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るうかは自分の拳を見つめていた。ぎゅうと握りしめた2つのそれは真っ赤で、溢れんばかりの血に染まっていた。拳に感じる痛みはない。そこに傷はない。
自分の血ではないことにホッとして、それに自分がホッとしていることに恐怖する。他者の血ならいいのか? 両の拳が血にまみれていていいというのか? それが何故なのか、理由を問おうとは思わないのか?
るうかの脳内で警鐘が鳴る。思い出せ思い出せと叫ぶようにガンガンと響く。そしてるうかは思い出す。自分が殴りつけた肉塊……“天敵”が面白いように弾け飛んだことを。その時に浴びた血の熱かったことを。拳に感じた硬い弾力と、それを打ち抜く力と快感を。
自分がそれを殺したことを。
ピピピピピ、ピピピピピ、ピピピピピ……
か細い電子音が聞こえてきて、嫌な夢を打ち払ってくれた。るうかは枕元に手を伸ばし、赤い目覚まし時計を見つめる。今見たものは普通の夢だったのだろうな、と思いながら時計の上にある丸いボタンを押して電子音を止めた。
それとも、全部が全部ただの夢だったのだろうか。もう一度眠ったとしても、あの夢の続きなど見ないのだろうか。それなら、どんなにか気が楽だろう。夢の中で頼成が言ったことが、それこそ夢の中だけのものなら。あの夢が“覚めない”など、考えただけでも恐ろしい。
確かめてみようか。
るうかは同じく枕元の充電器に差してあった赤い携帯電話を手に取る。昨日そこに登録したばかりの名前を呼び出して、逡巡する。それから一度携帯電話をベッドの上に置いて、トイレに行って歯を磨いて顔を洗って着替えをした。髪型を整えて、そしてもう一度携帯電話を手に取る。メールアドレスを選択し、考え考え文章を打ち込んでいった。
『槍昔さんへ
おはようございます
朝早くすみません、舞場です
昨日は奢ってもらってありがとう
ございました
体調は大丈夫ですか?』
考えた割にはどうにも素っ気なく、そして内容の曖昧なものになってしまった。それでももし頼成が昨夜のるうかと同じ夢を見ていたのであれば、きっと最後の1文に込められた意味が分かるだろう。そしてそうでなければ何の話かと訝しがられることだろう。答えはどちらだろうか。
メールの着信を気にしながら、るうかは朝食をとって学校へと向かった。通学の途中で数学の小テストのことを思い出したが、昨日勉強したことなどほとんど頭から抜けてしまっているような気がした。
学校に着くとまず駐輪場に自転車を置き、それから昇降口へ向かう。そこで同じく自転車通学をしている静稀から声を掛けられた。
「おっはよー、るかりん」
台詞は軽いがテンションは重い。静稀は朝が弱いのでいつもこんな調子だ。るうかはおはようと挨拶を返した。
「静稀ちゃん、数学の準備してきた?」
「あー、小テストねー。あんまり。昨日はつい遅くまでネットしちゃって……」
ネットは魔物だよ、そう言って静稀はるうかの肩に手を置く。
「るかりんはあんまりのめり込むんじゃないよー。これは静稀お姉さんからの忠告だよー」
「あはは。うち、ネットは居間のパソコンじゃないと使えないからあんまりやらないんだよね。課題とかで必要な時は使わせてもらうけど」
「あー、その方がいいかも。ゲームとかやり始めると寝らんないよ、マジで」
「マジで?」
他愛もない話をしながら教室へと向かう。結局、放課後までるうかの携帯電話にメールは届かなかった。
予備校に行くという静稀と別れて、るうかはもう1人の友人である理紗と2人で放課後の廊下を歩いていた。2人共、英語の課題のために図書室から本を借りていたため、一緒に返しに行こうということになったのだ。図書室のある4階は校舎の最上階にあたり、見晴らしがいい。廊下の突き当たりの窓からは緑に囲まれた広い敷地が見える。ここから一番近い大学、春国大学の敷地だった。
「るーか、どうかしたー?」
ふわふわと、どこか地に足のついていないような様子で歩く理紗がるうかに問う。窓の外をみていたるうかはいやいやと首を振った。
「そろそろ夏も近いなと思って」
「暑くなってきたもんねぇ。るーかちゃん今年は海行こーよ海ー。るーかちゃんの水着姿が見たいです!」
「見たいですっ、と言われましても」
どうせプール授業で見られるよ。そう言っても理紗は聞き分けない。
「ダメダメダメ。プール授業なんてつまんない。あたし泳げないし。青い空と紺碧の海をバックに! ちょー際どいビキニ姿の! ちょっぴりこんがり小麦肌の! そんなるーかが見ーたーいー!」
「そんなサービスはありません」
「ビキニは赤で決定ね! 大胆な柄でね! 胸元ばっちり開いたヤツね!」
「そういうのはスタイルのいい静稀ちゃんに頼めば?」
「るーかの方が胸おっきいもーん」
「そういう基準ですか」
神聖な? 図書室の前で一体何の話をしているのだろうか。そして理紗のこのテンションは一体どこから来たものなのだろうか。
「るーかちゃん、いっそばっちりエロっちい紐水着とかどう!?」
「いい加減にしろ」
ぱこん。持っていた本で頭をはたいてやれば、同級生の水着姿に謎の期待を寄せる同性の友人はニヤニヤしながらも口をつぐむ。彼女は彼女でどの辺りがるうかの堪忍袋の限界かをしっかり把握しているらしい。それにしてもこの友人はいつもこんな調子だ。何となくだが佐羽の笑顔が脳裏に浮かんだ。るうかと理紗のやりとりも、傍から見れば彼と頼成のやりとりと似たようなものなのかも知れない。
資料本を返すついでに何か面白い本でもないかと2人は図書室の棚を巡る。そしてるうかはついつい占いだの夢解きだのといった本の並ぶ棚の前へと来てしまう。この学校の図書室は蔵書の幅が妙に広い。
「おやおや、るーかちゃんは恋のお悩みですか?」
「いや全然。ねぇ、理紗ちゃんはよく見る夢とかある? 変な夢とか」
話を振ってみると、理紗は何故か得意げに胸を反らして鼻を鳴らした。小柄な理紗がそうしてもあまり威圧感はなく、何か可愛らしい小動物でも見ているような気持ちになる。リスの耳辺りが似合うだろうか。とにかく理紗はよくぞ聞いてくれましたとばかりに喋り始めた。
「ここのところのあたしはすごいよー。女王様になって周りに可愛い女の子のメイドさんを何人も侍らせてうっはうはだよー」
「それ……夢?」
「そう、夢の中の理紗式ハーレム!」
メイドさんの衣装はあたしの特注でフリフリのミニスカにおっきな白リボンなのさ、と余計な趣味まで暴露している理紗を横目に、るうかはそれは楽しそうなことで、と溜め息をつく。その行き過ぎたオヤジ趣味はどうかと思うが、少なくとも血生臭くないだけるうかの夢よりましだ。現に理紗は随分と幸せそうに夢の内容を語っている。
「ああー、今夜もあの夢見たいなっ! そして現実には叶わないるーかちゃんのエロ水着を堪能するのさー」
「もし理紗ちゃんがそんな夢を見た日には、全力で叩き潰しに行くよ」
「徹底抗戦するぜ!」
ニヤリ、と笑って理紗はるうかを見上げた。夢の中の彼女はとても強気なようだ。確か女王様だとか言っていたので、それなら強気にもなるというものだろうか。しかしそれならるうかだって勇者である。自分をダシに妙な妄想をしでかそうとする悪い友人には夢の鉄拳をお見舞いしてやるところだ。
ぶぶぶぶぶ
その時、るうかの制服のポケットに入っていた携帯電話が震えた。るうかはハッとしてすぐに画面を開く。メール1件受信。発信者のところには槍昔頼成と名前があった。
『メールどうも
返事遅くなって悪い
体調は大丈夫
心配サンキュ
そっちは大丈夫か?
ところで、今日この後予定ある?
もし大丈夫なら、ちょっと話したい』
メールの文面を覗き込もうとする理紗をかわし、るうかは図書室の外で頼成に電話をかけた。2コールですぐに相手が出る。
『ああ、舞場さん。今大丈夫だった?』
「はい、もう放課後なので。それより……話って」
『電話じゃちょっとな。“夢”についてだ』
「やっぱりですか」
頼成からの返信を見た時点でそうくるだろうとは思っていた。というより、それ以外には考えられなかった。昨夜の夢は夢で終わらないらしい。
「直接会った方がいいんですね。どこがいいですか」
『初めて会った場所、覚えてるか?』
びくり、とるうかの手が震えた。
「落石さんに教えてもらった……?」
『そう、立ち入り禁止ってふざけた看板のあるボロビルだ。良ければあそこまで来てほしい』
「立ち入り禁止は……」
『無視していい』
いいらしい。あの建物はここから一番近い地下鉄駅から2駅のところにある。寄り道してもさほど遅くはならないだろう距離だ。るうかは電話を手に頷いた。
「分かりました、行きます」
『悪いな、ありがとう。向こうで待ってる』
そう言って頼成は電話を切った。ツー、ツー、と聞こえてくる音に、るうかはぐいと口元を引き締めた。
執筆日2013/10/27