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出番だよ、と言われてるうかはとても嫌な予感がした。見れば佐羽はいつものにこやかな表情ではなく意外な程に真剣な眼差しをるうかに向けている。緊張しているのだろう。
「この笛の音は何ですか」
まずるうかはそれを尋ねた。警報だよ、と佐羽は答える。
「“天敵”が町の近くに現れたっていう警報だ。だからみんな建物の地下にあるシェルターに避難しているんだ」
「出番だっていうことは、私は逃げちゃダメなんですか」
「ダメっていうことはないけど。でも、君のその力があれば勝てない相手じゃないと思うよ?」
佐羽は真剣そうな表情のままそう言って、先程るうかが張り倒した頬をさすってみせる。しかし佐羽のような細身の人間1人を張り倒せるくらいの腕力でかなう相手であれば、こんな警報で避難を促すこともないように思えるのだが。
半信半疑のるうかを連れて、佐羽は店の外に出た。飲食の代金はきちんとテーブルに置いてきた。外は暗く、現代日本と比べると街灯の数も明るさも少なかったが、不思議と遠くまでよく見ることができた。
「さて、“天敵”が出たのはどっちの方角かな?」
そう呟いて、佐羽がきょろきょろと辺りを見回す。するとその時少しだけ強い風が吹いて、そこに何か何とも言えない嫌な臭いが混じっていた。るうかと佐羽は同時に顔を見合わせる。
「分かった? 今のが“天敵”の臭いだ」
「すごく脂っぽいような、血みたいな臭いでした」
「うんそう。俺は見たことないけれど、きっと人の腹を裂いたらこんな臭いがするんじゃないかな」
「嫌なたとえをしないでください」
言い合いながら、2人は風の吹いてきた方角に向かった。異臭はどんどんはっきりしてくる。るうかは顔をしかめて「マスクが欲しい」と言った。佐羽は苦笑いする。
「そんなに厳しい?」
「胸の悪くなる臭いです」
「そのうち慣れるよ。慣れたら意外と大丈夫になる」
「できれば慣れたくないです」
「嫌でも慣れることになるよ」
そう不吉なことを言って、佐羽はふんわりと笑った。彼のこの表情はきっと何か良くないことを考えている時の顔なのだろうと、るうかにもやっと分かってきた。臭いはますます濃くなり、るうかの鼻を刺激する。
深く息を吸い込めばそれだけで吐き気がしそうだった。るうかはなるべく口で息をするようにしながら、佐羽と共に臭いのする方へと向かっていった。そしてそれは思ったよりも近くにいた。
それは町の広場に繋がる道を這いずるように進んでいた。ずるりずるりと石畳に身体をこすりつけ、何か意味の分からない言葉を発しながら。それは夜闇にも分かる赤とピンクの健康的な肉の色をしていた。ところどころ、肉の中にうっすらと太い血管が走っているのが見て取れた。それはるうかがこれまでに見聞きしたことのあるどんな生物とも似ていなかった。生物とは思えない形をしていた。というより、そもそもきちんとした形を成していなかった。人間よりも2回りくらい大きな歪な肉塊。そう表現するより他ないものだった。それでもそれはどこからか声を発し、何かの目的を持って進んでいた。皮膚のない肉の表面は石畳にこすれる度に傷付き、引きずった血の痕跡をしっかりと残してきていた。
広場の反対側の陰からその姿を見たるうかは小さく溜め息をついて、隣の佐羽を見上げる。
「あれが……“天敵”ですか」
佐羽は不気味な程の無表情で一度頷いた後、軽く微笑みながら「怖い?」と尋ねた。るうかは少し考えてから首を振る。
「よく分かりません。あれは何ですか」
「その名の通り。るうかちゃんは天敵ってどういうものか分かるよね?」
「アブラムシにとってのテントウムシみたいなものですか」
「そうだね。その生物にとっての捕食者だ。厳密には、自然界でその種の生物を捕食したり、その生物に寄生したりすることでそれを殺したり数を抑制する他の種の生物を言う。食うもの食われるものの食うものの方だ」
肉塊は広場の辺りまでやってきた。その歩みは遅い。佐羽は再び口を開く。
「現実……この夢じゃない方の世界では、幸いなことに人間を捕食する生物種はいない。人間は生態ピラミッドの頂点に君臨することができている。けれどこの夢の世界はそうじゃない。人間に、“天敵”がいる」
それがあれだよ、と佐羽は肉塊を指差した。シンと静まり返った町の中を、肉塊……“天敵”は獲物となる人間を求めて歩いている。人の臭いを頼りに広場まで来たのだろうか。しかし多くの人は警報を聞いて地下へと逃げていることだろう。獲物は簡単には見付からない。ところが。
るうかと佐羽が息をひそめて見ていたその目の前で、広場の側溝から何人かの男達が飛び出した。武装はほとんどしていない。手には手斧やら鉈やらのこぎりを持って、彼らは“天敵”に襲いかかった。
「あ、馬鹿!」
佐羽が慌てて陰から飛び出す。しかし一足遅かった。“天敵”は男達を見付けるや否や嬉しそうに一声上げて、その身体をぱっくりと開いたのだ。肉塊が自ら肉叩きで叩かれたようにびろんと横に広がって、まるで迫り来る男達を迎え入れるようにその懐に入れた。そしてすぐに広げた肉のひだを、男達を包むようにして畳み込んだ。ごき、とかぐちゅ、とか、そういった異様な音がすぐ近くに聞こえた。
佐羽が“天敵”に向けて魔法の衝撃波を放つ。飲み込まれた男達ごと粉砕してしまいそうな一撃は、しかし“天敵”によって地面に叩き落とされた。あろうことか、それは目に見えない衝撃波を肉を伸ばした腕のようなもので地面に向かって叩きつけたのである。広場の石畳は大きく抉れたが、“天敵”の肉の表面からはわずかに血が散っただけだった。佐羽が悔しそうに舌打ちする。“天敵”は次の獲物を佐羽に定めて向かってくる。その速度は先程までより速い。
「るうかちゃん、一度逃げるよ!」
佐羽はそう言ってるうかを道の奥へと走らせた。走りながら、あれは人間を取り込む度に強くなっていくんだと今更の説明をする。
「落石さんの魔法も効かないんですか」
確か研究所の掃除屋機械はあれでいくらでも倒せたはずだ。肉塊は機械程頑丈そうには見えない。
「弱点に直撃させれば木端微塵に吹き飛ばす自信があるよ。でもあの増殖する肉の再生力の方が強くて、俺の瞬間の魔法だけじゃああやって防がれてしまう」
「弱点があるんですか」
「どこかにあるはずなんだ。どこにあるのかはその個体によって違うから、あれの弱点がどこなのかは分からない。それを探ってから一気に攻勢をかけようと思ったんだけどね」
何か調子に乗ったのが出てきちゃったからそうもいかなくなったよ。佐羽は嫌そうにそう呟いた。側溝に隠れていた男達は町を守りたかったのだろうか。それとも“天敵”を倒して格好をつけたかったのだろうか。それは今となっては分からないが、るうかは死んだ彼らを悪く言うことはできないと感じた。
「少し距離を稼いだら、弱点を探る。あれの表面のどこかに肉じゃない部分があるはずなんだ。そこが弱点だよ。見付けたら遠慮は要らない。そこを、君のその拳で思いっきりぶん殴って」
佐羽が言って、るうかはえっと聞き返した。
「殴るんですか。それで効果があるんですか」
「俺が先に見付けたら俺が仕掛けるけど、君が先に見付けたら君がやって。大丈夫、君の拳ならいける」
「その保証は実感からきているんですか」
「うんその通り」
佐羽は頬を押さえて笑い、あれは痛かったよ……と少しだけ遠い目をした。女性に殴られるのは慣れているつもりだったんだけど、と何か余計なことまで呟いている。
そんな佐羽を横目にるうかは考えていた。果たして、自分があの恐ろしい“天敵”を殴れるだろうか? 殴ろうとして近付いたところを先程の男達のように食われてしまうだけなのではないだろうか? 佐羽は大丈夫と保証してくれるが、その根拠が先程の一撃だけというのも随分心許ない話だ。
「やるしかないんだよ」
佐羽が横からそう囁く。
「できる誰かがやらないと。この町の人はやがてみんな食べられてしまう。“天敵”は少しずつ知恵を増していく。成長するんだ。そしてそのうち地下の入り口を見付けて、こじ開けて、肉の腕をにゅるりと伸ばして、中にいる人を食べてしまう。そうやって滅んだ町はたくさんある」
「それは嫌な話です」
「でしょう? ほら、そろそろいい距離だ。少しずつ近付いて、弱点を探って」
「それを叩けばいいんですね」
すう、とるうかは息を吸い込んだ。肉と脂と血の臭いが腹の底まで染みわたるような気がした。
執筆日2013/10/24