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るうかには何が起きたのか分からなかった。彼女の目の前で“天敵”の血と肉片にまみれて真っ赤に染まっている少女にもおそらく分かっていないのだろう。少女は閉じていた目を開いて、そこに落ちてきた真っ赤な液体に驚いて、それから自分の全身を染め上げる赤に気付いて悲鳴を上げる。
やかましい、と誰かが言った。
「今更悲鳴なんて上げてるんじゃねぇよ、実行犯。お仲間は全員捕らえたぜ。残るはお前1人だ」
偉そうにそんなことを言う声には覚えがあった。るうかは声のした方を振り返って、そこに何やら武器を手にして立っている白銀色の青年を見る。彼はいつものフードを被っていなかった。闇の中でも輝いていそうな白銀の短い髪を煌めかせ、紫がかった淡い青の瞳を険しく細めて、それでいて口元には余裕の笑みを浮かべて血を浴びた少女を睨んでいる。
彼、有磯輝名は少女に向かって言い放った。
「お前を神官“天敵”化の実行犯として捕縛する。言いたいことは後でじっくり聞いてやるから、しばらく大人しくしておけ。後はそこにいる賢者への傷害容疑もあるが、そっちはついでだな」
「おい、ついでかよ」
思わずといった調子で言葉を挟んだ頼成に、輝名は「どうせ格好つけようとして失敗したんだろ」とにべもない。そしていつの間にか少女はその場で気を失っていた。輝名が少女に触れると、その身体が突然その場から掻き消える。
「これでよし。遅くなって悪かったな、舞場るうか」
「あ、いえ……」
輝名が使ったのは転移の魔法なのだろうか。それとも少女の姿を見えないようにしただけなのだろうか。るうかはそんなことを考えていたために輝名からの声かけに咄嗟に反応できなかった。
「大分出血したみたいだな。おい頼成」
「分かってる、俺の力不足だ」
「当然だ。女の子にこんなに怪我させやがって」
輝名はねちねちと頼成を責める。るうかはしつこく残っている頭痛を振り払うように軽く頭を振って、それから改めて輝名に向き直った。
「今の“天敵”を倒してくれたのはあなたなんですよね。ありがとうございます」
すると輝名はわずかに口元を歪めながら「礼なんていらねぇ」と返す。
「元は神殿側の失態だ。巻き込んですまねぇと思ってるよ」
「あの子の他にも……仲間がいたんですね」
「内通者がいた。そうでもしねぇと地下牢獄の神官達に手出しなんてできねぇだろうからな。前々から臭いと思っていた奴はいたんだ。実行前に証拠を掴めなかった。防げなかったことは完全にこっちの手落ちだ」
輝名は悔しそうに言い、頼成が小さく溜め息をつきながら彼に歩み寄る。
「そっちの反省と対策は後でいいだろ。今のそっち側の状況は?」
「一度神殿の戦力を犯人捕縛に差し向けたが、そっちが片付いた今は全部外に回した。佐羽も来ているな? あいつと何人か合流させて門を守らせる。俺達は神殿内に救護所を置き、そこを拠点に外を攻める」
「治癒術師は足りているのか?」
頼成の問い掛けに、輝名はほんの1秒沈黙した後で首を横に振った。
「地下の神官が“天敵”になった以上、神殿にいた治癒術師は全て祝福の加護を失っている。怪我の応急処置ぐらいは何とでもなるが、それ以上は無理だ。なおさら“天敵”を増やすことになりかねない」
「分かった」
「早まるなよ。言っただろう、これは神殿の失態だ。お前がしゃしゃり出てくる必要はねぇ」
「言ってる場合か?」
頼成は冷静に、そして呆れたように言った。
「どいつもこいつも人を手負い扱いしやがって。俺だってまだまだやれるっての」
「……」
「正直に言え、輝名。応急処置程度で間に合わせていて戦力が足りるか? 外の“天敵”は何十といたぞ。それを相手にしているうちにどれだけ死ぬと思う。それを何とか防げる人材がここにいるんだぞ。それを使わないのか? それがここを指揮するあんたの選択として正しいか?」
「頼成……」
輝名の迷った時間はわずかだった。彼はすぐに目元を引き締めると、頼成に向かって頭を下げる。
「救護所の指揮をお前に任せる。負傷した人員をできるだけ早く回復させて現場に戻すよう、お前の力を貸してくれ。……だが、決して無理はするなよ」
「ああ、分かった」
頼成が軽く微笑んで頷いたのを見て、輝名は一度目を閉じた。それから彼はるうかの方に向き直り、口を開きかけ。
「カグナ様!」
そこに神殿の入り口から長い黒髪を後ろでひとつに束ねた女性が駆け込んでくる。彼女は動きやすそうな鎧を身につけており、手には大きな剣を持っていた。女性が扱うにはかなり重そうな得物だが、彼女はそれを軽々と片手で持っている。輝名が女性を見ておお、と武器を持った右手を上げた。
「ユイ、そっちは」
「生き残った者のうち、戦士と魔術師を5人門に回しました。黄の魔王との共同戦線で“天敵”の街への侵入を防いでいます。他は3人1組の遊撃隊としてそれぞれに“天敵”討伐に当たらせています」
「被害状況は」
「戦士3名、魔術師1名が捕食されたことを確認しています。他は不明です」
「討伐数は」
「現在報告があった分で5体です」
「上出来といえば上出来か」
険しい顔で言い、輝名はちょうどいいとるうかを見た。
「おい、るうか。こいつは俺の“左腕”でな、ユイっていう。お前と同じ勇者だ。お前はユイと組んで表の“天敵”をできる限り倒してくれ」
そう言われてるうかはユイと呼ばれた女性を見た。どうやらるうかよりは年上のようで、輝名や頼成と同じくらいに見える。身長はるうかとそれほど変わらないがきりりと引き締まった眉や切れ長の黒い瞳が知的で有能な印象を与える。ユイはるうかを見て短く「よろしく」と言った。輝名が頼成を振り返りながら言う。
「俺も出る。治癒術師達をこっちに寄越すから、後はお前の裁量でやってくれ」
分かった、と頼成は答える。部外者の頼成が場を仕切っていいものかどうかるうかにはよく分からなかったが、ユイも何も反対していないところを見るといいのだろう。この輝名という青年にはそれだけの権限があるのかもしれない。
「舞場さん」
ユイと共に外に出ようとしたるうかに頼成が呼びかけた。るうかが振り返ると彼はその左手に持った何かをるうかに向かって差し出してくる。それは赤い鳥の羽根だった。
「えっと、何ですか?」
戸惑いを隠さずに問い掛けたるうかに対して、頼成は無言でそれをるうかの髪に差す。何やってるんだ、と輝名が急かすように声を出した。
「気を付けて」
頼成はそれだけ言うと神殿の奥の方へと歩いていく。るうかはハッとしてその背中に向かって言った。
「槍昔さんも、気を付けてください」
頼成は少しだけ肩をすくめるようにしながら斧槍を持っていない左手を掲げた。それは先程るうかが流した血に染まって、石のようには見えなかった。
そしてるうかは頼成を神殿の中に残し、輝名とユイと共に外に出る。そこは今まさに死闘が繰り広げられている戦場で、神殿の中よりさらに濃い血と脂の臭い、そして赤色と悲鳴や怒号に満ちていた。神殿の者らしき灰色の衣装や鎧をまとった魔術師や戦士がそれぞれ武器を手に“天敵”と対峙しているが、やはり弱点以外の攻撃が通用しないことが戦闘を長引かせており、その分疲労も増しているようだ。“天敵”はそんな彼らのことも捕食対象と考えており、隙あらばその肉を広げて取り込もうと彼らににじり寄っていく。
輝名はそんな“天敵”達のうち1体に目を付け、右手の武器を構えた。それは大きな銃のような形状をしており引き金もついているが銃ではない。どう見ても銃口にあたるものがなく、代わりに筒の先端には赤紫色をした半透明の宝石のようなものが浮かんでいた。それがみるみるうちに白く発光していく。
輝名が引き金を引くと白く輝いた宝石部分から同じ色の収束した光線が発射された。それは“天敵”の肉を白く焼き、抉る。輝名は戦場に響き渡る大きな声で叫んだ。
「アッシュナーク神殿大神官代行輝名の名の元に命じる。総員気を引き締めてかかれ! 相手は人間の敵だ。1体たりとも街に出すな! いいな!」
そして輝名は銃を天に掲げ、青白い光を空に向けて撃ち放った。光は神殿の周囲に柔らかく降り注ぎ、“天敵”と戦う者達に力を与える。勿論その恩恵はるうか達にもあった。
「行くよ」
黒髪の勇者ユイがそう言って駆け出す。るうかは彼女の後に続き、手近な“天敵”の弱点を探した。それは彼らが人間であった頃に着ていた服であったり、身につけていた装飾品であったり、皮膚であったり髪の毛であったりした。彼らが人間であったことを証明するようなそれらを探し、破壊する。弾けた血と肉の粒を髪にも顔にも浴びて、それでも気持ちが悪いなどとは言っていられない。おぞましい光景にもだんだんと目が慣れていく。身体が馴染んでいく。1体を倒した次の瞬間にはもう別の獲物を探して視線を巡らせている。
ユイも同様に“天敵”を倒していた。彼女の大剣は的確に“天敵”の弱点を突き、その身体を四散させる。同時に彼女は後ろに跳んで、できるだけ“天敵”の血や肉片を浴びないようにしているようだった。るうかも彼女の艶のある綺麗な黒髪が血に汚れるのは嫌だな、と思う。
そしてるうかの両手とそこに握られた1対の小剣は、もうどこまでが血でどこからが元の色なのか分からないほどに真っ赤だった。
執筆日2013/11/04