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粉々になった肉片は少しの間うぞうぞとうごめいて、やがて沈黙した。赤黒く変色していくそれらを見ながら、るうかは茫然と立ち尽くす。彼女は全身に“天敵”の血を浴びていた。生臭い臭いがまとわりつき、拳には肉をぶち破る感覚が生々しく残っていた。自分は生物を殺したんだなぁ、という感覚が漠然と胸に湧き上がって、そしてそのままそこにわだかまった。
「お疲れ様、よくやったね」
近付いてきた佐羽がそんなありきたりな言葉でるうかを労った。るうかは何も言えなかった。代わりに頼成が、遠慮なく佐羽の横っ面を張り飛ばした。
「何考えてんだてめぇは」
ドスの効いた低い、低い声。佐羽は悪びれずに答える。
「るうかちゃんなら勝てると思った。あの程度の相手だもの」
「そういう問題じゃねぇ! てめぇは舞場さんを何だと思っているんだよ!!」
がん、と今度は近くの壁を殴りつけて頼成が怒鳴る。衝撃で、壁にこびりついていた肉片のいくつかが地面に落ちた。乾いたそれを踏みつけ、佐羽は笑う。
「頼成こそ、何だと思っているのさ。るうかちゃんは君に守られなければならない程かよわい女の子?」
「……」
「俺と君ですら手を焼く“天敵”を拳ひとつで倒せる子を、君が守れるの? 君ごときが?」
笑っちゃうね。そう言って佐羽は実際に鼻で笑った。守られるのは君の方だよ。佐羽はそう囁く。
しばらくその場はシンと静まり返っていた。時折頼成が深く細く息を吐いた。ひゅうー、と苦しげな音が漏れた。
がちゃり、と近くの家の扉が開く。
るうか達がそちらを見ると、驚いた顔の中年の男と目が合った。男は道に散乱した血と肉片を見て、血にまみれたるうかを見て、それからわっと声を上げて外に飛び出してきた。
そして彼はるうかの手を取った。
「倒してくださったんですね、“天敵”を!」
るうかの、“天敵”の血にまみれた手を強く握りしめて男は感極まったように叫ぶ。
「ああ、良かった! 勇者様がいてくださって本当に良かった! ありがとうございました!」
勇者。るうかは男に手を握られたままその単語を口の中で反芻する。勇者。なるほど、“天敵”を倒すほどの怪力の持ち主はこの夢の世界ではその呼び名で呼ばれるらしい。そのうち分かる、と言われた意味がやっと理解できた。
「おい、そろそろ離してやっちゃくれねぇか? 今さっきまで戦闘してたんだ、こいつも疲れている」
頼成がそう言ってるうかと男の間に割って入った。これは賢者さん、と男は笑顔のままるうかの手を離して引き下がった。自分の手に付いた血については特に気にならないらしく、彼は本当に心の底から安堵したように笑っていた。
「勇者様、あなたのおかげでイアシーチの町は救われました。どうかお礼をさせてください。朝になったら町のみんなを集めて歓迎会を開きましょう。私はこれでも町の顔役なんです。みんなに声を掛けて、勇者様を讃える宴を開きたいと思います」
「お気持ちだけ、いただいておきます」
横から出てきた佐羽がそう言ってにこりと笑いながらるうかの前に出た。頼成と佐羽はるうかを庇うように前に立ち、頼成はその身長と目つきで、佐羽は底の知れない笑顔で男を圧倒する。
「俺達はもう次の町に行かなくてはならないので」
「“天敵”が出るのはこの町ばかりではないですからね」
やんわりと拒絶の言葉を続ける2人に、男は一瞬だけ意味ありげな視線を向けた。その手元が何かを示すように小さく動く。るうかがそれに気付いて視線を向けると、男は慌てて手を引っ込めた。はぁ、と頼成がこれみよがしな溜め息をつく。
「バレてるぜ、下衆。引っ込め」
「……下衆はどっちだ、人殺しが」
「てめぇ」
頼成が男を睨みつけた。そして彼が動くより早く、佐羽が微笑みながら頼成の前に立つ。男を笑顔で睨みつけながら、告げる。
「そんなに呪われたい? 俺はこれでも鈍色の大魔王直属の魔王なんだ。あなたを未来永劫苦しませる呪いをかけてあげられるよ。どんなのがお好み? どんな食べ物もカビの味がするようにしてあげようか? 毎日両手両足のどれか1本ずつが痺れて動かなくなるようにしてみる? 目に見える全てのものがあなたに死ねと囁くようにしてみるのもいいかな? さぁ、あなたはいつまで耐えられるでしょう?」
長い杖の先を男の眉間に向け、キラキラと輝く鳶色の瞳に底知れない悪意を滲ませて、佐羽は不気味な呪いの例を並べ立てる。
「それとも、いっそ全部かけてあげようか」
笑みの形の口で、魔王は言った。ぞっとする程に冷たい声で、刑を宣告するかのように言った。
男は一度ぶるりと身を震わせた後、何も言わずに家の中へと戻った。
ぱたん、と扉の閉まる音がした後でやっと佐羽は杖を下ろす。そして面白くなさそうに言う。
「やっぱり何かかけておけば良かったかな」
「やめておけよ、余計評判落とすぞ。未遂なんだから見逃してやろうや」
「君が殴るよりはマシでしょ? せいぜい一生鼻水が止まらなくなるくらいの軽い呪いにしておくから」
「それは地味にすげぇ困る」
鼻炎持ちの人に謝れ、とよく分からないことを言って、頼成は佐羽の頭を小突いた。佐羽はふふっと笑って頼成を、そしてその後ろに隠れるようにして立つるうかを見た。その表情は不思議な程に優しい。
「じゃ、行こうか。まずは宿屋に行って荷物を取ってこないとね。るうかちゃんは頼成を連れて先に町を出ていて。あの丘で落ち合おう」
「町を、出るんですか」
るうかは怪訝に思って聞き返す。先程の男に言っていたように旅立たなければならないのだとしても、明日の朝まで待ってよさそうなものだが。しかし佐羽はわずかに声をひそめつつ肯定する。
「そう、出るんだ。なるべく早く。あの男が仲間を集めてこないとも限らない」
「訳は後で説明する」
頼成もそう言ってるうかの腕を取った。
「逃げるぞ、“勇者”」
“天敵”を倒して町を救った勇者が夜逃げのように逃げなくてはならないとは一体どういうことだろうか。るうかにはさっぱり分からなかったが、先程の男の怪しげな様子といい、頼成達の切羽詰まった表情といい、とても無視できるものではなかったので素直に言うことを聞くことにした。
宿屋へ向かう佐羽と別れ、るうかと頼成は町の出口へと向かう。“天敵”の残した血の跡はまだ黒々として、生々しかった。るうかは一度自分の手を見て、赤い革手袋に包まれたそれを見て、血の色が目立たないことに少しだけホッとする。ひょっとすると佐羽がるうかの服に赤を選んだのはそういう理由だったのだろうか。るうかが“勇者”だから。勇者は“天敵”を殴り殺して返り血を浴びなければならないものだから。だから少しでもそれが目立ちにくい赤い服を、用意してくれたのだろうか。
先を歩く頼成が振り返ってるうかを見た。大丈夫か、と気遣わしげな顔で問われる。
「大丈夫です」
「何がだよ」
「怪我はないです」
「そっか。“天敵”に殴られたところは?」
「ちょっとぶつけたくらいの痛みです。怪我って程じゃないと思います」
「そりゃ良かった」
「槍昔さんは、大丈夫ですか。歩きにくくないですか」
「平気だよ」
そう言って立ち止まり、頼成は武器を持っていない方の手でくしゃりとるうかの頭を撫でた。突然の、しかし自然な動作だった。るうかはつられて立ち止まり、その大きな手に撫でられるまま戸惑う。高校生にもなって誰かに頭を撫でられるなんて思っていなかった。るうかの記憶にある限りでは、最後に頭を撫でられたのは小学生の時、なかなか跳ぶことのできなかった跳び箱の6段を初めて跳べた時に担任の中年の女の先生からだっただろうか。やったね、諦めないで頑張ったね。そう言って褒めてくれた先生のぷっくりとした手とは随分違う、大人の男性の大きくごつごつとした手が今るうかの頭を撫でている。いつまでそうしているつもりなのだろう。るうかがやや怪訝に思い始めたその時、頼成が言った。
「ありがとうな。あんたに心配かけるつもりじゃなかったんだがねぇ」
「心配、しますよ」
「でしょうね、あんなん見たらね。でも俺は平気だ」
きっぱりと言って、頼成はるうかの頭に手を載せたまま少し背を屈めて彼女の目を見つめる。
「俺はあんたの方が心配だ。いきなり戦闘に放り込まれて、怪我もほとんどなかったにしたって、それでも怖かっただろ? 嫌だっただろ? どんなに文句を言ってもいいんだぞ。俺や佐羽になら」
なるほど、頼成はそれを心配してくれていたらしい。るうかは頭に手を置かれたまま少し考えて、その手から伝わる温もりの意味を考えて、それでも小さく首を横に振った。
「よく分かりません。私は臆病な方だけど、思ったよりも怖くなかった気がします。でもそれもひょっとしたら今はちょっとパニックになっているからなのかも。なんだかよく分かりません」
「そっか……そりゃそうだ。パニックになって当然だ。その辺も、別に焦らなくていいよ」
もう一度るうかの髪をくしゃりとやって、それから頼成はるうかの頭から手を退ける。るうかは乱れた髪に手をやって、ほんの少しだけ笑った。
執筆日2013/10/24