第百二十五話
池田屋での騒乱から早5日。
市中では残党狩りが続く中、京の北に位置するここ鞍馬では玄二の葬儀が執り行われていた。
葬儀と言っても現代のものとは全く異なり、集まれる者だけがひっそりと見送る密葬。
当然ながら。
忍びの隠れ里に僧侶を呼ぶようなこともなく、火葬したのち散骨するという形である。
火葬するのは、影として生きたものが最期に形を残さないため。
散骨は「鞍馬衆として生きた証、最期は鞍馬の土に還る」と考えられ、それは里の者たちにとって名誉なことでもあった。
もっとも。
忍びとして各地に散っている者が多い鞍馬では、葬儀を行うことすら珍しい。
何しろ隠密行動中に命を落とした場合、それは敵の手中に落ちたことを示し、死して里に戻れることなど皆無に等しかったのだ。
そういう意味では、玄二は幸運だったのかもしれない。
夏の太陽が降り注ぐ空に、一筋の白煙が立ち昇る。
それは天へと必死に上がろうとしているようにも見え、あかねはその様子をジッと見つめ胸に手をあて静かに頭を垂れる。
それは主に対して行う忠誠の証。
もしくは下忍が上忍に対して見せる信頼の証。
だが主従関係にない者に対して行うのは・・・その功績に対する称賛と、これからも共に有り続けるという誓い。
その背中を見守っていた朱里も同じように左胸に手をあてながら、複雑な表情を浮かべていた。
この5日。
共に暮らしていた朱里だけが知る事実。
あかねの心に深く突き刺さった楔の存在。
それは。あかねの心の奥底に確実に生まれた闇。
意識のある時には決して表に出ない傷。
それでも、それは。
確実に根付いていた。
それを初めて目の当たりにしたのは4日前のこと。
夜中にふと目覚めた朱里が、何気なく隣で眠るあかねに目をやった時だった。
「・・・・玄、にぃ・・・・・」
聞き逃してしまいそうなほど小さく呟かれた言葉。
それと共に、あかねの目尻からは幾筋もの涙が流れ落ちていた。
(見てはいけないものを見てしまった)
と、朱里は直感的に思った。
きっとあかねはあの夜の夢を見ているのだろう、と。
「・・・・・・・・・ごめ・・・な、さい・・・・・・」
堪えるようにして漏れ出たその言葉に、朱里は思わず目をギュッと閉じる。
昼間のあかねは普段と変わらない。けれどその心は確実に悲鳴を上げていたのだ。
その心を誰にも見せず、誰にも知られず・・・・・いや、もしかすると本人ですらも気づいていないのかもしれない。
それでも突き刺さった棘は抜けることなく深く深く食い込んでいる。
その夜から。
まるで日課のように夜中に目を覚ますようになった朱里は、毎夜あかねの同じ姿を見てきた。
苦しそうに眉根を寄せるあかねは、毎夜同じ言葉を口にする。
「玄にぃ、ごめんなさい」と。
その言葉を聞くたびに、朱里の心はギュっと締め付けられ居たたまれない。
朱里は玄二が好きだった。
兄弟子としての尊敬がいつしか恋心に変わる・・・・・それはよくある話。
傍にいて少しずつ育んだその恋慕の情は、いつしか大きなものとなっていった。
そして。
それと同じくらい、あかねのことも尊敬していた。
直属の上官として、同じ女として・・・・・そして姉として。
とても好きだった。
そこにあったのは尊敬と憧れの入り交じる、恋にも似た感情。
どちらが上とか下とかはない。本当に同じだけ好きだった。それは今でも変わらない。
そしてどちらが先とか後とか覚えていないほど、どちらも好きだった。
だからこそ。
玄二があかねを想っていることを知った時も、その気持ちは変わらなかった。
自分がふたりを好きなのだから構わないと思っていた。
もしふたりが互いの「特別」になってくれたら、それはとても幸せなことだろうと思えるほど。
本当にどちらも好きだった。
そのふたりが迎えた結末は・・・・・。
思い描いていたものとは全く逆で、あまりにも悲し過ぎるものだった。
どこで間違えたのだろう。と、朱里は思う。
誰がこんな未来を願ったのだろう、と。
無駄なことだと知りながらも考えずにはいられない。
誰かの、何かのせいにでもしなければ耐えられないほど辛い現実。
それを誰よりも悔いているあかねは、毎夜涙を流し「ごめんなさい」を繰り返す。
誰も彼女を助けられない。
闇の中、ひとり苦しみもがき続ける彼女に出来ることと言えば。
ただその伸ばされる手を握り、涙を拭うこと。
ただ、それだけ。
情けないことに、何も出来ない現実。
あかねの背中を見つめるだけで声を掛けられずにいる朱里の横を、スッと翁が通り過ぎあかねの隣に立ち並ぶ。
「辛いか?」
静かに掛けられた翁からの問いに、あかねはゆっくりと首を横に振った。
「・・・・・お前には辛い役目を押し付けてしまったな・・・・・許せ、とは言えぬが・・・おババを恨まないでやってくれ」
あかねの隣に立ち燃え上がる炎を真っすぐ見据えている翁の言葉に、あかねは驚いたように少し目を瞠った。
「恨むなど・・・あり得ません。私をここまで育てて下さったのはお師匠なのですから」
「じゃが・・・・・お主に試練を与えているのもまた、バァさんじゃ」
「・・・・・・・・・・それもまた、運命なのでしょう・・・それに。私よりも、お命じになったお師匠の方が・・・数倍お辛かったと思います・・・・・血が繋がらないとはいえ、息子なのですから」
表情を変えることなく、静かに目を伏せるあかね。
その隣で寂しそうな表情を浮かべた翁が、ふと空を仰いだ。
「それを言うなら、お主とて娘じゃ。どちらを失うても我らの辛さは同じこと。どちらも可愛い子であることに変わりはない故、な」
「・・・・・・・・・はい」
「ここからが、また大変じゃぞ」
「えぇ・・・覚悟しています」
ハッキリとした口調で返答するあかねの瞳に、涙はない。
翁にはそれが余計、痛々しく感じられた。
「・・・・・しばらく、神戸にでも行くか?」
「神、戸・・ですか?」
何の脈絡もない翁の言葉を受け、あかねは訝るような視線で聞き返す。
「あぁ。先の池田屋での一件。あの夜死んだ者のなかに、神戸海軍操練所の者がいたらしいと聞いてな」
「神戸海軍操練所?・・・・・確か勝海舟殿が立ちあげたという、幕府の海軍養成機関の・・・・・って、まさか!?」
翁の言わんとすることが理解出来たのか、あかねの視線が一瞬にして鋭さを宿す。
「いや、まだ疑いの段階でしかない。わしとて勝殿を疑いたくはない・・・じゃが、そこと関わる者が池田屋にいたこともまた事実。それにあそこは変わり種が多いと聞く。何しろ勝殿自身が変わり者じゃからな、ハハハ」
「笑ってる場合ですかっ・・・・・幕府のためにと創った海軍が、幕府転覆を狙っているとすれば由々しきこと・・・・・捨て置くわけにはいきませんよ!?」
「そうじゃが、まだそうと決まったわけでもなかろう?なにしろあの勝殿じゃ。一筋縄でいくような男ではなかろう・・・・・まぁ、本来であれば江戸から人員を割くべきなのじゃが・・・・・今は長州の動き次第でどうなるかわからぬでのぉ。それにこっちから行った方が近いと思うてな。今回は偵察のみじゃから、お主ひとりで充分事足りると思うが、どうじゃ?行くか?」
翁は白くなった顎鬚を撫で、片眉を上げながらあかねに視線を向ける。
「もちろん、行きます。もしもの時は操練所ごと壊滅させてきますから、後始末の方をお願いしますよ?」
まるで悪戯っ子のような笑みをうっすら浮かべるあかねに、翁は顔を引き攣らせ乾いた笑みを漏らす。
「ハハハ・・・・・お主が言うと冗談に聞こえん。ま、ほどほどに頼むぞ」
「えぇ。ほどほど、で」
先ほどまでの神妙な顔つきが一転。
水を得た魚のように生き生きと輝く。
まるで、何かをしていないと落ち着かないかのようなあかねの表情。
任務に熱心なのはいいことなのだろうが、翁はどこか違和感を感じていた。
それは側で聞いていた朱里も同じだったのだろう。
ふたりの間を割るようにして、突然話に加わる。
「わたしもお供します。おひとりでは何かと不便でしょうから」
当然、あかねが断るはずはないと思っていた朱里だったが。
これをあかねは一言で打ち消した。
「ダメ」
「え?」
思ってもみなかったあかねの反応に、朱里だけではなく翁も目を丸くする。
「朱雀隊隊長が御所から離れるわけにはいかない。わかるよね?」
「・・・・・・でも・・」
「心配してくれるのは嬉しいけど・・・朱里の任務は私を守ることじゃないでしょう?」
そう言われてしまえば、返す言葉は見つからない。
朱雀隊は御所警護が主な任務なのだ。
「それは・・・そうですが」
それでも納得出来ずにいる朱里の肩にあかねは手を置き、その顔を覗き込む。
「ありがとう。だけど、ひとりで大丈夫。それに・・・留守にする間、京のことを頼めるのは朱里しかいないんだから、ね?」
そんな風に諭されれば嫌だとは言えない。
それに、である。
尊敬する相手から「留守を任せられるのはあなたしか・・・」などと言われて、嬉しくないわけがない。
「・・・・・はい。承知しました・・・・・ですが、無理や無茶はなさらないとお約束頂けますか?」
「わかった。約束するよ」
最後の抵抗とばかりに「約束」という言葉を出す朱里に、あかねは安堵の笑みで答えていた。