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薄いカーテンを通して明るい日差しがるうかの顔を照らす。それに加えて天井からの明るい照明が眩しくて、やがて寝ていられなくなったるうかはぱかりと目を開いた。見知らぬ白い天井をぼんやりと見上げながら、さてこれはどういう夢だったかと思いを巡らせる。やがてそこが現実の病室の中であることを思い出した。少し身体を動かすだけでぎしぎしと軋む簡易ベッドの寝心地は決していいとは言えないが、それでも清々しい目覚めである。長い長い緊張感から解き放たれた気分でるうかはよいしょと身体を起こした。
そこで嬉しそうにこちらを見ている灰色の眼差しと目が合った。
「おはよ」
「あ……」
病室の中央に置かれた白いベッドに腰掛けて、普段着に着替えた頼成がこちらを見ている。点滴の針はすでに抜かれ、その他色々つけられていた線や管も全て外されていた。短い黒髪には少しだけ寝癖がついているが、とても元気そうな笑顔がそこにある。るうかは思わず涙ぐんだ。
夢の世界で助かったのなら現実でももう大丈夫だろうとは信じていた。しかしこうして実際に元気になった頼成の姿を見ると途端に色々な感情が押し寄せてきたのだ。るうかはそのまま簡易ベッドから降りようとして、足がもつれて前に転んだ。「わ!」と慌てた声と共に頼成がその身をるうかの前へと差し出す。彼にもたれかかるような格好になってしまったるうかは激しく赤面しながら、それでもまじまじと彼を見つめた。
「槍昔さん、生きてますね」
「おお、生きてますとも」
「どこも動かないところとかないですか。痛いところとか辛いところとかないですか」
「大丈夫です。血圧心拍呼吸歩行全部問題なしってことでさっき看護師さんが全部外していってくれました」
あんたがぐっすり眠っていたから起こさないでおいたんだよ、と彼は目つきの悪い瞳を優しく細めて言う。その不器用な笑い方が何故だかとても嬉しくて、るうかはぎゅっと彼に抱きついた。
「……良かった」
それだけを言ったるうかの頭を頼成が右手でよしよしと撫でる。そして彼の左手はるうかの背中に回され、しっかりと彼女の身体を抱きしめた。そこまでしておいてから頼成はしれっとした調子で言う。
「なぁ、こういうのもう夢の中でやらなかったっけ?」
「……もうあんなに泣きません」
「たくさん泣かせたな。ホント、俺ってひどい男ね」
「そんなでもないと思います」
「そう?」
「多分」
るうかの曖昧な答えに、頼成は「そっか」と言いながら子どものように顔全体で笑った。そうしてそのまま右手でるうかの頭をしっかり押さえると、何の前触れもなくその唇を奪った。まさに奪われたと表現するのが正しいと思われる唐突さと強引さで、るうかには何の抵抗もできない。時間にしてほんの数秒の出来事であり、唇を触れ合わせただけの軽いキスだったが、それでもるうかの受けた衝撃は相当のものだった。唇を離した頼成は何とも満足そうなしたり顔でこんなことを言ってのける。
「モテない男にもそれなりに意地というもんがありますから」
「……え……っと、どういう意味ですか」
「されっぱなしじゃ収まらないってこと」
それが昨日の彼の部屋での出来事を差しているのだと気付いて、るうかはますます顔を赤くした。
「あれはその、なんかもうたまらなくって!」
「るうかー、それ以上慌てると多分墓穴掘るからちょっと落ち着いた方がいいぞ」
「そう言えばどうしていつの間にか名前で呼んでるんですか」
「あ、ここ病院だからもうちょっと静かに」
「質問に答えてください……」
るうかが恥ずかしさのあまりに身を震わせながらそんな懇願をしたとき、病室のドアががらりと開いた。
「頼成、会計してきたからそろそろるうかちゃん起こして……あ、ごめんいいところだった?」
「……佐羽、ホントお前いっつも邪魔」
頼成のドスの効いた声と元々悪い目つきにさらに睨みを足した鬼のような形相がさすがの佐羽をも少しだけたじろがせる。しかしそこは佐羽も負けていない。
「公共の場所でいやらしいことしようとしてた君達が悪いんですー」
「してねぇよ。大体兄妹っていう設定にしたのてめぇだろうが。看護師さんから“可愛い妹さんですね”って言われた俺の身になってみろ」
「あらー、それは情けないねぇ」
「あとではっ倒すからな」
そう言いながら頼成はるうかの身体を支えて立ち上がらせる。佐羽にからかわれていてもその仕草はとても丁寧で優しい。だから困るのだと、るうかは赤い顔を俯けてひたすらに耐える。
これまで異性になどさしたる興味もなかった。それこそ小学生から中学生にかけて、少女漫画を読んでそこに描かれた恋愛に少しばかり憧れた時期があったくらいで、高校生にもなればそんな熱もどこかへいってしまっていた。通う高校は共学校であるがクラスの男子とそれほど親しく会話をした覚えもないし、話しかけられた覚えもない。同性の友人といる方が気楽で楽しかった。それで充分だと思っていたのに。
こうなってはもう頼成のことを男性として意識しないではいられないではないか。これだけ大切にされて、自分でも彼のことを大切に思って、夢の中でのことではあるが命まで懸けようと思った。それでどうして恋心を抱かずにいられようか。
状況に流されている気がしないでもない。頼成からの情熱に押し切られそうになっている気もしないでもない。しかしそれ以上にるうかの心が彼を欲していた。
ただし、もうしばらくの間は黙っておこうと。そうるうかは心に決める。もう少し冷静になって自分の心と向き合ってから、それから改めて考えることにしよう。それまではこれまでのように同じ夢の中で過ごせればそれでいい。るうかはそこまで考えてやっと顔を上げたのだった。
退院手続きはもう済んだとのことで、結局頼成は軽く1泊しただけで病院を出ることになった。なんでもあの総合病院は柚木阿也乃の息のかかった施設らしく、大抵の無理は通るらしい。阿也乃とは一体何者であるのかますます分からなくなるところではあるが、それ以上のことは頼成達も知らないという。というより知らない方が安全だろうから敢えて知りたくないとのことだった。それでるうかも納得する。
佐羽の運転する車で彼の、というより阿也乃の家に着いたるうかと頼成はそのまま中に入るよう勧められた。なんでも頼成の快気祝いの準備をしてあるからということだったが、昨日の今日でどうして準備ができるのかと不審に思うところである。正面入り口はアルミフレームのガタついた扉に“関係者以外立ち入り禁止”という札のかかっているふざけたビルだが、その裏手には頑丈そうなガレージがあった。半地下になっているそこに危なげなくバックで車を入れ、佐羽は「そこから入れるから」とるうかに向かってガレージ内のドアを指差した。正面玄関よりよほど普通のドアである。
佐羽が運転していた阿也乃のものらしいダークシルバーのスポーツセダンの隣には緑と銀色の大型バイクが停められていた。気付いた頼成が首を傾げながら佐羽に尋ねる。
「おい、このバイク誰の? 見たことない」
「……それがねぇ。ま、中に入れば分かるよ」
佐羽が明らかに面倒くさそうにそう答えたので、るうかと頼成はとりあえず中に入ることにした。数段の階段を上ってもう1枚の扉を開けると、そこは以前にも来たことのある1階のリビングである。建物の外観からは想像できないほど整っていて落ち着いた空間、その奥にあるソファセットのテーブルの上には色とりどりの料理が並べられていた。目にも鮮やかな魚介のカルパッチョやみずみずしいレタスとはち切れんばかりに熟れたミニトマトを使ったサラダ。それにスモークチキンやローストビーフの盛り合わせが大皿でどんと置かれている。なんだこりゃ、と頼成が呆れた声を出した。
「だから、快気祝いだってば」
佐羽が呆れた様子でやや目を逸らしながら言ったその時、奥のドアがぱんと開いて向こうから大きな皿に載せられたホールケーキが入場してくる。いや、正確にはケーキの皿を両手で持った長身の青年がにこにこしながら部屋に入ってきたのだ。るうかと頼成はその青年を見てあっと声を上げた。
「頼成くん、退院おめでとう!」
そう言いながら彼はケーキの皿をテーブルの中央に置く。長身の頼成よりさらに10センチメートル程度背の高い彼は鮮やかな緑色の髪をしていた。その目は黒く、明るい黄色のエプロンを身につけてはいるものの、髪の色はどうにも誤魔化しがきかない。「あんた……」と言ったきり言葉の続かない頼成に代わってるうかが彼に尋ねた。
「もしかして、緑色の魔術師さんですか」
そうだよ、と緑色の青年はにっこりと笑って答える。それから改めて気が付いたように真っ直ぐに立つと、笑顔のままるうか達に向かって一礼した。
「春国大学工学院情報科学科修士2年の西浜緑です。よろしくね!」
「……は!? うちの院生!?」
開いた口が塞がらない頼成の横で、「実はそうなんだってさ」とふてくされたように佐羽が言う。さらに彼の説明したところによると緑色の魔術師……その名も見た目通りの緑という青年はどうやらずっとこの阿也乃の家に住んでいたとのことだった。彼は3年前の事件以来佐羽に気を遣ってなるべく顔を合わせないようにしていたのだという。頼成はその頃までこの家に住んでいたが事件後に独り暮らしを始め、佐羽自身も家に帰らない日が多くなっていたためこれまで気付かずにいたらしい。それにしても拍子抜けする話だった。
そしてるうかはというと、これまた別のことに気を取られていた。春国大学はこの辺りでは知らぬ者のない難関総合大学である。頼成も佐羽も、そして緑もそこに通う学生だという。どうしてこう優秀な者ばかりが揃っているのだろうか。そしてただの平凡な成績の高校生である自分がどうしてここにいるのだろうか。るうかはこっそりと溜め息をついた。こうも頭のいい人達に囲まれるのは少しばかり居心地が悪い。
一方頼成は気を取り直したらしく緑に向かって色々と質問している。その目はどうしたのかだとか、その髪で学校に行っていて問題はないのかだとか、割とどうでもいいことではある。それでも緑はいちいち彼の質問に答えていた。曰く、目は黒のカラーコンタクトレンズを入れていて、髪は大学に入学した当初から「大学デビューです!」と言い張って押し通したらしい。いちいち染めるのも面倒だからというのがその理由だった。つまりやはりその緑色は地毛だということだ。
「今日は阿也乃が用事で出かけなきゃならないっていうからさ。だから僕が代わりにみんなをおもてなししようと思って」
そう言って屈託なく笑う緑は少しばかり照れているようだ。3年前も今回も事件そのものは解決し、彼と頼成達との間にあったらしいわだかまりもほとんど解消されたのだろう。佐羽はまだ少し気にしているようだが、緑の方から距離を縮めようとしている様子を見ているとそのうち何とかなりそうである。そしてるうかはと言えば、昨夜夢の中で緑に告げた言葉の通りだ。彼に対しては感謝こそすれ、覚えてもいない昔のことをとやかく言うつもりなどない。
そのうち緑がケーキを切り分け始め、佐羽は小さく溜め息をつきながら飲み物を用意しに奥へと消えた。頼成は料理の取り皿を持ってきて、るうかは切り分けられたケーキを皿に乗せるのを手伝う。驚いたことに、これらの料理はすべて緑が早起きして用意したのだという。昨日は研究があって帰りが遅かったとか何とか言っていた割に随分まめなことだ。頼成がその辺りを指摘すると、彼ははにかむように笑った。
「だって、僕も本当に嬉しかったから。何かお祝いしたくなっちゃったんだ」
「あんたって人は……そうやってると“緑色の魔術師”の貫録がまるでなくなるな」
「あはは」
黄色いエプロンを畳みながら笑う緑は、確かに凄腕の魔術師には見えなかった。
執筆日2013/11/10




