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彼は手に持っていた紙束を取り落とし、まるで幽霊を見るような顔で頼成を見た。
「お前……」
呟いたきり後が続かない白銀の髪を持つ彼、輝名に向かって頼成は足元から拾い上げた紙束を差し出す。
「おいおい、しっかりしろよ大神官代行様。こんなことになって、神殿の再建はあんたにかかってんだろ?」
夕刻も近くなった頃、るうかと頼成、そして佐羽の3人はアッシュナークの神殿に足を向けていた。何しろあんな事件があった翌日である。後始末には人手が必要だろうし、何より頼成の無事な姿を見せようとこうして顔を出したわけだ。
ただの神官ではなく鼠色の大神官代行という肩書を持っているらしい輝名は神殿の中で忙しそうにあちこちへ指示を飛ばしていたが、頼成の姿を一目見るなり一瞬完全に仕事を忘れたようだった。やがて彼はばつの悪さを取り繕うようにしかめ面をしながら紙束を取り戻す。
「運のいい奴め」
「そうだな。俺には最強の女神がついていたんだよ」
「フン、言ってろ。緩んだ顔しやがって、気色悪い」
「そんなこと言っている割に、輝名もちょっと目が潤んでいるよね」
素直じゃないんだから、と佐羽が笑う。輝名は確かに少しだけ潤んだ青い瞳で思い切り彼を睨みつけた。
「昨日のことは感謝しているが……てめぇは本来ここに立ち入ることのできる立場じゃねぇんだぞ。そのことを忘れるなよ、黄の魔王」
「勿論分かっているってば。でも輝名1人でここのシステムを立て直すのは無理があるんじゃない? せっかく育てた神官も全員いなくなっちゃったわけだし、現実に神殿の仕組みそのものは瓦解している」
そう言って佐羽はぐるりと神殿の内部を見回した。鼠色の石で造られた建物は厳かではあるが、その役割をほとんど失った今ではただの箱のようなものだ。
「鼠色の大神官はこんな時でも代行の君に任せきりなの?」
「……そうやってこっちの内部事情を聞きだそうっていう寸法か?」
輝名はにやりと口元を歪めた。その表情には先程までのような親しみも油断も全く見当たらない。
「お生憎だな、黄の魔王。てめぇは鈍色の大魔王の手先じゃねぇか」
「嫌だなぁ、そんなつれないこと言って。俺だって昨日は死ぬ思いで戦ったんだよ?」
「あとで充分に報奨金をくれてやる」
「お金も勿論欲しいけどねぇ。そういうことじゃないんだよ、分かるでしょ?」
ずい、と佐羽は輝名に顔を寄せる。そして彼は少しだけ困ったようにふんわりと笑った。
「君が嫌なら、俺は何も手を出さない。表立っては、ね」
「……どういう意味だ」
「各地に散らばっている神官。放っておけば“天敵”になりかねない者の居場所、現在の健康状態、その他もろもろの情報をこちらは把握している。伊達にあちこち渡り歩いているわけじゃあないからね。それを集めて管理すれば、神殿の仕組みはとりあえず復活できる」
それがいいことだとも思わないけれど、と佐羽は言った。輝名は驚愕の目つきで彼を見て、それから小さく舌打ちをする。
「魔王め」
「うん、そうだよ?」
「……で、見返りは?」
「それなんだけどね」
再び佐羽はふんわりと笑う。そして彼は輝名の耳に自分の顔を寄せて何事か囁いた。輝名の顔が一瞬驚きに歪み、それから彼は堪えきれなくなったように笑い出す。
「そんなことを、てめぇの口から聞くとはな……頼成ならともかく」
「頼成はこういう裏取引には向かないからね」
2人の会話に、名前を出された頼成が怪訝そうな顔をした。輝名はそんな頼成と、そしてるうかを見ながら奇妙に優しい笑顔を浮かべる。
「分かったよ。おい、勇者るうか」
名前を呼ばれて、るうかは首を傾げながらも「はい」と返事をする。輝名はそんな彼女に向かって何やら偉そうな態度でこんなことを言った。
「昨夜の“天敵”討伐における功績に報い、鼠色の大神官領土内での勇者るうかの身分を保証し、身柄の安全を保障する。また、勇者るうかは領土内において一切通行の制限を受けないことを約束する。ついでだ、もし路銀に困るようなことがあれば俺の名前でつけておけ。お前にはそれくらいしてやってもいい。それくらい、感謝しているからな」
るうかも驚いたが、隣に立っていた頼成はもっと驚いていた。元々佐羽と行動を共にしている以上、彼にしろるうかにしろ鈍色の大魔王側の人間として扱われるはずなのだろう。そもそも、るうか自身が彼女……柚木阿也乃によって作られた勇者なのであるから間違いなく大魔王側の勢力である。それがるうかだけとはいえ鼠色の大神官代行から領土内での身分保証等の優遇措置を受けられることになったのだ。これは勇者としてその血を狙われかねないるうかにとってはとてもありがたいことだった。この地域での神殿の権威がどれほどのものかはよく知らないるうかだが、輝名の様子を見ているとそれは決して小さなものではないのだろう。頼成の驚きようからもそれが窺えるというものだ。
「そんなこと……本当にいいんですか?」
思わず尋ねたるうかに、何故か横から佐羽が「いいに決まってるじゃない」と返す。輝名も特に反論しないところをみると本当にいいのだろうが、るうかには何と言っていいのかよく分からなかった。代わりに頼成が輝名に向かって頭を下げる。
「悪いな、輝名。恩に着るわ」
「……てめぇに礼を言われる筋合いはねぇ。大体、それはこっちの台詞だろうが」
「それこそ必要ないっての。俺が勝手にやったことだ」
「強情な奴だな」
「お互い様だろ?」
頼成の灰色の視線と輝名の淡い青色の視線が交差する。見ていた佐羽がるうかにだけ聞こえるようにこそっと耳打ちした。「ね、なんかこうやって男同士見つめ合ってるのって気持ち悪いよね」と。途端に輝名がじろりと佐羽を睨む。
「おいこら、聞こえてるぞ」
「わぁ、地獄耳ー」
そう言ってあははと声を立てて笑うと、佐羽は黄色がかったローブの裾を翻しながら楽しげに神殿を出ていってしまう。輝名が呆れ返ったように息を吐いて、それから改めてるうか達へと向き直った。
「佐羽の奴、はしゃぎやがって。よっぽど嬉しかったみてぇだな」
「槍昔さんのこと、すごく心配してましたからね。とってもホッとしたんだと思います」
「まぁ詳しくは聞かねぇが……」
そう言うと輝名はおもむろにるうかの頭に手を載せた。
「やるじゃねぇか。お前は本物の勇者になれるぜ」
「……えっと、どういう意味ですか?」
「ただ“天敵”を倒すだけじゃねぇ。この世界を守るような存在になれるだろうって意味だよ」
輝名はそんなことを言って、とても機嫌良さそうに笑った。それから頼成が何か手伝うことはないかと聞いて、お前はいいから休んでろと優しい口調で怒鳴られる。
「一晩以上石になって固まっていた奴に仕事なんて任せられるか。おい、るうか。もし時間があるならちょっと手伝ってくれ」
「あ、はい」
「え、おい!」
頼成が文句を言う声が聞こえたが、るうかは彼を無視して輝名についていった。輝名は少しだけニヤニヤと笑いながらるうかを引きつれて神殿の奥に向かう。
「お前も冷たいな。少しは愛想よくしてやったらどうだ?」
「槍昔さんにですか?」
「あいつ、絶望したような顔でお前を見送ってたぜ?」
「……正直、どんな顔していればいいのかよく分からないんです」
地下へと降りる階段を下りながら、るうかは胸の内を少しだけ輝名に明かす。自分を大切にしてくれる頼成をとても頼りに思っていること。彼を助けることができて本当に嬉しかったこと。そして改めて彼と向き合ったときに、自分が一体彼をどう思っているのかがよく分からなくなってしまったこと。
「そんなこと言ってる場合じゃないのは、分かってるんですけど」
“天敵”となってしまった神官達によって、地下は無惨に破壊されていた。白く清潔な壁には大きな穴がいくつも穿たれ、鍵のかかった扉はその全てが原型を留めていなかった。全てが終わってしまったその場所を歩きながら、輝名は喉の奥で小さく笑う。
「そのうち分かるさ、心配するな」
「……そうでしょうか?」
「ああ。大体あいつはお前を3年も待っていたんだろ? もうちょっとくらい待たせておけばいい」
なかなかに残酷なことを言って、輝名は破壊された白い廊下の突き当たりまで足を進めた。それにしても彼は頼成達のことをどれだけ知っているのだろうか? 少しだけ不審に思いつつもるうかは彼の隣で足を止める。
そこには他とは異なる白銀色の小さな扉があった。全てがめちゃくちゃに壊れた空間の中でその扉だけがつるりとして傷ひとつない鏡のような表面を輝かせている。異質といえば異質なその姿に不安を覚え、るうかは輝名を見上げた。
「輝名さん、ここは……?」
「最後に残った1体がいる。……悪いが、お前の手で終わらせてやってくれないか」
そう言って輝名は取っ手も何もついていない、鍵穴ひとつない扉に自身の右手を当てる。途端にぐにゃりと扉が歪んだ。内側から何かが扉を押し返しているのだ。輝名はそれを見ながら感情の見えない声で言う。
「さぁ、出てこいよ。おしまいの時がやってきたぜ?」
その言葉に反応するかのように、銀色の扉が内側からこじ開けられた。
執筆日2013/11/10