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だんだんとるうかの頭がはっきりしてくる。右腕の傷はすっかり塞がっていて、傷痕ひとつなかった。視界に光が戻り、自分の首を守るようにあてがわれたそれが何なのかを知る。
「槍昔、さん……?」
るうかの左手から力が抜けた。頼成は赤いカタールの刺さった左腕を自ら引く。思わず剣を抜こうとしたるうかだったが、後ろから佐羽に止められた。
「待って、抜いたらもっと血が出てしまう」
「でも……」
「頼成……君、もしかして俺達の声が聞こえているの?」
るうかの身体を軽く抱くように押さえながら、佐羽は頼成に向かって尋ねた。彼の左腕はるうかの血と彼自身の血とにまみれて赤いが、他の皮膚はまだ石のままである。当然佐羽の問い掛けに対する返事もなく、ただ彼の左腕がぐい、と持ち上げられる。
「えっ……抜いてくれ、って?」
佐羽には頼成の言いたいことが何となく伝わるようだ。頼成がそのまま腕を持ち上げているので、どうやら肯定らしい。佐羽に視線で促され、るうかは頼成の左腕に深々と突き刺さった自分のカタールを引き抜いた。同時に青い光の帯が頼成の左腕を包んで、先程るうかの傷を癒したときのように綺麗に傷を治してしまう。
「やっぱり、意識あるんでしょう」
佐羽が少しだけ恨めしそうに言って、頼成は左腕をちょいちょいと動かした。何かを要求する仕草だ。佐羽はそれをじっと見て、やがてああ、と頷いた。そして荷物の中から紙と万年筆を取り出す。どうやらそれはこの世界のものではなく、現実の世界から持ち込んだもののようだった。佐羽の私物なのだろうか。
佐羽は頼成の左手に万年筆を握らせた。頼成は左手以外一切動かせないその姿勢のまま、佐羽の差し出した紙に何かを書きつける。それを見た佐羽の顔が一瞬で引きつった。
「そんなことっ……言われなくても分かってるってば!」
怒鳴る佐羽を尻目に、頼成は万年筆の先をるうかに向ける。そして再び紙に文字を書いた。るうかはそれを覗き込んで、何も言えずに黙る。そこにはぐにゃぐにゃに歪んだへたくそな字でこう書かれていた。
“ばか あほ”
「何だよ頼成……偉そうに……」
佐羽がそう言って泣き崩れた。彼の中ですっかり緊張の糸が切れてしまったようで、背後から聞こえるぐすぐすという音にるうかはただ黙って背中を貸すばかりである。そのうちに頼成がまた万年筆を動かした。何か伝えたいことがあるようなので、泣いてばかりで動こうとしない佐羽の代わりにるうかが紙を押さえて頼成が文字を書くのを手伝う。へたくそな文字はこう言っていた。
“さわね はなれろ!”
それを佐羽に見せると、彼はしばらく黙ってから自分の持っていた布で涙を拭いて鼻をかんだ。それから頼成に向かって怒鳴る。
「感嘆符つけてる余裕があるなら俺の名前くらい漢字で書いてよ!」
“めんど”
「せめて“い”まで書けっ!」
どうしようもないやり取りを眺めているうちにるうかの目からも涙が出てきた。頼成は生きている。意思を伝えることも何とかできている。けれどもなんと中途半端な状況だろうか。確かに勇者の血は彼を助けることができるのに、これでは彼は左腕だけ人間の奇妙な石像のままである。
るうかは床に落ちている赤い刃のカタールを見た。その宝石のような刃が少しだけ小さくなっているような気がして、ふと首を傾げる。手を伸ばして刃に触れると、切れてもいないのに指に新しい血が付いた。どういうことだろうか? ますます首を傾げたるうかの耳に、外の廊下を走る激しい足音が聞こえてきた。
佐羽も何事かと廊下へ繋がる扉を見やる。間もなくそれは外側から勢いよく開かれ、蝶番がひとつ弾け飛んだ。
「間に合った!?」
扉の向こうで息を切らせて緑の髪の男が叫ぶ。灰色の鎧にも似たフードつきのローブをまとった彼はるうかと佐羽、そして中途半端な石像となっている頼成を見て、それから床にできた血溜まりを見てわずかに顔をしかめる。るうかは何となく説明しないと悪いような気がして、「間に合っていると思いますよ」と彼に声を掛けた。
緑色の魔術師と呼ばれる彼は少し身を屈めるようにしながら部屋の中に入ってくる。それでも彼のフードは扉の枠に引っ掛かって外れた。頼成をもしのぐ長身の彼の髪はやはり人間とは思えない鮮やかな緑色で、るうかがその奇抜さに気を取られているうちに彼は彼女達のすぐ傍までやってきていた。
「遅くなってごめん」
彼は低いながらも軽い声で言って、それから「どうしても抜けられない研究があって居残っていたんだ」とよく分からないことを言う。
「それで、帰ったら“一世”……阿也乃が、頼成くんが倒れたって教えてくれて、それで」
説明を続ける彼を見て、佐羽がハッとしたように立ち上がる。そして彼は緑色の魔術師に詰め寄った。
「あなたなら! あなたなら、前に“彼”を助けたカードを持っているんでしょう!? それを使えば頼成も……!」
しかし緑色の魔術師はいいやと首を横に振る。
「あれはすごく貴重なカードで、今は1枚も手元にないんだ。何しろ勇者の血を詰めた砲弾を発射するためのカードだからね。そんなに数が作れないんだよ」
「……じゃあ、今あなたは何のためにここへ?」
佐羽の声と表情に険が混じる。あまりにあからさまなその変化にも動じることなく、緑色の魔術師はやんわりと微笑んで告げた。
「勿論、頼成くんを助ける方法を知らせるためにだよ」
佐羽が目を見開いて固まる。緑色の魔術師はそんな彼の横をすり抜けて壁際のテーブルまで行くと、そこに1本残されていたるうかのカタールを取って戻ってきた。彼はそれをるうかに手渡しながら言う。
「ごめんね、るうかちゃん。阿也乃は少し意地悪で、素直じゃないんだ。うん、正直に言えば性格が悪いんだよ。だから初めから全部教えたりしないし、嘘か本当か分からないようなことも言う。阿也乃とうまく付き合うコツはね、彼女が本当はどうしたいのかをよく考えることなんだよ」
るうかは右手でカタールを受け取りながら緑色の魔術師の言葉を聞いた。その言わんとするところは分からないが、床に落ちているもう1本のカタールが明らかに今受け取ったものより小さいことは分かる。どういうことだろうか? 当然のことながら、先程までは両方共同じ大きさだったのだ。
「ゆきさんがどうしたいか……?」
るうかの横で佐羽が怪訝そうに呟いている。彼女との付き合いの長そうな彼にも分からないようだ。るうかは2本の刃を見つめながら考えていた。その真っ赤な宝石のような刃は、まるで血の色をした結晶のようで。るうかはハッとして顔を上げた。緑色の魔術師がそんなるうかの顔を見てパッと顔を明るくする。
「分かったかい?」
こくりと首を傾げながら尋ねてくる彼に、るうかは頷きを返しながらも戸惑っていた。
「これ……なんですね?」
両手に持った赤い刃を掲げながら、るうかは確かめるように声を出す。
「これは、勇者の血を固めて作った剣なんですね?」
正解! と緑色の魔術師が言った。佐羽が目を丸くして唇をわななかせている。彼にしてみればどうして先に教えてくれなかったのかと阿也乃を問い詰めたいのだろう。るうかも同じ思いだが、緑色の魔術師によれば柚木阿也乃とはそういう人間らしい。そして緑色の彼はとっておきの秘密を語るかのように嬉しそうに言う。
「それはね、るうかちゃんの血を凝縮させて作った剣なんだよ。君の身体を培養する過程で同時に血液細胞だけを培養して、用意しておいたんだ。それで君に預けておいたんだよ」
だからそれを使って頼成くんを助けてあげて。彼はそう言ってるうかの身体を頼成の方へと向けさせる。ちょっと待ってください、と佐羽が声を上げた。
「それを使って頼成を助けるって、具体的には……ひょっとして……」
「うん、刺すんだよ」
こう、ぶつっとね。緑色の魔術師はそう言って自分の胸元に剣を突き刺す仕草をしてみせた。佐羽は一瞬呆気に取られた後、ムッとした顔でるうかの隣に歩いてくる。
「るうかちゃん、それ貸して。俺がやるから」
「え?」
「君、頼成を刺せる?」
そう尋ねる佐羽の瞳は真剣だった。るうかは少し考えて、迷って、それからちらりと頼成の方を見る。左腕以外は硬い石となった身体だ。おまけに胸元は板金鎧でしっかりと守られている。それを見て、るうかは佐羽へと視線を戻した。
「落石さんじゃ無理です」
「なっ」
「だって、あの槍昔さんを刺せるほどの腕力はないでしょう?」
あ、と今更気付いたように佐羽は口をぱかりと開けた。綺麗で可愛らしい顔が台無しであるが、今はそれを笑うのも失礼かと思ってるうかは口をつぐむ。そして改めて両手にカタールを持ち、頼成の前に屈み込んだ。
方法は分かった。保証も得られた。きっとこれなら失敗はないのだろう。頼成は助かるのだ。そう考えるとるうかの気分も高揚してくるが、両手は少しばかり震えている。自分の手で彼を刺すのかと思うとやはり腰が引けた。先程自分を守るために彼が差し出した腕を貫いた感覚がまだ左手に残っている。自分の好きな人を、自分を守ってくれる人を、刺さなければならないのか。
目の前の頼成が少しだけ笑った気がした。万年筆を握ったままの彼の左手が紙を催促する。気付いた佐羽がそれを差し出し、頼成はそこにこう書き付けた。
“えんりょなく どうぞ”
「……槍昔さん……」
るうかは思わず呆れた声を出してしまう。そんなるうかの目の前で頼成は万年筆を手放すと、るうかの右腕をぐいと引いた。当然そこには刃が握られているわけで、るうかは焦る。しかし頼成がいくら引いても刃は彼の身を守る鎧に阻まれてそれ以上は進んでいかない。
るうかがやるしかないのだ。
“天敵”を倒すためだけの腕力だと思っていた。しかしここにきてそれが頼成を救えるというのなら。
るうかは一度小さく息を吐き出し、それから両手に握りしめた刃を思い切り前へ突き出した。
執筆日2013/11/07