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結局あれからすぐに佐羽と合流することに成功したるうか達は、アッシュナークの都の中でも比較的外れの、あまり高くない宿に部屋を取った。安全面を考慮してまた大部屋を3人で使うことにする。軽めの夕食を済ませた後は早々にベッドに入ったるうかだったが、なかなか寝付くことができない。疲労は充分に溜まっているはずなのに目が冴えてしまうのだ。色々な考えが頭をよぎってはまとまらずに絡まっていく。そんなとき、ふと向こうのベッドから声がかかった。
「眠れないの?」
静かなのによく通る綺麗な声で、佐羽がそう聞いた。るうかは半身をベッドの上に起こして彼を見る。彼はひとつ向こうのベッドで横になり、頼成の寝顔越しにるうかの方を見ていた。その表情は穏やかな笑顔である。
「色々あったんでしょう? 整理、つかないよね」
でも大丈夫だよ、と彼は言う。
「頼成は……本当に君のことを守るつもりでいるから。それに、俺もね」
「……どうして、ですか?」
「理由が必要?」
問い掛けてくる佐羽の声はあくまで優しい。いつものからかいや、茶化した様子はどこにもない。ただ少しだけ困ったように、それでも真摯な声音で問い掛けてくるだけだ。
「君が、好きだから。そういうことにしておいてくれるかな?」
「……」
「変な意味じゃなくてね。るうかちゃんっていう人間が好きなんだ。俺も頼成も。だから……そんなに不安そうな顔をしないで。君が何を思っていてもどんな風に生きても俺達はそれを見守るし、何だって聞いてあげるから。この世界が怖いならそう言ってくれていい。この夢が嫌ならそう言ってくれて構わない。全部受け止めるよ」
佐羽の言葉を聞いているうちにるうかの心は落ち着いてくる。同時に、何故彼はこうも自分に優しい言葉を掛けてくれるのかと不思議に思った。頼成もそうだが、2人の気遣いは時に奇妙な程のものに感じられるのだ。しかし、るうかはそのことを口に出しはしなかった。佐羽の言葉は素直に嬉しかったし、聞いているうちに眠れそうな気がしてきたからだ。るうかは起こしていた上半身を再びベッドに横たえて小さく佐羽を呼ぶ。
「落石さん」
「……ん?」
「ありがとうございます」
「ふふ、大したことは言ってないよ。でも、どういたしまして」
それきり佐羽は静かになった。隣からは頼成のかすかな寝息が聞こえてくる。穏やかなそれを聞きながら、るうかもゆっくりと微睡みの中に沈んでいった。
目を開けると青緑色の世界がある。気付いたときにはそうだった。時々機械の動くような音が聞こえて、お腹の辺りがぐもぐもと動く。まだ手足を自由に動かすことはできない。ただ身体のどこかに目や耳があって、それが外界を認識していることは理解できた。
その頃からだった。誰かの声が聞こえるようになったのは。初めはそれが声であることも分からず、何を言っているのかなどと考えもしなかった。しかしいつの間にか、それが意味を持った言葉として聞こえるようになっていた。
『せっかく同じ夜にいるのに、会えないのは少し寂しいな』
切なそうな声に、心は震えない。ただ不思議と申し訳ない気持ちが浮かんでは消える。気持ち、というものがどこかにあったような気がしてくる。
『でも会えないならそれに越したことはないか。まぁもし会えたら、その時は』
その時は。その言葉の続きは一度も聞くことができなかった。だから色々と想像してみた。想像するということを思い出したような気がした。
その時は、絶対にあんたを守るから。
不意にそんな言葉が頭をよぎって、そこでるうかは自分だけの夢から覚めた。
電子音に起こされて、いつも通りに朝の支度をして学校へ向かう。夢の世界でどんなことがあっても日課となった動きに乱れはない。慣れというものはすごいなぁと感じながら、るうかは自転車を漕いでいた。
いつものように春国大学の敷地に入り、行き交う大学生達に混じってメインストリートを抜けていく。そういえばいつもこの道を通って高校へ向かっていたが、頼成や佐羽とすれ違ったこともあったのだろうか。勿論るうかはつい最近まで2人のことを知らなかったのだから気付くはずもないが、夢の中の世界でアクリルケースに入ったるうかを見ていたという頼成なら、あるいはすれ違ったるうかに気付いていたのかもしれない。だからどこの高校に通っているかも知っていたのだろうか? 同じ学校の卒業生だというから、制服を見ればすぐに分かったことだろう。そういうことなのかもしれない。
メインストリートから左に外れて門を目指す。いつものようにそうして、そこで突然るうかの視界に何か大きなものが迫った。
「え?」
小さく呟いて、それでも咄嗟にハンドルを切って、身体に感じたのは衝撃と浮遊感。まるで夢の中みたいじゃないか、そう思った時には道路脇の芝生に身体を叩きつけられていた。遅れて聞こえたブレーキ音と、がしゃあん! という派手な破壊音。ぎょっとして飛び起きたるうかの目の前で小型のトラックが道路脇の立ち木にフロントガラスをぶつけて停止していた。るうかの真横には前輪のスポークがねじれてハンドルが奇妙に曲がってしまった彼女の愛車が転がっている。事故だ、と気付いてるうかはやっと青ざめた。ややあって、トラックの運転席からどこかの配達員らしき若い男が飛び出してくる。
大丈夫ですか、やら怪我はありませんか、やら今救急車と警察と呼びますから、本当に申し訳ありません、やらと大慌てで事に対処している運転手を前に、るうかは茫然としながらもこう思っていた。
やっぱり夢見が悪いと注意力は落ちるし危ないものだなぁ、と。
結局現場にやってきた警察と大学の関係者に事故の状況を説明し、トラックの運転手が一時停止を怠ったことが事故の原因ということで落ち着いた。職場から飛んできたるうかの母親や高校の教師までが集まって一時はどうなることかと思ったが、るうか自身はとりあえず病院で怪我の状態を検査してもらい大きな負傷はないというお墨付きをもらって学校に行った。すでに昼休みの時間でありそのまま休んでもよかったのだが、友人達が心配しているだろうからと一応顔を出すことにしたのである。
案の定、るうかが教室に姿を現した途端に静稀と理紗が駆け寄ってきた。
「ちょっと、るうか! 事故に遭ったって聞いたけど学校来て大丈夫なの?」
「わああああたしのるーかの柔肌に傷がついてるうう! 相手は何者!? この理紗様が成敗してやるう!」
るうかの右肘には事故の時に擦りむいた傷があり、今は大きな絆創膏を1枚ぺたりと貼ってもらって落ち着いている。他に怪我らしい怪我と言えば左脚のふくらはぎに少々切り傷があるくらいだが、こちらはハイソックスに隠れて見えない。ただし元々はいていたハイソックスは見事に切り裂かれて駄目になってしまった。るうか自身の被害はその程度である。あとは自転車が修復不能なほどに壊れてしまったくらいか。
「私はほぼ大丈夫。自転車は死んだけど。あと相手のトラックがかなりいってた」
「トラックとぶつかってそれくらいで済んで良かったよ……るうか、下手したら死んでたよ」
「るーかを殺したらあたし相手ぶっ殺しに行くからね! 覚悟してよね!」
「いや、るかりんに何を覚悟させたいのさ理紗」
今にも相手の運転手のところへ殴り込みに行きそうな理紗と、それを宥めているのかツッコミを入れているのかよく分からない静稀を見ていると、るうかの精神にも日常という安寧が戻ってくる。
それから午後の授業を受け、特に何事もなく放課後になった。心配だから送っていくという静稀に付き添われてるうかは昇降口を出る。理紗は部活だと言って静稀に全てを託して部室に向かった。
静稀は自転車を押しながら、るうかは愛車を失ったので鞄だけを持って歩きながら正門を出る。学校から少し離れたところで、静稀が真剣な顔をるうかに向けた。
「ねぇ、本当に大丈夫なの?」
「大丈夫だよ、擦り傷と切り傷だけだし、大して痛くもないし」
「そうじゃなくて。何か悩みがあってぼーっとしていたとかじゃないの?」
静稀は鋭い。そしてきっと、るうか自身が気付かないような小さな変化にも敏感だ。仕方なく、るうかは半分笑いながら冗談交じりのように言ってみせる。
「夢見が悪かったから、それでかな。ちょっとぼーっとしてたかも」
「夢?」
そう繰り返して、静稀は足を止めた。彼女の目があまりに真剣なので、思わずるうかも立ち止まる。
「静稀ちゃん?」
「ねぇるかりん。その夢って、毎晩同じ? というか、続く夢?」
「……え?」
「もしそうなら……気を付けた方がいいかもしれない。うちの兄貴も、そうだったから」
そう言って静稀はわずかに目を伏せた。
執筆日2013/11/01