第百十八話
翌朝。
静まり返った部屋の様子を見に来た朱里だったが、昨夜と何も変わっていない部屋の様子に小さく溜め息を漏らした。
敷かれた布団は敷かれた時のまま、シワひとつ変わってはいない。
部屋の主であるあかねも、最後に見た時と同じ位置・同じ姿勢のまま。
言葉を掛けようにも、何を言えばいいのかわからず朱里は軽く首を振る。
そっと部屋を出ようとした朱里だったが、それを消え入りそうなあかねの小さな声が呼び止めた。
「朱里」
呼び止められたことに少しホッとしながらあかねの顔を見、ゆっくり部屋の中へと足を踏み入れる。
「はい、ここに」
返事をし視線の定まらないあかねと目を合わせる。
ゆるゆると視線を上げたあかねは
「ごめん・・・・・・」
と、静かに目を伏せると頭を下げた。
「何を謝って、おいでなのです?」
「・・・・・・あなたの大切な人を・・・・・私は、殺めた。助けられたかも、しれないのに・・・・・」
「っ!!」
驚きに目を丸くする朱里。
その表情を見る余裕すらないあかねは、下を向いたままの姿勢で言葉を続ける。
「私は・・・・・兄を殺されたと思い込み、怒りのままに刀を抜いた・・・・・己の感情のままに、仲間を・・・殺した・・・・・」
「あかね・・・さま・・・・・」
やっと口を開いたあかねから出た言葉は。
己を責め立てるものばかりだった。
それが堰を切ったかのように、次々に溢れ出る。
「玄にぃは裏切ったんじゃない。何か理由があって里を抜けた・・・・・なのに、私はっ!!」
握り締められた拳に力が込められ細い肩が小刻みに震える。
「・・・・・ご自分を責める必要は、ありません。これは・・・・・玄二様が望まれた結果なのですから」
あかねの顔を覗き込むようにして首を横に振った朱里の表情に、悲しみと苦しみが浮かぶ。
それは何かを知っているからこその表情だと。
思考の覚束ないあかねにも見て取れた。
「やっぱり・・・・・朱里は知ってるんだね?玄にぃには何か考えがあって里を抜けたんだってこと、自ら裏切り者を演じてまで長州に下った理由も」
「・・・・・・・」
ハッとして顔を上げた朱里の瞳に、強い意志を示すかのようなあかねの顔が映る。
それだけで。
(絶対に言わない)
と、固く誓ったはずの朱里の心が、あっさり白旗を揚げた。
つくづく自分はあかねに弱い。
そして。
こんな人だからこそ、ついて行こうと決めたのだということを思い出す。
「ね、話して?玄にぃは一体何をしようとしていたの?どうしてこんなことを?」
「・・・・・・玄二様は」
そこで一旦言葉を区切った朱里は、意を決したように真っ直ぐな視線を向ける。
「・・・幕府を潰すおつもりでした」
「っ!?」
強い眼差しと共に告げられる言葉。
それが真実であることは揺るぎようもない。
けれど。
その真実は辛い現実でしかない。
「今の弱りきった幕府に朝廷を守る力はない・・・・・と。それで長州に賛同された・・・・・・でも」
「でも?」
「長州藩の内部事情を見て、愕然とされたようです」
「なぜ?」
「彼らも一枚岩という訳ではありません。尊王攘夷の名の下に朝廷に重きを置く人もいれば・・・・・そうでない人も・・・・・そして力を持って制しようとするものたちの中には・・・・・ただ徳川への恨みだけで動いている者も少なくはなかった」
そこまで淡々と物語でも語るかのように話していた朱里。
その語尾に少しだけ感情が表れ始める。
「恨み?」
「えぇ・・・・・・長年、外様大名として軽視されてきた恨み・・・・・もっと言えば、関が原の戦いによって敗れた豊臣恩顧の武将としての誇りと、積年の恨み・・・・・」
「関が原って・・・・・・そんな大昔のことを?」
「はい。元はといえば、毛利も徳川も・・・・・太閤殿下に仕えていた同じ大名。その相手に屈し膝を折り続けた二百余年の恨み」
「そ、んな・・・・・」
突拍子もない内容に言葉を失うあかねに、朱里は小さく頷き言葉を続ける。
「わたしも。初めて聞かされた時は耳を疑いました・・・・・ですが、これが玄二様の見た事実。そして・・・・・その真実が玄二様の心を狂わせてしまった・・・・・」
「・・・・・・」
「同じ頃・・・・・あかね様が朧襲名を了承されたことをお知りになり、玄二様は自分の命の使い方をお決めになられた・・・・・それは。狂気の中にあって正気を取り戻されたあの方の・・・・・・最後の願い、でした」
「私の・・・せい・・・・・・だ。いつまでも逃げ続けた・・・・・私の甘さが玄にぃを追い詰めた。もっと早くに覚悟を決め、しっかりとしていればこんなことにはならな・・」
「違いますっ!!」
あかねの言葉を遮るようにして、朱里は初めて声を大きくし悲しそうに顔を歪める。
「違い、ます。そんな風にご自分を責めないで下さい。あなたが自分を責めるようなことを玄二様が望んでいらっしゃるとお思いですか!?あの方は・・・あの方はっ・・・」
「あ、かり?」
それまでとは明らかに違う朱里の様子に、あかねはただただ次の言葉を待つことしか出来ない。
「玄二様はあなたを朧などにはしたくなかったっ。けれどそれは、避けることの出来ない事実で運命。あなたが京に戻られたことで、それが近い未来となってしまった。それでもあなたが進むと決めた道だと知ったから・・・・・その道が暗く重いことを知っていたから・・・・・その道を歩むには・・・あなたは優しすぎるから・・・・・本当の意味での覚悟というものを教える、それが自分に出来る最後の務めだと・・・・・だから玄二様は・・・・・」
そのまま泣き崩れてしまった朱里の身体を、あかねは堪らず抱きしめていた。
これ以上もないほど強く、しっかりと。
そして思い知った。
以前、朱里が泣いていた本当の理由を。
玄二を想うからこそ、止めることの出来なかった自分と。
どうして止められなかったのかと、悔やむ自分。
どちらも自分であり、真実だ。
だからこそ、朱里もひとりで苦しんでいたのだと。
きっと。
玄二を斬った自分よりも。
玄二の死への覚悟を知りながらも止められなかった朱里の方が。
何倍も何十倍も苦しかったはずだ。
『仇である私を斬れ』
などと、一瞬でも口にしようとした自分が情けなかった。
そんなことをしても朱里の心は晴れない。
それどころか更なる重責を負わせてしまっただろう。
すべては。
自分の弱さと甘えでしかない。
決して優しさなどではない。
自分が楽になりたいだけの、独りよがりだ。
そんな弱さや脆さが・・・・・玄二を殺した。
その現実は変えられない。
玄二の命が二度と戻らないのと同じで。
しばらくの間泣き続けていた朱里はふいに話し始める。
「わたしはあかね様が大好きです。そしてあなたを想う玄二様を含めて、あの方をお慕いしていたのです・・・・・あの方の望みを見守ることが私の唯一の道なのだと。でも・・・迷いがなかったわけではありません。何度も説得を試みたこともありました・・・・・けれど最後まで玄二様の心を動かすことは出来なかった・・・・・それが何よりも悔やまれるのです」
泣き笑いのような表情を向ける朱里に、あかねはかける言葉を見つけられずにいた。
いつのまにか大人になっていた妹。
いつのまにか変わってしまっていた世界。
そんな世界を知らずにこれまでいられたのは・・・・・自分が守られてきた証拠だ。
「今思えば・・・・・わたしはいつも中途半端な位置にいたんだね」
ポツリと言葉を漏らしたあかねの真意がわからず、朱里は顔を上げる。
そこには複雑な表情を浮かべるあかねの顔。
「和宮さまの御降嫁に従い江戸に入ったときも・・・・・御庭番衆のようで違った。今回、京に戻ってからも・・・・・鞍馬衆のようで、違った・・・・・結局いつも。私は自分の好き勝手に、思うままに生きていた・・・・・どれほど周りに守られていたかなど、考えもしないで」
顔を上げたあかねの瞳に蒼い夏の空が映る。
「皆に守られながらも、私自身は誰も守れず・・・・・こんなことで朧を襲名しようなど・・・・・笑い話にもならないね・・・・・強く、なるよ。もっと・・・・・もう大切な人を失わないで済むように」
「あかね様・・・・・・」
朱里に視線を移したあかねは、全てを吹っ切ったかのように力強く微笑んでいた。
そんなふたりを夏の風がゆるりと撫で、吹き抜けていく。
まるで。
玄二が安息したかのように。