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夢の世界の夜が去ろうとしていた。
るうかは石化した頼成を背負ってとぼとぼと夜明けの街を歩く。その前を佐羽が、自分の杖と頼成の斧槍、それにるうかの赤いカタールを持って歩く。2人の間に会話はない。
背の高い建物の隙間から見える空が白んでいく。夜中じゅう吹いていた強い風も今は止み、雲は穏やかに浮かんでいる。全てが静かで、落ち着いていて、それこそまるで夢でも見ているようだった。それとも先程までの全てが悪夢だったのだろうか。
そうだったらどんなにいいか。るうかは背中に感じるずっしりとした重みを感じながら、ゆっくりと前に進む。石になってしまった頼成は元々の体重以上に重くなっていた。それとも軽いのかもしれない。動くことのかなわない身体だからひどく重く感じるだけで、本当はそれほど変わらないのかもしれない。るうかには分からない。
ふと、佐羽が立ち止まってるうかを振り返った。わずかにためらって、それから彼は真顔のまま尋ねる。
「大丈夫? 少し、休憩するかい?」
大丈夫です、とるうかは答えた。できるだけ強い声で答えようと思ったのだが、どうしてもそれはかすれたものになってしまった。それでも佐羽はるうかの思いを尊重してか、こくりと頷いてまた歩き出す。
一度立ち止まってしまえばもう歩き出せそうになかった。神殿の事件は終息し、全ての“天敵”は倒されたというのに。輝名の話では神殿側の人々は半分程度生き残ったとのことだった。つまり半分程度は犠牲になったということだが、それでも奇跡に近いと彼は言った。あれだけの“天敵”を相手にそれだけ生き残ることができたのはるうかや佐羽、そして頼成がいたからだと。彼はそう言ってくれた。それはるうかにとってほんのわずかではあるが救いになった。
とてもとても長く感じる距離を歩いて、昨夜後にした宿屋に戻ってくる。部屋はそのまま借りっぱなしになっているので、そこの床に頼成の身体を置いた。座った姿勢のまま石になってしまった彼をベッドに寝かせることはできず、壁に寄りかからせるようにしてできるだけ楽な姿勢になるようにする。彼はもうそれを感じることはないのだろうけれども。
窓からは明るい光が差し込んできていた。佐羽が窓辺に寄り、それを開ける。爽やかな風がゆっくりと吹き込んで、彼の亜麻色の髪を揺らした。
るうかも佐羽も血まみれのままの姿だった。頼成の服や、石と化した皮膚の表面も誰かの血で汚れていた。綺麗にしないとね、と佐羽が呟くように言う。
「るうかちゃん、せっかくの可愛い顔が台無しだよ」
そうして彼はどこからか桶にいっぱいの水を汲んできて、柔らかな布をそこに浸した。彼はゆっくりとるうかに近付くと、とても丁寧な手つきで彼女の顔や髪を拭いていく。汚れた手も、服も、こびりついた肉片も、佐羽の手が綺麗に拭ってくれた。拭いただけで全ての血がとれるわけではなかったが、それでもかなりましになったのだろう。佐羽は少しだけホッとしたようにるうかを見て、そしてやはり少しだけ微笑む。
「うん、綺麗になったよ」
ありがとうございます。そう言おうとしてるうかはハッとする。声が出せない。身体中に力が入らず、口や喉を動かすことさえ忘れてしまったようだった。困ったように自分を見る視線で何か気付いてくれたのだろう。佐羽は優しくるうかの背中をさすりながら言う。
「いいよ、無理しなくて。疲れたでしょう? 少し眠るといい」
「……ち、ぃし、さ」
「喋らなくていいよ。君も随分無理をしたんだから。ね、お願いだから身体を休めて」
そう言いながら佐羽はるうかの身体をそっと抱き上げ、ベッドの上に下ろした。彼は華奢な体格をしている割にそういったことには慣れている様子で、るうかは心地良い姿勢でベッドに横たえられる。彼女の視界には頼成の姿があった。
「……」
こうして彼を見守っていればいいのだろうか? 彼はもし自分が石になる時が来ても、その姿を人目に晒されたくはないと言った。この街にある英雄記念館に並べられた石像達のようにはなりたくないと。どこか小さな家の中でひっそりと眠らせてもらえればいいと言っていた。
今にして思えば、あれは彼の遺言のようなものだったのだろう。彼はとっくに覚悟を済ませていて、それがたまたまこの夜だったというだけのことなのだ。覚悟できていなかったのはるうかの方だった。
一度は乾いたはずの目からまた音もなく涙が流れる。
「……あれ?」
不意に佐羽の声が聞こえた。彼は床の上で何かを拾い、それをるうかの前に差し出す。
「これ、るうかちゃんの?」
るうかは涙に濡れた目でそれを見た。それは1枚の赤い鳥の羽根だった。昨夜神殿で、頼成が別れ際に彼女の髪に差してくれたものだった。
「……」
声にできず、るうかは頷く。佐羽はそう、と短く言ってそれを彼女の手に握らせた。
それから佐羽は先程の布を洗って絞って、今度は自分の身体や服を拭き始めた。それが終わると一度水を替えて、今度は頼成の身体を拭いた。まるで壊れ物を扱うように丁寧に、そして丹念に隅々までを拭いていく。まるで頼成の身体が汚れていることが許せないとでもいうかのように。
頼成の身体の中で一番汚れていたのは両手だった。怪我をした人々に直接触れたためだろう。佐羽はもう一度よく絞った布でその手を拭いていく。慈しむように、労るように、優しく優しく拭いていく。右手から始めて、それを充分に綺麗にしてから左手へ。そこで彼はふと動きを止めた。
「え……?」
佐羽は小さく首を傾げる。るうかはどうしたのかと問いたかったが、やはりうまく声にならない。佐羽はするりとるうかの方を振り返り、戸惑ったようにこう言った。
「ねぇ、不思議。左手だけ、少し温かい」
それを聞いてるうかはベッドから身を乗り出し、手を伸ばす。そのままずりずりとベッドから落ちそうになるのを佐羽が支えて頼成のところまで運んでくれた。そしてるうかは頼成の左手に触れる。
それは確かに、ただの石ではありえない温もりを持っていた。ほんの微かな温かさではあるが、確かに伝わってくるものだった。るうかは佐羽と顔を見合わせ、2人で首を傾げる。
「どういうことなんだろう。ここだけ、まだ石化が終わっていないのかな」
ぽつりと呟いた佐羽は、しかしすぐに首を振った。その表情は険しい。
「違う。頼成の左手は……神殿の事件より前に石化していた。身内に神官がいるからって頼成に治療を頼みに来た、そんな人の病気を治して、それで……なのに……?」
佐羽の戸惑った声を背に、るうかはもう一度頼成の左手に触れる。他の石になった皮膚と比べてそこだけがほんのわずかに色が白く、本当に微かながら柔らかさも感じられるような気がした。るうかは頼成の左手を両手で包むように握りながら、彼の顔を見上げる。穏やかに微笑んでいるその顔を。閉じた瞼は動かない。睫毛の1本までが石と化して、その瞳を隠していた。
その場から動こうとしないるうかを見て、佐羽は自分のベッドに横たわる。そして誰にともなく語りかけるように口を開いた。
「実はね、石化した友達を見るのはこれが初めてじゃないんだ」
え、とるうかは口だけをその形に動かして佐羽を見た。佐羽は天井を見つめながら遠くを見る目つきで続ける。
「昔……3年前にもね。大切な友達がそうやって石になった。俺も頼成もそれを見ていたんだよ」
だからなんだろうね。彼はそう言って仰向けのまま口元を笑みの形に歪めた。
「だから俺はもう一度それを見ることがすごく怖かったし、頼成は彼を目指していたから覚悟もできていた。それに」
それに、だけをごく小さな声で言い、それきり佐羽は黙ってしまう。彼の視線は宙をさまよっていた。何を話していいのか、どう話していいのか迷っているようにも見えた。やがて彼は小さく息を吸ってからもう一度口を開く。
「……彼を助けるために来てくれた、治癒術師の子がいたんだ」
佐羽はもぞりと動いて顔をるうかの方に向けた。
「その子がいたから、俺達はここまで来られた。彼女に誇れるような自分でありたいって、俺も、きっと頼成もそう思っていたんだよ」
そう言うと佐羽はとても柔らかく笑った。まるで穢れを知らない少年のように、あどけない顔で。それを見たるうかはただきょとんとして、そのまま頼成の左手を握り続けていた。
執筆日2013/11/06




