ・・・・・・・・・・・あかね)
一方、まだ何も知らせの届いていない京では。
あかねの無事をただひたすらに願う朱里の姿があった。
神戸に危険が無いことはわかっている。
だが朱里の心配はそこではない。
(あかねさま・・・・・・)
ひたすらに思うのは、あかねが鞍馬に戻ってくること。
ひたすらに後悔するのは、玄二を止められなかった自分の弱さ。
大切な人を2度と失いたくはない。
だが。
鞍馬の里内に、あかねに対する怒りが燻っていることも確かだった。
表面上には出さずとも。
玄二が指揮を執っていた玄武隊の中にはあかねを仇と思う者も当然いる。
彼らにとって大事なのは理由ではなく結果そのもの。
いくら玄二が望んだこととは言え、あかねが殺したことは紛れもない事実。
悲しみを抱えた彼らが怒りの矛先を向けるのも、道理である。
玄二の抜けたあと。
未だ新しい隊長は決められてはいない。
一時的にあかねが代行を務めてはいるが、それがまた彼らの怒りに火を点けている。
『隊長を殺した女に俺たちは従わない』
そんな風に彼らが騒いでいたのは、つい昨日のこと。
そんな彼らに同調する者は『次期長などと認めない』とまで息巻いている。
あかねがいなくてもそんな騒ぎになるのだ。
もし帰ってきたと彼らが知れば・・・・・どうなるかは明らかだ。
その時あかねはまた傷つくだろう。
それをわかっていながら戻ってきて欲しいと願ってしまう自分に、朱里は心底嫌気がさしていた。
(わたしはどこまでも勝手だ・・・・・あかね様にとっては、このまま神戸にいる方が良いと知っているのに・・・・・それでも戻ってくれることを願っている・・・・・あの方の苦しむ顔など見たくはないと言いながら。結局自分の拠り所にしてしまっている・・・・・どこまでも勝手だ、わたしは・・・・・)
「また・・・怒っておるんじゃろうな、お主は」
ふいに掛けられた聞き覚えのある声に、朱里は振り返ることなく頷いた。
「当然です。あかね様が苦しむのをわかっていながら・・・・・此度も何も手を打とうとはなさらない。おふたりを尊敬していますが・・・・・今は嫌いです」
視線を向けることなくハッキリと言い放った朱里に、翁は少し寂しそうな笑みを浮かべていた。
「はは・・・これは手厳しいのぉ」
「あかね様の苦しみを思えばこの程度のこと・・・・・」
「・・・・・もしワシらが何らかの手を打ったとして・・・・・それでコトは収まると思うか?」
翁の問いに朱里は固まる。
「・・・・・・・・・いいえ。その場しのぎにしかならぬことぐらい、わたしにもわかっております。だから、嫌いだけど尊敬していると申したのです」
そう。その場しのぎでは意味がない。
これはあかね自身が自らの力を示し、従わせなければならない事。
そうしなければいつまでも燻り続けるどころか、里の団結力を揺るがすことにも為りかねない。
長としての力。
求心力。決断力。そして隊士からの揺らぐことのない忠誠。
そのどれもが長に必要な絶対条件。
ひとつでも取り零せば。
この里に未来はない。
「あかねにとってはここが正念場じゃ。ここで皆からの信頼を得ることが出来ねば長にはなれん。長とは名を襲名することではない。里を襲名すること・・・・・それが長になる、ということなんじゃ。あかねにその器があるかないか・・・・・・ワシらは黙って見守ることしか出来ん」
「わかっています、そんなこと・・・・・・それでもわたしは・・・・・」
「やっぱりおふたりが嫌いです」
聞き逃してしまいそうなほど小さく呟いた朱里の言葉に、翁はふっと笑みを零す。
ふと見上げた空には、今にも降ってきそうなほどの星が瞬いている。
手を伸ばせば届きそうなほどの星に包まれながらも、朱里の心はどこか晴れないまま。
未だ戻らぬその人の姿を、思い描いていた。