第百十七話
「逝かれた、のですね・・・・・望みどおり、あかね様の腕で・・・・・・」
その言葉と共に姿を現した朱里は、茫然とするあかねの身体を肩にのせ自分の隠れ家まで引き上げていた。
人里から少し離れたその隠れ家には。
動かなくなった玄二。
生気を失ってしまったあかね。
そして朱里。
の、3人だけしかおらず、朱里の部下たちは既に情報収集のため池田屋周辺へと戻っている。
ひと気のない静かなその場所には、生ある者と死した者。
そして・・・・・。
その狭間で揺れ動く者だけが共存していた。
あかねはあれから一度も言葉を発しない。
ただただ。
ボンヤリと空を眺め、玄二のことを思い返していた。
狂気のフリをしてまで、玄二がしたかったこととは何か。
何が彼をそこまでさせたのか。
彼はそれを・・・・・成し遂げたのだろうか。
湧き上がる疑問はたくさんある。
だが、もはや答えてくれるその人はいない。
あかねは空から視線を外し、自分の掌をジッと見つめる。
そこには自分が玄二の命を絶った証が色濃く残されていた。
そんなあかねの様子を悲しげな表情で見守っていた朱里は、湯で濡らした手拭いで優しくその証を取り除いていく。
ゆっくり。
優しく繰り返される掌の感触。
それを受けながらもあかねは眉ひとつ動かすことはなく、何も映していないような瞳でただボンヤリとその光景を見ている。
どれぐらいの時が経っただろうか。
あかねの赤く染まっていた手が元の肌色を取り戻し、あかねの顔に飛び散っていた赤い模様が取り除かれ、身に着けていた着物までも着替えさせられても尚、あかねの表情に生気が戻ることはなかった。
「これで、終わりです」
黙々と手当てをしていた朱里がそう告げると、その声に反応するかのようにあかねは自分の腕に視線を移す。
ついさっきまで赤く染まっていたその場所には、白い布が施され傷があったことを主張している。
「ありが、とう・・・・・」
ここに来て初めて発せられた言葉は小さく、消え入りそうなものだった。
「今宵はここでお休みになってください」
「・・・・・・・・」
こくり。と頷いてはいるが、その身体が用意された布団へ動く気配は全くない。
だからといって。
朱里は無理に布団へと動かそうともせず、そっと部屋を出る。
ひとり部屋に残されたあかねを、夜の静寂だけが包み込んでいた。
ところ変わって。
池田屋では―
最後に土方隊が到着したことで、ほとんど決着はついていた。
近藤率いる隊で無傷だったものはさすがにいなかったが、井上隊と土方隊が到着したことで一気に形成は逆転。
見事、勝利を勝ち取っていた。
だが負傷した者は多く、その者たちの手当てと捕縛者の取り押さえ、そして運良く逃げ出した者の追跡・・・・・と、やることは山のようにある。
そんな状況の中。
土方は今更ながらに到着した会津藩に苛立ちを募らせていた。
(今ごろになって現れやがって・・・・・俺たちの功を横取りでもしに来やがったのか!?)
心で悪態をつきながらも、顔には決して出さないところはさすがである。
「秋月殿がわざわざお出ましとは・・・有難きことです」
「ははは。君はなかなか表情を隠すのが上手いな。本当は今更何しに来た?と言いたいだろうに」
「・・・・・・」
秋月の発言に対し、土方は明らかな不快感を表情に出す。
(わかっているなら言うなっ!!)
と噛み付きそうになる自分を抑え、土方は嫌味のひとつでも言ってやろうと口を開きかけた・・・・・が、先に秋月に先手を打たれた。
「恨むなら、わたしを恨め。兵を遅れさせたのは・・・わたしだ」
「っ!!」
「だが・・・・・・これで、近藤殿も腹を決められた。我が殿と共に、長州を討つという覚悟を・・・・・そうであろう?」
僅かに口の端を上げ言い放った秋月。
その彼に対して、土方は二の句を告げることも出来ず、食い入るように秋月を見る。
「君たちは功績を挙げ、局長殿は迷いを捨てた。何か問題でもあるかい?」
「・・・・・・」
秋月の言葉が土方の思考回路を巡り、そして全てを理解する。
「それが目的、でしたか・・・・・ならば。礼を言わねばなりませんな、新撰組副長として」
「君は話しが早くて助かる。だが、礼を言うべきはわたしではなく、近藤殿をお信じになられた我が殿だ。殿のご信頼がなければ、わたしもこんな手は思いつかなかったのだからね」
悪戯っ子のように笑って見せる秋月に、土方も頬を緩める。
「左様ですか。ならば、貴殿のような側近を持たれた会津様に感謝しますよ。これで進むべき道が定まったのですから・・・・・」
それだけを言い残すと土方はクルリ。と背を向け歩き出す。
その背中に。
「土方、歳三・・・・・なかなか面白い男だ」
秋月は小さく呟き、フッと口元に笑みを浮かべた。
そして歩き出した土方も
「俺たちが全滅したとしても会津の腹は痛まねぇってことか。全く・・・・・とんでもねぇ相手に見込まれたもんだな」
と、不敵な笑みを浮かべ呟いていた。
秋月の元を離れた土方は、井上や原田・斉藤らに一通り指示を飛ばすとそのまま怪我人たちの様子を見に来ていた。
そこには近藤と共に踏み込んだ隊士たちの姿が多く見受けられ、軽傷の者から重傷の者まで痛々しい姿が転がっている。
「で?怪我は大丈夫か?」
「あぁ、俺は手をやられただけだからな・・・・だが平助は額を割られちまってるし、総司は相変わらず目を開けねぇ・・・・・あっちは医者が必要だろうよ」
永倉の視線の先には、頭に白い布を巻かれた藤堂とその隣に寝かされたまま動かない総司の姿。
藤堂の方は見てわかる重傷だが、総司には目立った外傷もなく原因がわからない。
どちらかといえば、総司の状態の方が気がかりだった。
そして気に掛かると言えば、もうひとつ。
部屋の真ん中に残された大量の血の跡。
あれだけの血を流し逃げたとするなら、遠くには行けないはず。
なのに未だ何の報告も聞こえてはこない。
土方の胸をざわつかせる妙な胸騒ぎ。
それは、今ここにいない人物と関係するのではないか?という最悪の結果が浮かんでは消えていく。
だが確証はなにもない。
何もないことで余計にちらつく女の面影に、土方はひとり眉を寄せ小さく舌打ちをする。
今はそのことに集中していられない状況だと知っているからこそ、それ以上の詮索も感傷に浸ることも、ましてや騒ぎ立てることもしない。
ただあかねが無事でいることだけを願い、湧き上がる疑問を心の奥底へ押し込める。
(大丈夫。あいつに限って・・・有り得ない)
そう何度も繰り返し、繰り返すことで真実に変えようとする。
そんなことをしても気休めにしかならないと知りながら。
だがこの時の土方は知らなかった。
いや、土方だけではない。
誰も知るはずなかったのだ。
この後、あかねが姿を消すことなど・・・・・・。