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そういうことならいい人がいるよ、と教えてくれたのは笑顔の優しい、ふんわりとした印象の男の人だった。年はるうかとあまり変わらないくらいに見えたが、場所が場所だったので恐らくは大学生なのだろうと思われる。しかもあの近隣ではちょいと名の知れた某難関大学の。
だからというわけでもないが、教えられた場所へとやってきた。しかしるうかはそこで足を止めている。止めざるを得なかったのだ。何故ならそこにあったいかにもとってつけたようなアルミフレームのガタついた扉には、妙に重厚な木彫りの看板が掛けられ、そこにでかでかと“関係者以外立ち入り禁止”と彫り込まれていたのだから。
ふざけた話である。
もしや番地を間違えたかと手元のメモを見直すが、あの大学生がわざわざ書いて手渡してくれたメモは疑いようなくここの住所を示している。きっと君の話をよく聞いてくれるから。そう言われたからはるばる地下鉄に乗ってここまで来たというのに。とは言え自宅最寄りの駅からたった3駅、時間にして20分程度の距離だったが。
日常からの逸脱具合としては程よく、るうかの性格からしても無理のない冒険。そんなつもりで来てみたのだ。普通の女子高生が、暇な休日に、ちょっとだけ普段とは違うものに惹かれてやってきてみた。それだけのことだったのだ。
だからここでもういいやと回れ右をして帰ってしまうことは容易かった。途中の繁華街でぶらりと店を見て回り、気に入った服でも1着かそこら買って戻れば充分に不思議で愉快な休日として過ごせるはずだった。そう、るうかがここに来た切っ掛けとしてひとつの悩みがあるにはあるが、それはその程度のものに過ぎなかったのだ。
ただちょっと、おかしな夢を見たというだけで。
「なんだ、客なのか?」
るうかが日常へと戻ろうと手元のメモをポケットにしまいこんだ、まさにその時だった。後ろから気怠そうに投げられた声に視線を向ければ、声程には気怠そうではない……つまり意外と真剣な目をした背の高い青年がるうかを見下ろしていた。身体つきはがっしりしているがせいぜい20歳かそこらだろう。身につけているものは廉価で無難なことを売りにしている量販店のもので、色合いも地味だ。それでもこぎれいに着こなしているように見えるのはやはり身長があって姿勢も良いからだろうか。しかし惜しむらくは目つきがどうにもよろしくないことだった。細く眇められた眼差しはどう好意的に見ようとしてもるうかを品定めしているようにしか思えない。
あ、危険そう。るうかは意図せず後ずさった。背中が件の木彫り看板に触れる。関係者以外立ち入り禁止のここで声を掛けてくるということは、もしかするとこの青年はここの関係者なのだろうか?
「あー、あれだろ。あんた、こんくらいの背の、顔と愛想のいい大学生くらいの奴に声掛けられたんだろ」
突然合点がいった様子で、その青年は面倒臭そうに首を振った。やめとけやめとけ、あんたは性質の悪いナンパに引っ掛かったんだよ。そう言って彼はるうかの肩を軽く掴んで扉から引き剥がすようにする。
「何か悩んでいることでもあるんでしょうが。そういうものよ、そのくらいの時分ってぇのは。忘れちまいな、それがあんたのためだ」
妙に忠告めいた口調で言って、それが逆にるうかの心に残ることには気付かない様子で、青年はちょんと彼女の肩を通りの方へと押しやった。じゃあな、と軽い挨拶だけを残して。
ガタついたアルミフレームの小さな扉を慣れた所作で開けて、高い背を丸めるようにしてくぐっていくその後ろ姿を、るうかは何となく最後まで見送っていた。
理紗には言わない方がいいだろうね。そう言って静稀はふうと溜め息をついた。るうかも友人の意見にはとても賛成だったので、重々しく頷いた。
日曜日の次なので月曜日である。休日の次なので登校日である。不思議なことなど何もない、それは当たり前に訪れる学校生活のとある一日の始まりである。今日も普通の日が始まると、そんなことを意識もしないままに日々は始まって終わって、そして続いていく。
理紗も静稀もるうかの友人で、数少ないというほどではないもののあまり多人数と親しくすることの好きではないるうかにとっては貴重な友人達である。るうかの気性も好みも大体のことを分かっているだろう2人と過ごすのは気が楽で、どうやら向こう2人も同じように思っているらしい。だから学校では大抵の時間を3人で過ごしていた。
その中で敢えて理紗1人を除け者にするようなことを言ったのには勿論訳がある。彼女はいつも登校が遅く、遅刻も少なくない。夢を見るのが楽しすぎるのがいけないんだよ、と以前どうしようもない言い訳をしていた。現実においてもどうも夢見がちなところの多い少女で、授業中ですらよくうたた寝をする始末。それでも成績はるうかとそう変わらない。それどころか理系科目についてはるうかより毎回良い点数を取ってみせるのだから理解できない。
そんな理紗だから、るうかが昨日1人で体験した……正確には体験する手前までいった非日常めいた経験については伏せておいた方がいいという話になったのだ。
それにしても、と静稀が首を傾げる。
「慎重派のるかりんがわざわざ出向いちゃうなんて。何? そんなに悩んでいたの?」
「悩んでいたってわけじゃあないんだけど」
「じゃあまさかその大学生がとてつもなく格好よかったとか。るかりんのお眼鏡に適うくらいに?」
「ちょっと待った。私そんなに理想高くないよ」
「でも彼氏作らないでしょ」
「そもそもそんな気がないし……静稀ちゃんだっていないでしょ」
「私はねぇ」
そう言って笑う静稀の表情はシニカルに決まっている。中学生の頃はショートにしていた髪を、彼女は高校に入ってから一度も切っていない。肩を越して伸びた髪は彼女をより大人びて見せていたが、同時に近づきがたい印象にもしていた。静稀は昔からそういうタイプの少女だった。
誰もが遠巻きに憧れ、気にする。しかし近付いて交友を持とうとする者は少ない。ましてや彼氏彼女の間柄になろうなどと。
思いも寄らないのだろうな、とるうかは思う。ある意味でそれは静稀の魅力で、また悪目立ちする部分でもあった。るうかにとっては本好きで話とテンポの合う友人なのでどうということもないのだが。
「で、結局大丈夫なの?」
「え?」
きょとんと首を傾げるるうかに、静稀は真剣な眼差しを向ける。
「悩み、1人で大丈夫なことなの?」
「ああ、そのこと。別に大したことじゃないよ。ちょっと変な夢を見たってだけだからさ」
そう、変な夢だ。おかしな夢だ。奇妙な夢だ。
別にピンクの象が踊り猫が笑うわけではない。白兎を追いかけて穴に落ちるわけでもないし、全てがあべこべの世界に迷い込むわけでもない。
ただ毎晩、るうかは誰かの声を聞くのだ。せっかく同じ夜にいるのに、会えないのは少し寂しいな。そんなことを言って彼は……そう、それは男性の声で、落ち着いてはいてもるうかとそう変わらない年齢だろうと想像できる声で。その静かな声で、彼はどこか面白そうに言うのだ。
『でも会えないならそれに越したことはないか。まぁもし会えたら、その時は』
その時は。
その続きを、るうかは聞いたことがない。
いつも夢はそこで唐突に終わる。いや、ときどき唐突でなく終わることがある。それはるうかに語りかける彼の声の向こうに突然の爆音が轟き、彼が何かを大声で叫んで、そうしてるうかははたと目を覚ますのだ。いつもの彼女の部屋のベッドの上で、変わらない天井を見上げて。
夢の中の出来事だと分かってはいても、そんな別れ方をした日には気になってしまう。彼は果たして無事なのだろうか。それでもまた次の夜に変わらず彼はるうかの夢に出てきて、そしていつもと同じように語りかけるのだった。
「本当に変な夢だけど、所詮は夢だから」
そう言って笑い飛ばしてしまうるうかに、静稀もそれ以上追及しようとはしなかった。やがて始業ギリギリの時刻に理紗が教室へと駆け込んでくると、その日はもうその話題がるうか達の口に上ることはなかった。
執筆日2013/10/11