第百十二話
出動を命じられた全隊士が集結し、あとは出陣の声を待つのみとなった祇園会所。
暮六ツはとっくに過ぎ、既に時刻は宵五ツになろうとしていた。
会所内に集まった隊士たちは未だ掛からぬ出陣の声に苛立ちと動揺を交じらせながらも、ただひたすら局長からの指示を待ち続けていた。
祭りの喧騒に包まれている外とは違い、会所内には重苦しい空気が漂う。
そんな隊士たちの熱気から逃れるようにして外に出た近藤は、陽が沈みきった空を仰ぎため息を吐く。
そこにあるのは己の迷いなど知るよしもなく光り輝く星と月。
その光りに照らされながら、近藤はゆっくりと目を閉じる。
約束の時間はとっくに過ぎた。それでも会津からの返事はいまだ届かない。
ここに来て初めて。
近藤は会津に見捨てられたのではないか、と思い始めていた。
事の重大さを考えれば会津が動かないわけがない。
だが。長州藩との亀裂を明らかにしてしまうだろうこの状況に、藩主容保公ではなく重臣たちが重い腰を上げようとしないのかもしれない。
援軍の見込みもなく、ましてや敵の拠点すらわからない今。
こちらに勝機があるとは・・・・・・到底思えない。
「迷っておられるのですか?」
ふいに掛けられた声に、ハッと目を開けた近藤が振り返ると屋根の上に座るあかねの姿が視界に入る。
月明かりに照らされキラキラと輝くあかねの姿は、まるで天女のようにも見え・・・・・・こんな時だというのにも関わらず、近藤の胸は早鐘のように高鳴っていた。
「会津からの伝令が来るのを待っておいでなのですか?」
「あ、あぁ・・・・・・」
ズバリ聞かれて思わず視線を外す近藤。
だが、胸の鼓動はうるさいほど打ち続け息苦しさは治まらない。
「来ない・・・・・・かもしれませんよ?」
「えっ!?」
「本当は局長もそう思っておいでなのでしょう?だから踏み出せずにいる・・・・・・違いますか?」
ひらり。と音もなく屋根から飛び降りたあかねは、近藤の前に立つとまっすぐな瞳をぶつける。
その瞬間。
一瞬だけ。
近藤の胸の鼓動が止まった・・・気がした。
「会津は来ない。応援が見込めないこの状況で討って出れば勝算は低い。奇襲戦という勝ち条件であっても人数の少なさに不安が残る。勝てる見込みがない戦に隊士の命を懸けることは出来ない・・・・・と、言ったところでしょうか?」
まるで近藤の心を覗いたかのような言葉。
鎧を纏っていても丸裸にされているような錯覚さえ感じられ、近藤は言葉を失っていた。
「局長。目を閉じて下さい」
「えっ?」
思いがけない言葉に近藤は目をパチパチさせる。
「いいから、目を閉じて下さい」
にこり。と微笑むあかねだったが、その言葉には有無を言わせない迫力があった。
その迫力に推されるようにして近藤は素直に瞼を落とす。
「大きく息を吸って下さい。そしてゆっくり吐く。身体の中にあるもの全てを吐き出すつもりで」
言われるがまま近藤は大きく息を吸い込み、ゆっくり吐き出す。
「今、局長の目の前は真っ暗ですか?」
そう問われて初めて、近藤は顔に月明かりが当たっていることに気づいた。
「いや、月明かりで少し明るいよ」
「そうですか。ではその明かりのおかげで、目の前に広がる道が見えるはずです」
「あ、あぁ・・・」
本来なら見えるはずのない道。
だが、この時の近藤には見える気がした。
「その道は局長の後ろにも広がっています。まっすぐな一本道が・・・・・・でも今、目の前の道は別れています。2つ、いえ3つでしょうか?」
「あぁ、3本見える」
小さな子供のように素直に答える近藤に、あかねはクスリと笑みを漏らす。
「では。何も考えず、自分の感じるままに踏み出しましょう」
「えっ!?」
目を閉じたままでも驚きが伝わってくるほど、近藤の顔色が変わった。
「あなたは確かに新撰組の局長です。でも、新撰組局長だからという理由で皆ここにいるのではありません。近藤勇というひとりの男を心から慕い信じているから、ここに集っているのです。土方副長も我が兄、沖田総司も、そして他の方々も・・・・・」
凛と響く心地の良い声が、するりと近藤の心に染み渡る。
「今見えている3本の道の先にどんな未来が待っているかなど、誰にもわかりません。もしかするとどの道を選んでも最終的には同じところに辿り着くかもしれませんし、違うかもしれません。それでも踏み出さなければ何も始まらない」
あかねの手が、優しく近藤の肩に置かれる。
まるで母親のように優しく語られるその声に、近藤は何も考えず聞き入っていた。
「では言い方を変えましょう。局長は、いえ・・・・・近藤勇は、この京に何をするために来られたのですか?会津藩士になるため?それとも・・・幕臣になるため、ですか?」
「ち、違うっ!わ、わたしは!」
「この国を脅かす夷てきから大切なものを護るため、ですか?今・・・この国の天子様を脅かそうとしている輩がいると知っているのに」
「!!」
「目の前で起ころうとしている事柄に背を向けて、何を護れるというのですか?・・・・・何を護ると、いうのですか?」
あかねの声には怒りが込められているわけでも、悲しみが込められているわけでもない。
ただ静かに、淡々と事実が述べられているだけだ。
「これから起ころうとしている惨劇を止められるかもしれない力をあなたは持っている。持っているのに使わないというなら、それは力がないことより最低です。その剣は何のために握ったのです?ここに集った仲間は何のためにいるのです?・・・・・・ここで命を落としても悔いなどないと、そう心に秘めている者たちがいながら刀を抜かせないおつもりですか?その心が、その胸に秘めた志しが、命乞いでもしているのですか?」
言い聞かせるように話されるあかねの言葉に、近藤は身じろぐことなくジッと聞き入りやがてゆっくりと瞼を上げる。
「わたしは国のためにと京へ上った。それが揺らいだことはない・・・・・・・・目の前で泣く人がいるとわかっていながら動かないのなら、何も出来ないのと同じ・・・・・・目に見えるものを守れなくて国を護れる筈もない・・・・・・・か。・・・・・・ありがとう。さっきまで迷っていたのが嘘のように道が開けた。いや、進むべき道が見えたと言うべきかな?」
決意に燃える近藤の瞳には力が込められている。
もはや迷いはない。
それを見届けたあかねもまた、嬉しそうにフワリと笑う。
「よい顔つきをされています。それなら心配はなさそうですね」
「あぁ。もう大丈夫だ。君には・・・助けられてばかりだね」
「いいえ。これは局長自身が自分のお心に従われただけのこと。私は何もしていません」
向かい合ったふたりの視線が重なる。
「いや。それでも気づかせてくれたのは、やはり君だよ。ありがとう」
「ではもうひとつだけ・・・・・・。人数で負けるのなら、それを補うだけの気迫を持てばいい。それが大きな勝算となりましょう。自分たちが正義で、正義が負けるはずはない。負けるはずがないのなら、答えは簡単。勝ちしかない」
にこりと勝気な笑みを見せるあかねに、近藤は思わず笑い声を上げる。
「ははは。凄いな、君は。本当に勝てる気がしてきたよ」
「その意気です。それでこそ、新撰組局長です。あなたが勝つと信じれば、その背中を見て戦う隊士たちの士気も上がります」
扉の向こうで聞き耳を立てていた土方もまた、安堵の息を漏らしその場から離れる。
その気配に気づいたあかねがチラリと視線を流し、そっと笑みを浮かべる。
「では早速出陣の準備に取り掛かろう・・・・・・っと、もうひとつ。君に頼みたいことがあるのだが」
「はい。なんなりと」
「では・・・・・・・・・」
そう言ってあかねに耳打ちする近藤の顔は侍そのものだった。
そして。
近藤の言葉に耳を傾けるあかねの顔は、忍びの、暗殺者の、顔つきに変わっていた。