第九十九話
元治元年 5月14日
大坂に着いて初めて休みを貰えた銀三は、ただボンヤリと淀川の流れを眺めていた。
あの日。
忍び込んだ米問屋で見聞きしたことは、一部を除いて近藤に報告した。
町奉行与力と米問屋が繋がっていて、私腹を肥やすために米の値を吊り上げていること。
問屋の主人が長州贔屓の商人で、黒幕には長州が関わっていると思われること。
そこまでは全て話した。
あと必要なのは町奉行の与力を追い詰めることが出来る、確かな証拠だけ。
今のままではシラを切られ簡単に逃げられてしまう。
だが、銀三にとってどうでもいいことだ。そんなこと新撰組に任せておけばいい。
銀三の心を支配しているのは、この件に関わっている彼。
そう・・・・・・義兄弟である玄二のことだ。
米問屋にいた玄二は、もはや自分の知る兄ではなかった。
今まで尊敬していた兄の豊富な知識も、その手腕も、敵となった今では全てが厄介としか言い様がない。
何よりも。
見ている未来が正反対になってしまったこと、それが銀三の心に突き刺さっていた。
自分の中で微かに残っていた希望の光。
それがあの時。見事に消え去った。
― もはや、敵でしかない ―
新撰組に身を置く自分にとってはもちろんのことだが、鞍馬の里の者にとっても今の玄二は敵だ。
大坂で暴動を起こし、それに乗じて京に上り、朝廷を抑える。
長州というひとつの藩では成しえない大それた計画だとしても、裏で玄二が指揮を取っているのなら・・・・・・有り得ない話しではない。
それだけの才能も力も持つ男なのだ。
「地獄にでもいるかのような顔だな」
ふと頭上から降り注ぐ聞きなれた声に、銀三はドキリと顔を上げる。
「頭領・・・・・・」
どこからともなく姿を現した半蔵に、銀三は凍りついたままの表情を向ける。
「なんだ・・・本当に地獄でも見たか?」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
言葉を失ったままの銀三。
半蔵はその氷のような横顔から視線を外し、静かに流れる河に顔を向けた。
(流れる時間は止められない、か)
ふと、そんなことを考えながら半蔵は低い声で告げる。
まっすぐに前を見据えたままで。
「・・・・・・これから玄二を押さえに行く。明後日には大坂を発つから、もう時間も残っていない。今夜カタを付けに行く」
「っ!!」
銀三が息を呑む気配を感じながらも、半蔵は淡々と言葉を放った。
「真実とは。時として知らぬ方が幸せなこともある。知らずにいれば苦しむこともないからな・・・・・・・玄二を慕っていたお前の気持ちもわかる。だが、知った以上お前が知らぬ顔を出来ないことも知っている・・・・・・選ぶのはお前自身だ。元々俺はひとりでも行くつもりだったから・・・・・・無理に、とは言わない」
空を仰ぎ見る半蔵の横顔には、清々しいほどの自信が溢れ出ているように見える。
(あぁ・・・・・・・本当に、この人は・・・・・・・)
半蔵の横顔を見つめながらも、銀三の心は少しずつ晴れていく。
白い霧に包まれていた自分の心。
霞んで見えなかった目の前に・・・・・・見るべき世界、進むべき道が、広がる。
「・・・・・・・頭領はずるいです。そんな言い方をされて・・・・・・行かない。など言える筈がない。それを見越してそんなことを聞くのだから、性質が悪い」
ぽつり、ぽつり、と恨めしそうに言う銀三。
それはあかねの前では決して見せない子供のような表情だった。
「馬鹿言え。お前の性格を知り尽くしているからこその愛情だろ?・・・・・・辛いことは、俺のせいにすればいい。弟ひとりの心すら守れなくて、兄とは云えまい?」
明るく言い放った半蔵が、スッと手を差し出した。
「守って貰ってばかりじゃ、いつまでたっても俺はあなたを超えられない」
差し出された手を強く握り返し立ち上がる銀三。
その手の大きさも、温かさも、何一つ変わってはいない。
そのことに安心したのか、銀三の表情は少し和らぐ。
「んなことじゃ、いつまで経ってもあかねは任せられねぇな」
「ムッ。それとこれとは話しが別ですっ!」
「別なもんか。俺すら超えられないお前に・・・・・たとえあかねが惚れたとしても、だ・・・・・俺は絶対認めねぇ。そん時は抹殺でも暗殺でも、どんなことでもしてやるさ」
はっはっはっ。と豪快に笑い飛ばす半蔵。
「本気でしそうですね」
恨めしそうに見上げる銀三に、半蔵はあっけらかんと答えた。
「当たり前だ。俺は執念深いからな」
「・・・・・・・・・頭領がモテない理由がわかりましたよ」
「っんだとっ!?お前だけには言われたくねぇぞ」
「どういう意味ですかっ」
つい先ほどまで死にそうな顔で悩んでいたとは思えないほど、銀三の顔には覇気が戻っていた。
それを感じた半蔵がパシッと銀三の背中を叩く。
「いっ、てぇ!」
「ひとりで抱え込むんじゃねぇよ、子供が。なんのための仲間だと思っていやがる?何のために俺がいる?そういうところが『まだまだ』だってぇの!」
そう言い残して先を行く半蔵の背中を、銀三は三歩遅れで追いかける。
少しヒリヒリと痛む背中を撫でながら。
いつまでも追いつけない兄の背中。それでもいつかは越えたいと思う背中。
思えばいつも自分の前には誰かの背中があった。
いつか自分も。誰かをこの背で守れる男になれるのだろうか?
ふたりの兄たちのように。
同じ頃。
京で留守番をしているあかねの元に、ひとつの有力情報が入っていた。
『玄二が大坂にいる』
その事実にあかねはひどく動揺していた。
告げに来た朱里が後悔するほどに。
「だ、いじょうぶ・・・ですか?」
「あ、うん。大丈夫。少し驚いただけ、だから」
そう答えるあかねの顔は青さを通りこし、白くなっている。
少しでも気を抜けば倒れてしまうのではないか、と思えるほどだ。
「それ、で?何のために大坂に?まさか、公方様を!?」
「いえ。直接何かをするつもりはないようです。ただ・・・・・・」
「ただ?」
「資金集めのためかとは思いますが・・・・・・大坂の米問屋と町奉行の与力に近づいている様子で、ここのところの米高騰に関わっているのではないかと思われます」
「!!それじゃ、新撰組と一戦交えるかもしれないって状況!?」
「・・・・・・・まぁ、そうなりますね。最悪の場合、ですけど」
「それはまずいっ!玄にぃと剣を交えて勝てる見込みなどっ!!」
今にも飛び出そうとするあかねの腕を、朱里が寸でのところで掴む。
「お待ちくださいっ!」
「なにっ!?」
「行ってはなりませんっ!今のあなた様では勝てませぬっ!!」
「なっ!?」
「その心の乱れ、隠せるとお思いですか?そのような状態で向かったところで、あの方には勝てませぬ。今回はお引きくださいっ!!幸い、今あちらには半蔵様も銀三殿もおられます。わたしの耳に入るぐらいですから、おふたりもご存知のはず。ここはおふたりに任せるべきですっ!!」
今までにない強い口調。そして強い力。
ここまでさせてしまうほど、自分は乱れていたのかとあかねは実感していた。
「何より。わたしはあなたを死なせる訳にはいきませぬっ!あなたを失えばわたしは誰を目指せばいいと言うのですかっ!!死んでも・・・・・・たとえ、あなたにここで殺されたとしても・・・この手は離しませんっっ」
泣き声に近い叫び。朱里の心の声。直接心に触れたような錯覚になるほど、素直な言葉だった。
「・・・・・・朱里。ごめん・・・・・・心配させて、ごめん」
「あ、かね・・・さま」
「ありがとう」
今にも泣き出しそうな顔をする朱里の震える身体に、優しく腕をまわす。
その背中を撫で『ここにいる』ことを実感させると、安心したのか朱里は子供のように泣きじゃくり何度も「すみません」と繰り返した。
いつも見せる強気な視線も、負けん気の強さも取っ払って。
ただただ。幼子が母親に甘えるかのように泣き続ける朱里を、あかねは何も言わず抱きしめる。
傷ついているのは自分だけではない。
動揺しているのも自分だけではない。
これ以上。
仲間を失いたくないと思っているのは皆同じ。
人の上に立つ者として、己の感情だけで事を急いではいけない。
どんなときも冷静にならなければならない。
でなければ、多くの犠牲を払うことにもなりかねない。
そんな簡単なことを、感情的になって忘れてしまっていた。
「早まるな」と言った半蔵の言葉が甦る。
その言葉を何度も心の中で繰り返し、あかねは朱里を抱きしめる腕に力を込めた。
「ごめんね」と呟きながら。