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まだ柔らかい、短い黒髪を揺らして。「舞場さん」と彼はるうかを呼び止めた。そして左手に持った赤い鳥の羽根をるうかに差し出し、戸惑うるうかの髪にそれを飾った。
「気を付けて」
たったそれだけの言葉を遺して、彼は去っていってしまった。るうかは無意識のうちに左手で自分の右肩を押さえる。つい先程まで鮮血を噴いていた傷は跡形もない。彼の左手が癒してくれたそこが何故かとても熱くて、熱くて。
るうかの手が包み込んだ彼の左手は熱くはなかった。しかしどうしてか、その熱がまるで同じものであるような気がして。るうかは手を伸ばしてそれを探す。彼の、左手を。しかしいつしか周囲は青緑色の液体で満たされ、目指すものはどこにも見当たらなかった。
自分だけの夢から覚める。るうかは現実の自分の部屋のベッドの中でびっしょりと寝汗をかいていた。窓を覆うカーテンの隙間から差し込む日差しはまだ弱い。枕元の時計を見ると、針は5時を指していた。念のために携帯電話も開いて確かめる。午前5時で間違いなかった。
いやに早い時間に目が覚めたものだ。夢の世界でいつどのように眠ったのかも記憶にない。ただどうしようもなくやるせない感情だけが胸に押し寄せてくる。身体に張り付いたパジャマが気持ち悪い。
もう一度携帯電話を見て、それを開く。今日は土曜日で、休日だ。普段であれば当然のように二度寝を決め込んで思う存分ゆったりと過ごすところだが、今日ばかりはそうもいかない。るうかはアドレス帳から1件のメールアドレスを呼び出し、ごく簡単な内容で送信する。
それからじっと携帯電話を見て、それをベッドの上に置いて、眠っているだろう両親を起こさないようにそっとシャワーを浴びて戻ってきた。頭にバスタオルを巻きつけたまま赤い携帯電話を開くがメールの受信を知らせる表示はない。それでも彼女は諦めず、今度はアドレス帳の同じ名前から電話番号を呼び出してそれを耳に当てた。
コール音が続く。2回、3回……6回。やはり駄目か、とるうかがわずかに下を向いたそのとき7回目のコール音が途中で途切れた。るうかは思わず叫ぶようにして相手の名前を呼ぶ。
「槍昔さんっ!?」
返事はない。しかしよくよく耳を澄ますと何か衣擦れのような音が聞こえる。そしてその合間にわずかに声のようなものも聞き取ることができた。るうかは一度息を整え、それからもう一度相手に向かって呼びかける。
「槍昔さん、聞こえているんですか。舞場です。分かりますか……?」
『……』
聞き取ることのできる声はなかった。しかしその代わりにぽふぽふと、布を叩くような音が返ってくる。こちらの声は聞こえている、そうるうかは確信した。
「槍昔さん……待っていてください。私、行きますから」
『……!?』
ぼふっ、と何かを訴えるような音がした。るうかはそれを聞いたもののそのまま通話を切ってもう一度アドレス帳を開く。今度はメールなどというまどろっこしい手段は使わない。コール音3回で相手が出た。
「おはようございます、舞場です」
『おはよう、早いねるうかちゃん』
相手、佐羽は少しだけ疲れたような、しかしはっきりとした声で応じる。
『来るかなと思っていたよ。俺に電話くれたのは初めてだよね』
「槍昔さんの住んでいるところ、どこか分かりますか」
『勿論だよ。俺も行くつもりだったから、ちょうどいい。一緒に行こう』
それから佐羽は待ち合わせの場所として彼らの通う大学近くのコンビニエンスストアを指定した。るうかの高校からも近いそこは彼女の行動圏内であり、すぐにどこだか理解することができた。
「分かりました。できるだけ急いで行きます」
『うん、でも気を付けてね。この間も事故ったんでしょ?』
どうやら佐羽は数日前のるうかの事故のことを知っているらしかった。彼の通う大学の構内で起きたことなのだから知っていてもおかしくない。『頼成に言ったら怒りそうだから敢えて黙っていたんだけどね』と彼は電話の向こうで少しだけ笑った。るうかは一応は神妙な声を出して「気を付けます」と答える。気を付けるも何も彼女の愛車はその事故で壊れてしまい、まだ新調もしていないため徒歩での移動になる。この時間ではまだ地下鉄も動いていない。
佐羽との電話を終えるとるうかは最低限の身支度をして家を出た。両親が起きれば心配するだろうが、そのうち起きたころを見計らって電話でもすればいい。髪はまだ乾ききっておらず、服装もあまり気を遣ったものではなかったが、それどころではなかった。できるだけ急いで、ときに走って、やっとのことで待ち合わせ場所の店の前に着いたるうかを出迎えたのは買い物袋を片手に提げた佐羽の苦笑だった。
「本当に急いで来たね」
「おはよう、ございます」
「うん、おはよう。まず深呼吸しようか」
「槍昔さんの家は……」
「すぐそこだよ。ここの路地のアパート」
買い物袋を持った手ですぐそこに見える6階建ての建物を指差し、佐羽はまだ苦笑を残したままるうかの手を引いて歩き始めた。アパートまでの短い距離で彼が説明した内容によると、頼成は高校2年生の頃からここで独り暮らしをしているらしい。佐羽は当然のように鞄から鍵を取り出してオートロックのアパート入口を開ける。そしてエレベーターで最上階に上がると、605と書かれた扉をこれも勝手に開錠して開け放った。
「頼成、来たよ!」
彼は玄関でそう言い、まずるうかに中に入るよう勧める。お邪魔します、と言いながらるうかは靴を脱ぐのももどかしく部屋の中に上がった。狭い玄関には頼成のものらしき大きな運動靴が置いてある。脇にはサンダルもあった。るうかはその隣に自分の靴を並べ、部屋を見る。
玄関を入ってすぐ左手にキッチン。男の1人住まいにしては綺麗に片付いている。目立つのは大きな冷蔵庫だ。右手側には洗面所とユニットバス。こちらも見たところ清潔で、必要最低限のものしか置かれていない印象である。そして狭い廊下を抜けた先は1部屋。正面に大きな窓があり、淡い青色のカーテンが掛けられている。薄いカーテンは朝の光をよく通して部屋全体を柔らかな明かりで満たしていた。部屋の右の壁には本棚と机、そしてパソコンラックが並べて置かれている。さらに何段か積み重ねられた収納ケースに普段頼成が着ているらしい衣服が詰め込まれていた。この辺りはやや無造作だ。机の上には放り出したようなノートとテキスト。そして辞書と付箋と筆記用具。真面目に勉強をして、疲れたからそのままにして眠った。そんなところだろうか。
部屋の中央の床には小さなマットが敷いてある。その横にはこの部屋には少しだけ似つかわしくない、シックなダークブラウンの手触りが良さそうなクッション。そして部屋の左半分を占めるようにパイプフレームのベッドが置かれていた。黒のシーツにダークグレーの夏用布団。同じくダークグレーの枕の上に行儀よく頭を載せて、黒髪の青年が目を半分開けている。彼の左腕は布団の上に投げ出され、その手は黒くて薄い携帯電話を握っていた。
るうかからの電話を取ったためだろう。そしてそれで布団を叩いて、自分がいることをアピールしていたのだろう。頼成は生きている。るうかはただそれだけを信じて彼の枕元に駆け寄った。
「槍昔さん……! 槍昔さん!」
すると頼成は半分だけ開いた目をほんの少しだけるうかの方に向けて、顔は天井を向いたまま小さく口を開いた。
「ホントに来た」
かすれた声に笑みが混じる。
「ありがと、舞場さん」
「まだ喋る元気があったみたいだね」
そう言いながら佐羽が買い物袋を片手にやってきて頼成のベッドに腰掛ける。
「飲み物とか買ってきたけど、どう? 飲めそう?」
「起き上がるのは、無理」
「ストローあるよ」
それなら何とか? と頼成は言った。佐羽は買ってきたスポーツドリンクのペットボトルに長いストローを差し、それをるうかに預ける。そして自分は頼成の右腰を抱き込むようにし、さらに右肩を支えて彼の身体を横に向けた。さらに佐羽は床のクッションを掴んで頼成の腰の後ろに押し込むようにする。それで少しは姿勢が安定したのだろう。頼成は小さく息を吐いて佐羽に礼を言った。
横を向いた頼成の口にるうかがストローを含ませる。佐羽は洗面所からタオルを持ってきて、折り畳んだそれをストローの下、頼成の頬と枕の間に挟み込むように差し込んだ。頼成がほんの少しドリンクを吸う。飲み込みきれなかったドリンクが口の端から零れてタオルに染み込む。るうかはドリンクのボトルを支えながらそんな頼成を見ていた。飲み物ひとつ飲むにもこれほど苦労しなければならないほど、彼の身体は動かなくなっているのだ。それは夢の中での石化が原因と考えて間違いないのだろう。
「少しは飲めた?」
佐羽が聞いて、頼成はストローをくわえたまま「ああ」と声を出す。るうかは慎重な手つきで頼成の口からストローを抜いた。そしてタオルで彼の口元を拭う。
「ありがと」
ほとんど動かない顔で、それでもぎこちなく笑みを浮かべようとするように、頼成は目と頬に力を入れながらるうかへの礼を口にする。そんな彼を見ていることそのものが辛くて、るうかは思わず目を伏せてしまった。佐羽は汚れたタオルを洗面所で洗って、それから部屋に戻ってきて頼成に尋ねる。
「どうする? 救急車呼ぶ? それともゆきさんに頼んで病院に連れて行ってもらう? どっちにしても、栄養の点滴と排泄の管をつけてもらって床擦れができないようにこまめに動かしてもらうことくらいしかできないと思うけど」
「あの時のあいつもそうだったのかな」
ふっと遠くを見る眼差しで言った頼成に、佐羽は少しだけ肩をすくめながら頷いた。
「こればっかりは、ね。こっちの世界の医療じゃどうにもならないから」
「少し考える。……佐羽」
「ん?」
横を向いたまま、頼成は視界にいない佐羽に向かって呼びかけた。
「夕方くらいに、また来てもらえるか? ゆきさんの車で」
「分かった。……じゃあるうかちゃん」
今度は佐羽が頼成の枕元にいるるうかに向かって呼びかける。
「俺が戻るまで、頼成の傍についていてもらえる? 何かあったら電話して。すぐに来るから」
「あ……はい」
「困ったらいつでも電話していいからね。遠慮しないでね」
言い聞かせるようにそう言って、佐羽は柔らかく微笑んで部屋を出ていった。ばたん、と玄関のドアの閉まる音がする。続いて外から鍵を閉める音も。
「あいつ、いつの間に合鍵作って……」
頼成が思わずといった調子で呟いて、それからまぁいいかと溜め息をついた。
執筆日2013/11/06