第百九話
鞍馬に戻ったあかねを待っていたのは。
師匠からの厳しい命令だった。
『今度こそ玄二を仕留めよ。2度目の失敗は認めない』
そうハッキリと言い放つ養母の表情は、鞍馬の長そのもので・・・・・あかねは反論することはおろか、断ることも出来ず・・・・・ただ頷くことしか出来なかった。
あかね自身もわかってはいたことだ。
『裏切り者には粛清を』
それは里の掟として当然のこと。
そして。
後を継ぐと決めた時。
避けては通れぬ道だと、覚悟していたはずだった。
(わかってた・・・こうなることは。覚悟も・・・していた、はず・・・・・・だけど。実際に口に出されて言われると・・・・・思っていた以上に堪える・・・・・もう、逃げ場はないと・・・・・ハッキリ示されたようで・・・・・・いや、示された・・・のか)
山を下りると同時に。
あかねの心も沈んでいく。
変わらない結末。
変えることが出来なかった未来。
それが重く背中にのしかかる。
(知っていたはず・・・・私は・・・この重圧も、未来も、全て)
それでも、ざわつく心は静まらない。
屯所へ真っ直ぐ戻る気にはなれず・・・・・・かと言って里に留まる気にもなれない。
その重い足取りは、知らず知らずの内に・・・・・・。
山の中腹で歩くことをやめてしまっていた。
闇しかないその場所で。
聞こえてくるのは、止め処なく流れる川のせせらぎと、時折強く吹く風の音。
そして風に凪ぐ木々のざわめき。
誰の気配もしないその場所で、あかねはひとり目を閉じる。
(今こそ、鬼とならねば・・・・・・)
人であれば迷うのは仕方のないこと。
迷うからこそ、人なのだ。
だが、自分は。
里を護るため。仲間を護るため。帝を護るため。和宮を護るため。兄を護るため・・・・・・。
そのために生きてきたのだ。
その信念に変わりはない。
たとえ相手が共に育った仲間だとしても。
敵であるというのなら。
人だから迷うのなら。
鬼になれば良いだけのこと。
今がその時。
覚悟を決める、その時だ。
「私は鬼になる。今この時、この瞬間をもって・・・・・。私は・・・鬼となる。もう、迷わない」
ゆっくり、ゆっくりと。
自分自身に言い聞かせるように。
ハッキリと声に出す。
自分だけの儀式。
自分とだけ交わした約束。
鞍馬の山に生きる全てのものへ誓い。
耳に残る自分の発した声が、闇に吸い込まれていくのを感じる。
それが不思議とあかねの気持ちに区切りをつけた。
「大丈夫。私は・・・・・もう、大丈夫」
そう呟き、ゆっくり目を開ける。
瞳に映る景色は何も変わっていない。
先程と同じ闇と音。
ただひとつ、違っていたのは。
目を開けたと同時に。
雲に隠れていた月が顔を出し、優しい光であかねを包み込んだことだけ。
まるで、あかねの誓いを聞き届けたとでも言うように。
優しく照らす月明かりを受けながら、あかねの心は少し軽くなっていた。
それが道標となったのか。
それとも。
「大丈夫」と言った自分の言葉が、心を落ち着かせる呪文にでもなったのか。
それはあかねにもわからなかった。
ただ、ざわついていた心が静けさを取り戻していた。
それを確認するかのように。大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐く。
自分の中にある『人』の部分を全てこの場に捨てていくかのように。
ここで新しく生まれ変わり、今までの迷ってばかりだった自分と決別するかのように。
何度も何度も繰り返し。
思い出も、未練も、全て。
ここに置いていくつもりで。
そして。
6月4日の朝が明ける。
深夜のうちに屯所へ戻ったあかねは、翌朝何事もなかったようにいつもの笑顔で隊士たちの食事を用意していた。
何かがあったのだろうと思っていた総司は、少し拍子抜けしてはいたが。
あえて何も聞かずに過ごすことを決め、銀三もそれに従うことにした。
里のことは全くわからない総司に比べ、わかっている銀三の方はある程度の見当がついたのだが・・・・・・。
それでも吹っ切れた表情を見せるあかねに、何も問うことが出来なかった。
それぞれの想いを交錯させながら夜を迎えた新撰組屯所だったが。
事態は一変する。
それは。
山崎丞からの火急の知らせが飛び込んだからだ。
山崎との連絡係をしていた隊士が転がるようにして近藤の部屋の扉を叩き、急変を告げる声が八木家の別棟に響き渡った瞬間。
新撰組にとっての長い1日が幕を上げる。
「お休み中に申し訳ありませんっ!山崎さんから急ぎの伝言を預かって参りましたので、お届けに上がりましたっ!」
近藤に向けて発せられた言葉であったが、決して小さな声ではない。
その証拠に土方や山南は慌てて部屋を飛び出していたし、総司でさえも眠そうに目を擦りながら廊下に顔を出している。
「ご苦労」
「はっ」
近藤は隊士が差し出す書状を受け取りすぐさま目を通し・・・・・・。
その顔つきは読み進むにつれ、険しさを増していく。
「これ、は・・・・・っ」
「な、なんだ?山崎はなんとっ!?」
言葉を詰らせる近藤を急かすように土方が詰め寄る。
「夜明けを待って、桝屋の主をしょっ引く」
「っ!?てぇことは?」
「あぁ・・・・・証拠を見つけた」
「!!」
顔を上げた近藤の瞳には闘志が宿り、それを肌で感じた土方は隣でそっと不敵な笑みを浮かべた。
『大きな喧嘩が始まる』
そう思うだけで気持ちが高揚するのがわかる。
『今、表舞台に繋がる階段の・・・・・・頂上がやっと見えた』
顔を上げた土方の瞳に、漆黒の闇に浮かぶ月だけが映る。
「朝の巡察は誰だ?」
「確か・・・・・・武田さん、だったかと」
武田の名を聞くなり土方は、眉を顰めて舌打ちした。
「チッ、よりにもよって・・・あの男好きかっ」
「トシ・・・・・それではただの悪口だ」
苦笑いを浮かべた近藤に諭され、土方はコホンと咳払いをする。
「まぁ、いい・・・・・・即刻、叩き起こせっ!ついでに幹部全員もだ」
「承知!」
土方の命を受け、走り出したのは総司だった。
つい先程まで眠そうにしていた顔とは打って変わって、そこにあったのは侍としての顔つき。
いつもの呑気な表情とは違い、高揚していることが見てとれる。
「総司にしては・・・いい顔つきしてやがるぜ。まったく、いつもあぁなら・・・あ、いや。今はそれどころではないな・・・・・今巡察に行ってるのは、確か・・・・・・斉藤と藤堂だったな・・・・・・おい、あかねは?あかねはどうしたっ?」
「おや?そういえば姿を見ていませんね」
「・・・・・・まったく、こんな時に」
ブツブツと愚痴る土方に、山南がさらりと言い放つ。
「こんな時、だから・・・・・いないのではありませんか?」
「!!・・・・・・まぁ、いい」
あかねの正体を知っているかのような山南の言葉に、土方は不機嫌そうに言葉を濁らせる。
自分たちが大坂にいる間。
2人の間には妙な信頼関係が出来上がっていた。
隊士の脱走やらなんやらで、2人の結束が強まったのは当然だろう。
だが、そう思うと何故か苛立つ自分の心。
土方はその気持ちを持て余し、そっと唇を噛みしめる。
「山崎くんの報告では、多数の武器・弾薬を桝屋の蔵で発見したとある。しょっ引いた桝屋が簡単に口を割るとは考えにくいが・・・・・・のんびり事を構えている場合ではないな」
山崎からの文を読み返していた山南の『口を割らない』という言葉に、土方は口の端を上げた。
「あぁ・・・・・・そっちはどんな手を使ってでも、俺が割らせてみせる。隊士たちにはいつ出陣になってもいいよう、準備をさせよう」
そう言って顔を上げた土方の瞳が、月光のせいかギラギラと怪しい光りを放つ。
「コトの次第によっては、会津や京都所司代に援軍を頼まねばならんことになるな」
腕を組み考え込んでいた近藤が言葉を漏らすと、山南は深く頷いた。
「そうですね。では伝令に走らせる者を見繕っておきましょう」
「えぇ。そちらはお任せしますよ、山南さん」
夜が明ければ。
新撰組にとっての大舞台が幕を開ける。
尊王。
左幕。
攘夷。
多くの思想の元に揺れ動いてきた新撰組。
今、新たな一歩を踏み出そうとしている。
その先に待ち受ける未来が、どんなに過酷であっても。
それもまた、運命だと受け入れる覚悟で。