第百十五話
元治元年 6月5日
無事に桂を長州藩邸へ送り届けたあかねは、迷うことなく池田屋へ足を向けていた。
理由はただひとつ。
桂から聞いた集会場所『池田屋』に、玄二が現れると思ったからだ。
既に新撰組は池田屋を探し当て、戦闘状態になっているかもしれない。
もしかすると、もう既にコトは終わっているかもしれない。
それでも。
あかねには妙な確信があった。
『きっと玄二は自分を待っている』と。
そう遠くない距離を屋根伝いに走っていたあかねの鼻先に、微かな血の匂いが届く。
(あれ、か・・・・・)
見れば灯りもなにもついていない真っ暗な一軒の旅籠の周りに、浅黄色のダンダラ羽織が行き来しており、建物内からは刀のぶつかり合う音が僅かに聞こえる。
暗闇に動く影に意識を集中させると、それが武田と井上だというのがわかった。
祇園を探索していた井上たち別働隊が到着しているのなら。
ここが戦場となって四半時(30分)以上は経つということ。
同じく別働隊として動いている土方の姿が見えないのなら・・・・・少なくとも半刻以上は経っていないことも窺える。
それだけを確認したあかねは、そっと屋根の上から辺りに視線を配ると自分の気配を完全に消した。
外をウロウロしている隊士たちに見つからないようにしながらも、あかねは誰かが逃げるために蹴破ったであろう窓に近づき、中を覗き見る。
「っ!!」
月明かりすらない暗闇の中。
ダンダラ羽織を着た誰かと、長州人と思われる誰かが向かい合い睨み合っているのが視界に飛び込む。
目を凝らさなくても、それが総司と玄二だというのが気配でわかった。
次の瞬間―。
総司の身体がグラリと揺れたかと思うと、そのままバタンと倒れ全く動かなくなった。
「兄さまっっ!!」
堪らず飛び出したあかねに、訳もわからず斬りかかろうとする浪人が刀を振り上げる。
と、同時に。
殺気を感じ反射的に抜かれたあかねの刀が、その男の喉元を切り裂く。
「邪魔をするなっっ!!」
あかねにしては珍しく、顔に返り血を浴びてしまうほど動揺していたのか・・・・・・そのまま浴びた血を拭うこともなく。
その足は総司の方に一直線に向き、動かない身体を抱き上げようと手を伸ばす。
あと少しで総司の身体に手が届く・・・・・・。
と思った瞬間。
あかねの背中に凍りつくような声が忍び寄る。
「そうか。こいつがお前の兄、だったのか」
地の果てから響いてくるような低い声。
その声にあかねはピタリと動きを止め、ゆっくりと振り返る。
うっすらと口元に浮かべた笑み。
その姿は、既にあかねの知る兄ではなかった。
「玄、に・・・・・・」
「遅かったな、あかね。待っていたんだぜ?・・・・・・もっとも。もう少し早ければ兄は死なずに済んだかもしれなかったがな」
クックック。と押し殺したような笑い声を立てる玄二に、あかねは自分の拳を強く握り締める。
「なんだ、怒っているのか?・・・・・・それとも、大切な者を奪われ悲しんでいるのか?そんな感情、朧となるお前にはもはや不要だろ?」
「!!」
「お前はここに俺を殺しに来た。それ以外に考えることなど、あるのか?」
ニヤニヤと不敵な笑みを浮かべる玄二を前に、あかねは憐れみの眼差しを向ける。
(どこで・・・・・どこから・・・・・道を違えてしまったのだろう。いつから・・・・・この人は、こんな顔をするようになったのだろう・・・・・)
共に笑い合い、共に助け合ったのは・・・・・そんなにも遠い昔だったのだろうか。
ふとそんなことを思うと泣き叫びたくなる。
ちらり。と背後に視線を送ると変わらず動かない総司の身体が目に入る。
(・・・・・・まもれ、なかった・・・・・結局、兄さまも・・・玄にぃも・・・・・・)
悲しみ、怒り。
そんな全ての感情を押し殺しながら、あかねは辛うじて朧としての責務を全うしようと声を振り絞る。
「貴方は里を裏切った。裏切り者の末路は貴方もよく知っているはず・・・・・・何か言い残したいことがあれば聞く」
渦巻く様々な想い出と感情。
少しでも気を抜けば堰を切ったように溢れそうになる涙を、なんとか押し留めるあかねに玄二の無常とも言える笑い声が降り注ぐ。
「ふっ・・・・はははっ!お前、俺に勝てると思っているのか!?お前に技を教えた、この俺にっ!?」
腹の底から出すように笑い声を立てる玄二。
その姿は既に正気ではなく、狂っているように映る。
「・・・・・勝つ、よ。理性を失った獣になど・・・負けるはずがない」
静かに言葉を紡ぐあかねに、玄二は怒りを爆発させるかのように目を大きく見開いた。
「言ってくれるじゃぁねぇかっ!!だったら望みどおり相手してやるぜっ!あの世で後悔するんだなっ!!」
刀を振り上げ向かってくる玄二に、あかねはすかさずその場に落ちていた総司の刀で応戦する。
「はんっ!微笑ましい限りだな。死んだ兄貴の刀で俺を討とうとはっ!!」
挑発するような玄二の言葉に、あかねは眉ひとつ動かすことなく切り返す。
「もはや人の理を外れた貴方にはわからぬこと。里を裏切り、仲間を裏切った貴方に、かける言葉などないっ!私は、私はっ・・・・・!」
立ち向かってくるあかねの姿を見ながら、玄二はふと幼い日のことを思い出していた・・・・・。
よく笑い、よく泣いた赤子。
成長するにつれ、その赤子は泣かなくなった。
負けん気が強く、仲間思いのその少女は。
どんなに辛い修行であっても涙は見せなかった。
そんな彼女が人目を忍んで泣くのは。
決まって誰かのためだった。
そんな強がりばかりの彼女を、いつも見守ってきた。
明るい太陽の下がよく似合う少女が、影のような生き方をするのが辛かった。
課せられた重圧に潰されることもなく。
必死に立ち続けるその姿が眩しかった。
そんな彼女がとても。
とても・・・・・好きだった。
だから・・・・・。
「いいツラするようになったじゃねぇか・・・・・・だてに覚悟を決めたわけじゃねぇみてぇだな」
「!?」
一瞬。
狂気に侵されていると思っていた玄二が発した正気とも言える言葉に、あかねの動きが鈍る。
「気ぃ抜くんじゃねぇっ!!」
次の瞬間。
容赦なく繰り出された玄二の刃先があかねの左腕をかすめ、うっすらと血が滲む。
痛みに顔を歪ませたあかね。
その瞳に映った玄二の姿は・・・・・・やはり狂気に満ちていた。
つい先程、正気かと思ったあの言葉。
それが空耳だったのかとさえ、思えてしまう。
「クッ・・・!」
「俺を止めたきゃ、俺を殺すことに集中しやがれっ!獣になった俺を殺るなら、お前は鬼になりやがれっ!!んな中途半端な攻撃で俺を殺れると思ってやがるのかっ!?ここで俺を止めれなければ、俺はまたお前の大切なモンを壊すぞっ!!」
玄二の言葉にあかねは握っていた総司の刀をその場に突き立て、懐から自分の愛刀を取り出す。
「・・・・・・兄さまの仇・・・必ず私が・・・・・だから、ここで見ていて下さい」
畳に突き立てたその刀に小さく語りかけると、あかねは玄二に向き直る。
目の前の立つその男は。
里を捨てた裏切り者。
そして、兄総司の命を奪った憎き仇。
共に育った仲間ではなく。
狂気に堕ちた獣。
『迷いは捨てろっ!』
『鬼になれっ!』
『大切なものを壊されたくなければっ!』
『鬼になれっっっ!!!』
「うわぁぁぁぁぁっ!!」
気迫のこもった声と共にあかねは玄二に向かって踏み出す。
迷いを断ち切り、情を捨て、ただ悲しみに潰れそうになる気持ちを怒りへと変えて。
総司が褒めてくれた速さを武器に、決して攻撃の手を緩めることなく。
何度も何度も斬りかかる。
その斬撃の全てをかわし続ける玄二の顔にも、もはや余裕の笑みなどなかった。
幾度となくかわされ、あかねの息が上がり始めた頃。
これが最後になるかもしれないと刀を振り上げた、その時。
玄二の目が一瞬優しく緩むのが目に入った。
「っ!?」
目を見開いたあかね。
次の瞬間。
あかねの視界が赤く染まった・・・・・・。