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“天敵”とは簡単に言えば無茶な治癒術によって作り変えられた人間の成れの果てだった。
その事実を知ってるうかは確かにショックを受けていた。何しろ昨夜彼女はその手で“天敵”を殺したのである。元は人間だったものを殺したのである。人殺しをしたのである。その実感がゆっくりと、じわじわと湧き上がってきて、るうかはその身体を小刻みに震わせた。
「大丈夫か」
気付いた頼成がるうかの肩に手を載せる。その手から伝わる温もりは少しだけるうかの心を落ち着けてくれた。しかし震えは治まらない。頼成は手をるうかの背中にずらし、そこをぽんぽんとあやすように叩き、優しくさすった。それでもるうかの震えは完全には治まらず、彼は最後にるうかの背から手を回して反対側の肩をぎゅっと抱いた。るうかは驚いて頼成を見る。頼成は少し困ったような顔で、それでもとても心配そうにるうかを見ていた。るうかの震えはやっと治まった。
人の温もりは安心感を与えてくれる。るうかは何度か深い呼吸をした後、顔を上げて阿也乃を見た。阿也乃は少しだけ驚いた目つきでるうかの視線に応える。
「何かな、勇者」
「“天敵”は、一度そうなってしまったら人間には戻せないんですか。それこそ治癒魔法とかで」
「真っ当な質問だな。が、考えてもみろ。全身が異形細胞でしっちゃかめっちゃかになって人間を食うことにしか頭の働かない肉の塊になっちまった化け物に治癒魔法をかける余裕があると思うか? よしんばできたとしても、魔法による細胞の治癒再生より異形細胞の増殖の方が遥かに速い。結局はその治癒術師が食われてハイ終わり、だ」
ぱん。阿也乃は薄笑いを浮かべながら自分の両手を打ち鳴らす。手立てなどない、とその笑みが言う。
「殺すしかないんですか」
「殺されたくなければな。エサがなくて町に迷い込んだ熊なんかとは訳が違う。奴らは人間を食らうことを目的にしている。抵抗しなければ殺されるだけだ。やるかやられるか、シンプルな構図さ」
阿也乃の返事を聞いて、るうかは黙った。手には夢の中で“天敵”を殺した感触が残っている。それは夢の世界で身を守るためには必要なことで、結果としてるうかのしたことはイアシーチの町を救ったはずだ。しかしそれは人殺しだったのだ。
勇者は人を助けるために人を殺し、その血のために人から狙われもする。なんて報われない役割だろう。
しかしそれを言ったら賢者もそうだ。人を癒すことで感謝はされるが、それは“天敵”を生み出す危険と隣り合わせである。魔王によって呪いを受ければ“天敵”を生み出すことはなくなるものの、強い治癒術を使う度にその身体は石へと変わっていく。
魔王は“天敵”の発生を防ぐために治癒術師や賢者に呪いをかける。その破壊の魔法で“天敵”を倒す。まるで世界の秩序を守るかのように。しかしその存在と能力はやはり人から恐れられる。
誰も彼も報われない。そんな思いがるうかを悲観させた。肩を抱く頼成の手に力がこもる。
「“天敵”を人間に戻すための研究は進んでいる。要はその活動をうまいこと停止させて、異形細胞の増殖も止めて、その上で元の細胞を増殖させてやればいい。“天敵”には必ず弱点がある。それは元の人間の細胞が残っている部分で、そこを突けば“天敵”は自壊する。奴らの生命活動を保っているのは人間だった時の細胞なんだ。それが生命維持器官の役割を果たしているんだ。だからそこに残っている細胞を使って、元の人間の姿を取り戻させることは理論上不可能じゃねぇ」
そうだろ? 頼成はそう言って阿也乃を睨んだ。るうかを庇うように抱きながら言う彼に、阿也乃は喉の奥で笑いながらも大きく頷く。
「ああその通りだ。だがそのどの過程にも越えなければならない課題がある。ひとつに、“天敵”の活動や細胞増殖を止める、封印する手段は今のところ確立されていない。次に、残ったわずかな体細胞から全身の組織を再生することは難しい。言ってみればクローン人間を作るようなものだからな。最後に、その再生された人間は元の人間ではない。今言ったようにあくまで元の人間の体細胞から作られたクローンに過ぎない。同じ遺伝子は持っていても、当然記憶はないし性格だって全く同じにはならない。果たしてそれで“天敵”を元の人間に戻したと言えるだろうか? 俺は、違うと思うがね」
阿也乃の目は真っ直ぐにるうかを見据えていた。その眼差しに笑みはない。何かを問いかけるかのように、判断を迫るように、彼女はるうかを見ている。佐羽がやんわりと阿也乃の肩に触れる。
「昨日初めて夢の世界に飛び出したるうかちゃんには、まだ難しいよ」
すると阿也乃はふむと小さく頷いて佐羽の方へと視線を移す。
「そうだったな。俺が手塩にかけて育てた勇者るうかはまだ生まれたてのひよっこだ。これからどんどん夢の世界を見て、知って、それで判断してもらえばいいことだ。“天敵”を殺すかどうかだってお前の判断でいいんだぜ、るうかちゃん」
言葉の後半をるうかに向けながら、阿也乃は佐羽の額にちゅっと音を立ててキスをする。佐羽は少しくすぐったそうに微笑んだ。それは姉と弟がじゃれあっているようにも見え、あるいは母と息子の間の親愛を表す行為のようにも見えた。阿也乃は視線を佐羽からるうかへと戻して、「とにかく」と仕切り直す。
「お前は俺の育てた勇者だ。“天敵”を倒す力には全く不足も不安もない。相手が元人間だろうが、結局奴らは生きている人間の敵だ。夢の世界の安全のためにその拳を振るってくれることを期待しているよ。……と、これは餞別だ」
そう言って阿也乃はテーブルの上に置いた箱の蓋を開いた。中にはカードが1枚入っており、彼女はそれをつまんでるうかへと差し出す。普通のカード類より一回り大きなそれには武器らしき絵が描いてあった。何かのゲームに使うようなカードだな、と思ったるうかに対して頼成が横から説明を加える。
「それは夢の中に持って行ける道具だよ。ありきたりな方法だが、枕の下に敷いて寝れば夢の世界で武器が実体化する」
「そんな漫画みたいな話が」
「夢の世界で勇者をやること自体が充分に漫画じみているでしょうが。……どっちにしたって、素手よりマシだろ?」
そう言われてるうかは改めてカードに描かれた武器を見つめた。刃の短い、小ぶりの剣が2本対になっている。昔遊んだゲームの記憶を引っ張り出してみるに、確かカタールと呼ばれる類の小剣だ。握りが刃に対して垂直になっており、斬るより突く方により力のかかりやすい形状をしている。そしてその他の特徴として、刃がとても鮮やかな赤色をしていることが目についた。
「赤いな」
隣の頼成が顔をしかめながら言う。夢の世界でのるうかの衣装を見た時もそうだったが、彼は赤色に何か嫌な思い出でもあるのだろうか。同じようにカードの絵柄を覗き込んだ佐羽も「赤いね」と言って、しかし彼は笑顔でるうかを見る。
「きっと似合うと思うよ」
「そうですか」
武器が似合う女子高生というのも奇妙な話だ。いや、向こうでは勇者なのだから似合ってもいいのか。そしてそれを使って“天敵”を倒すことが仕事になるのか。そんな夢がずっと続くと、そういうことなのか。るうかは半ば麻痺してきた頭の隅で思う。どうせ、夢なのだから……と。
「さて、説明することはしたし、渡すものは渡したし。あとは何だ、次の目的地がどうとか言っていたっけな」
阿也乃が佐羽を見て、佐羽はうんと頷く。
「しばらくイアシーチには近付かない方がいいと思うんだ。るうかちゃんはまだあっちの世界に不慣れだし、余計な危険に晒したくない。どこか手頃な場所であの世界に馴染んでもらえたらなと思ったんだけど。ゆきさんはどう思う?」
「ま、悪くはねぇな。とすると……」
阿也乃はそこまで言ってうーんと天井を見上げて思案する仕草をする。低めの天井には大きな間接照明の器具があり、それが部屋全体に淡い光を注いでいた。やがて阿也乃はふと思いついたように言う。
「だったらアッシュナークに行ってみたらいい。あそこなら人も多いから紛れやすいし、近くには弱い“天敵”がよく出るから戦闘の練習にもなる。何よりるうかにはあそこを一度見せておいた方がいいだろ。なぁ頼成?」
阿也乃に視線を向けられた頼成はびくりと震えた。抱かれた肩から彼の動揺が直接伝わり、るうかはすぐ横にある彼の横顔を見る。彼の灰色の目には緊張と、少しの恐怖の色があった。それでも彼は小さく頷くと「そうだな」と阿也乃に答える。
「見ておいてもらった方が……いいかもな」
「じゃあ決まりだ。夢に入ったら真っ直ぐアッシュナークに跳べ。助太刀はいるか?」
「要らねぇよ。そのくらい何とでもできる」
「あまり無理をして寿命を縮めるなよ、石化気味の賢者」
「うるせぇよ大魔王」
喧嘩腰ではあるが慣れた調子で阿也乃に対して捨て台詞を投げると、頼成はるうかの肩を抱いたままソファから立ち上がった。るうかは驚いたものの、まだ頭が混乱していたので素直に彼に従う。そして彼は阿也乃とその隣に座って微笑んでいる佐羽を置いてさっさと建物を出た。
ガタついたアルミフレームの扉を開けて、後ろ手にそれを閉めて、ポケットの中から取り出した鍵で外からそれを閉めて、それからやっと頼成はるうかの肩から手を離す。るうかは突然支えを失ったような気がして、思わず頼成を見上げた。るうかより頭ひとつは高い位置にある彼の瞳は真っ直ぐにるうかを見下ろしていて、それでるうかは少しだけホッとする。頼成は片手を自分の頭の後ろにやりながら、少しだけ目元を歪めて口を開いた。
「悪かったな。待ってるって言ったのに先に来させて、怖い思いさせて」
「いいえ、大丈夫です」
るうかはすぐにそう答えた。確かに怖い思いをしたし、あの阿也乃という女性にはしばらく会いたくないと感じるほどだが、それでも頼成は充分彼女を庇ってくれたと思う。これまであまり男子と縁のなかったるうかとしては嬉しい気持ちがないでもない。そんな浮かれた場合でないこともはっきりと分かっているが、誰かに大切にしてもらえるというのはやはりありがたいものだ。
「ありがとうございました」
だから素直に礼を言った。言われた頼成の方は少しだけ驚いた顔をして、それでもどこか安心したように口元を持ち上げてみせる。相変わらず目つきはよろしくないが、その笑顔は優しそうに見えた。
それから頼成はるうかを駅まで送ってくれた。モテないと言っていた割にはマメである。
「じゃあ、また夢で」
彼はそう言って軽く手を振ると、るうかが改札を通るのを待たずに踵を返して帰っていった。るうかは聞こえない程度の声で、その背中に向かって声を投げる。
「また、同じ夢で」
執筆日2013/10/27




