第百二十六話
あかねが神戸行きを決めた頃。
京の島原では。
近藤と深雪が仲睦まじく酒を酌み交わす姿があった。
初めは。あかねと親しい明里に話しを聞くことが出来れば・・・と思い出向いた近藤だったのだが。
何しろ相手は山南の芸妓である。
下心が無いとは言え、座敷に呼ぶのはどうにも気が引け・・・・・仕方なくと言っては失礼なのだが、あかねを知るもうひとりの芸妓を呼ぶことにしたのだ。
代わりに呼ぶにしては高くついたが、何か情報が得られるかもしれないと腹を括った・・・近藤だが。
「近藤はんがうちんとこ来はるやなんて・・・・・・珍しおすなぁ」
「あぁ・・・・・・今夜はなんとなく、そんな気分だったんでね」
深雪に酌をされながらも、元来それほど酒を好まない近藤は杯をそのまま台に戻す。
もしかしたら。
あかねが顔を出したのではないか?と淡い期待を抱いて来てみたが・・・深雪の様子を見る限り、空振りなのはすぐにわかった。
であれば、余計な心配をさせるわけにはいかない。
そんなことを考える近藤の横顔に、深雪はフッと口元を緩める。
「あかねはんのことでも聞きに来はったんどすか?」
「えっ!?あっ、い、いや、別にそういうわけでは・・・」
図星を付かれ妙に慌てる近藤を深雪はさも可笑しそうに笑い飛ばす。
「いややわぁ、近藤はん。そない素直な反応しはるやなんて」
「なっ、なにか知っているのかい!?」
コロコロと鈴が鳴るような声で笑う深雪に、近藤はバツが悪いのか少し顔を赤らめ、置いたばかりの杯を煽るように飲み干す。
「せやけど・・・・・・わざわざ恋敵である、うちんとこに来はるやなんて」
「っ!?」
深雪の言葉に驚きのあまり目を見開く近藤。
どうやら深雪が言っているのは、近藤が知りたい答えとは違うらしい。
それを瞬時に理解した近藤だったが、それ以上の言葉が浮かばず黙り込んでしまう。
「うちが気ぃついてないと、思うてはったんどすか?」
「あ、いや・・・・・・でも、どうして?」
「そんなん簡単どすえ?おんなじ人を想うてるんどす。気ぃつかへん方がどうかしてると思わはりまへんか?」
にっこり。と笑む深雪の表情に、近藤の頭は真っ白になっていた。
「あ・・・・・・」
「ですやろ?」
「ははは・・・・・・それも、そうだね」
胸に秘めた想いをあっさり見破られ、それ以上の弁解を必要としなくなったのか近藤は素直に頷く。
「せやけど、うちが知ってることなんて・・・・・・そんなにあらしまへんぇ?」
「いや、別にあかねくんとのことを聞き出そうと思って来たわけじゃないんだ。ただ・・・・・・」
「ただ?」
「・・・・・・どうしてあかねくん、なんだろうと・・・・・・ずっと気になっていてね」
あかねの行方はわからない。
だが。あかねを知る深雪との話が今夜はとても心地よく感じられ、近藤は腰を上げる気にはなれなかった。
「そうどすなぁ・・・・・・あかねはんと知り合うたんは・・・・・もう10年以上昔になりますやろか・・・うちが島原に来て間なしの頃で・・・・・・」
深雪はゆっくりと記憶の糸を辿り、懐かしそうに表情を緩めた。
「うちは元々武家の娘なんどすけど。そんなに裕福な家やのぉて、その上・・・・・母が病いに倒れてしもうたこともあって・・・・・・うちは売られて来たんどす。そんなんここでは良くある話やし、うちも納得して来たんどすけど・・・・・・あれは・・・・・ついてたお姐はんのお床入りを見てしもうた夜のことどした・・・・・・見た瞬間、急に現実味が帯びてきて・・・恐ろしゅうなってしもうて・・・・・・逃げ出したんどす」
「・・・・・・」
思いがけなかった深雪の告白に、近藤はただただ言葉を失っていた。
遊里に通い、女を買う側でしかなかった近藤には考えたこともなかったことだ。
言われてみれば年端もいかない子供からすれば、男女の秘め事など見たことないのも当然。
まして惚れた相手とならまだしも、なんの感情も持たない相手に身を任せなければならないのだ。
それを考えれば『恐ろしい』以外に言葉はない、のかもしれない。
「・・・・・・あてもなく、どこを通ったんかもわからしまへんけど・・・・・・とにかく逃げたんどす。夜の闇の中・・・・・前だけを見て・・・・・。そないな時刻、普通の人がおるわけないって今やったらわかるんどすけど・・・・・あの頃はそれすら知らへん子供どしたんや。当然、酔っ払いの浪人に見つかって・・・・・手篭めにされそうに・・・・・けど、うち必死で逃げたんどす。暗闇の中、転がるように・・・・・せやけど・・・・・あっけのぉ追い詰められ・・・・・・」
話しを黙って聞いていた近藤がゴクリと喉を鳴らす。
「追いかけてきたほうも、それはもう鬼のような形相で目ぇ血走らして・・・・・・大人しくしなければ斬る!と刀振り上げ・・・・・・もう終わりや思うたとき・・・・・偶然、近くにいてはったあかねはんが・・・・・・」
言葉を詰らせた深雪を急かすかのように、近藤が聞き返す。
「あかねくん、が?」
「刀を振りかざした浪人の前に飛び出して・・・・・・うちを庇うてくれはったんどす・・・・・・・・・言葉の通り、身を呈して」
「!!」
振り絞るような声で語る深雪を、近藤は固唾を呑んで見ていた。
いや目を離すことが出来なかったのかもしれない。
深雪を通して広がったその光景から。
「振り下ろされた刀は・・・・・・あかねはんの背中を斬り、つけて・・・・・うちは、うちは、その紅く染まった世界を震えて見てることしか・・・・・」
その時の光景が思い返されたのか、深雪の目には今にも零れ出しそうなほど涙が溜まる。
「うちの震える身体を抱き、振り下ろされた刃の傷みに耐えながら・・・・・・守って、くれはったんどす。泣く事しか出来ひん、うちの事を・・・・・・うちのせいで怪我したいうのに・・・・・・あかねはんは『もう、大丈夫』って笑ってはった・・・・・痛いのを我慢して、無理に笑顔作って・・・・・」
言いながらも深雪はポロポロと大粒の涙を流し続ける。
「その後のことはよぉ覚えてまへんけど・・・・・・あかねはんのお仲間はんが浪人を蹴散らしてくれはって・・・・・・けどっ」
子供のように泣きじゃくる深雪を前に、近藤は言葉が出てこない。
ただ黙ったまま、深雪の背中を落ち着かせようと擦るだけだ。
しばらく泣き続けていた深雪だったが、少し落ち着きを取り戻した頃。
ポツリポツリ、とまた話し始めた。
「あん時の傷は・・・・・薄なったとはいえ、まだ残ってました。女子の肌には似つかわしゅうはない大きな傷・・・・・うちが負わせてしもうた傷・・・・・・それだけやおまへん。うちの知らん傷が、増えてはった。あの傷跡の数だけ、あかねはんは何かを守って来はったんやと思うたら・・・・・・なんや涙が止まらへんよぉになってしもうて・・・・・・」
「そうか・・・・・・。君は・・・今も、自分を責め続けているんだね」
「うちのせいでしか、あらしまへん」
「そんなことはないさ。悪いのは君ではなく刀を抜いた浪人・・・・・・だから、あかねくんは君を責めたりしない」
「・・・・・・おんなじ事、言わはるんどすなぁ。あかねはんと」
「わたしがあかねくんの立場だったら、そう考えるだろうから、ね」
近藤が笑みを見せたことで少し安心したのか、深雪の表情も少し柔らかくなる。
「あかねはんは情の深いお人。一度でも関わりを持ったお方、いえ例え見知らぬ相手だとしても困ってる人みたら・・・・・・ほぉっておけへん性分どす。うちは所詮、駕籠の鳥でしかあらしまへん。傍に居とぉても、おられへん・・・・・・あかねはんが無茶をしそうになっても、止めることも出来まへん。その点・・・・・・近藤はんはいつも傍にいてはる・・・・・・悔しおすけどなぁ」
「ははは・・・・・今は違う、けどね」
少し恨めしそうな視線を向ける深雪に、近藤はあかねがいなくなったという事実を告げられずに苦笑いをするしかない。
「それでも・・・・・・うちよりは、近くにいてはるんどす」
「あぁ、まぁ、そうなるね」
困ったように頭を掻く近藤だったが、深雪の表情が急に固くなるのを感じたのか姿勢を正した。
「どうか、あかねはんのこと宜しゅうお頼み申します。うちはあかねはんと・・・どうにかなりたいわけやおまへん。ただ生きてさえいてくれはったら、たまに元気な顔見せてくれはったら・・・・・・それだけで充分幸せなんどす。もし会えへんよぉになったとしても・・・・この世のどっかで生きてはるんやったら、それで充分。他にはなんにも要りまへん。そやから・・・・・・どうか、あかねはんのこと・・・・・・」
真剣な眼差しで懇願する深雪。
その表情を見つめながら、近藤は力強く頷く。
女子同志だからこそ、どうにもならない現実。
それでも深雪はあかねを想い続ける。
今までも。そして、これからも。
あかねがこの世に存在していること。
それだけで意味がある。
それだけが深雪の支え。
それが・・・・・・。
深雪の示す『愛』のかたち。
それは決して悲しい答えではない。
遊里という特殊な世界で生きる太夫が辿り着いた、たったひとつの生きる道。
未来を約束できることはなくても。
ひとりの女として見つけた幸せのかたち。
人はそれぞれが、それぞれの道を歩いている。
その道は誰かが用意したものではなく、自らが踏み出す一歩一歩が続いていくもの。
己の前に道はなくとも、後ろに道は続いている。
それが生きている証。
その道がどんなに困難であろうと。
その先に幸せが見えなくとも。
己の選ぶ道を悔いることはない。
たとえ与えられることがなくても。
幸せだ、と。
そう心を決めたのだ、と。
はっきり言い切る深雪は、誰よりも綺麗で輝いていた。
その輝きは女としてでも、まして太夫としてでもない。
ひとりの人としての輝き。
その輝きは何にも汚されることはない。
『出逢えたことが奇跡。それだけで充分。それ以上望めばバチがあたるというもの』
ポツリ。と、そう呟き微笑む深雪の顔は、これ以上もないほど美しく清らかで眩しい。
同じ相手を想ってはいても。
こんなにも形が違うものなのかと。
近藤はこの夜、改めて思い知った。
傍に置いておきたいと願う自分の傲慢さを。